101.グッドマン、驚愕する
(いったいなにがあったのですか?バクスター様?)
2年半前にアクセルに言ったのと同じ言葉を、グッドマンは心でリンに問いかけた。
(あなたにいったいなにが起こったのですか?旦那様にもミリアム様にも明かせない、そんななにかが?)
と、その時だった。
トントン
ドアを叩く音がグッドマンの物思いを中断させた。
すぐに誰何しようとしたが、声を上げることで2人を起こしてしまうことを危惧したグッドマンは、ドアに向かい足を向けた。
有能な執事らしく、ほとんど足音をたてずに引き戸式のドアに近づき、手をかけると、これまた静かにその扉を開けた。
そこには、赤ん坊を抱いた、若い女性が立っており、一目で彼女が不満そうに唇を尖らせているのがわかった。どう考えても、見覚えのない女性だった。
「おやおや、お嬢さん、病室をお間違えでは?」
やんわりと言うグッドマンに、少し決まりが悪そうに、しかし断固とした口調で彼女は言った。
「バクスター先生がここにいる、って言われて来たんデスけどォ?」
今時の若者らしい、少し舌を巻き気味な喋り方で、彼女が言う。
(ああ、バクスター様の患者さんですね、きっと)
グッドマンはそう合点して、ニッコリと笑った。
「申し訳ありませんが、バクスター先生は診察中でして、もう少しかかりそうなのです。よろしければーー」
しかし、グッドマンの余裕もそこまでだった。
目の前の女性が、わざとらしく大きなため息をつきながら、重そうな大きなバッグを足下に置き、腕に抱いた赤ん坊を抱え直したことで赤ん坊の向きが変わり、その顔がはっきりと見えた途端、言葉を失ってしまったのである。
驚きのあまり立ちつくし、グッドマンの視線はその赤ん坊に釘付けになった。
(こ、これは……!?)
女性の腕に抱かれて、興味深げにグッドマンを見つめ返すその大きな瞳。それは、けぶるような灰青色の大きな大きな瞳だった。更に、その頭は金と銀と赤が茶色の中に無秩序な縞を描いたなんとも不思議な色あいの髪の毛で覆われている。肌はうっすらと真珠のようなクリーム色で、頬はピカピカとピンクの光沢に光っており、、血色の良いイチゴのような濃い紅色をしたその唇に、可愛い黄色のおしゃぶりを加えている。
いつものそつなく有能な執事であるグッドマンだったら、すぐにでも腰をかがめ、目線を合わせて優しく声をかけ、あやすことができたに違いない。しかし、今この時に限っては、まったくもって頭は混乱し、驚天動地の上、言葉は喉の奥で凍りついてしまい、たった一言、呟くことしかできなかったのである。
「……だ、旦那様?」
そうーー、その不思議な髪の色合いを除けば、この嬰児はそれくらい、グッドマンの記憶の中にあったアクセルの小さい頃に瓜二つなのだった。
と、幸か不幸かそんなグッドマンの様子にまったく頓着しない、脳天気でぞんざいな相槌が打たれた。
「……ハァ?」
赤ん坊を抱いているその女性が、訳が分からないといった風にひどく呆れた様子で口にしたその言葉に、ようやく我に返ったグッドマンは、内心の激しい動揺を隠しながら、誰何した。
すると女性は、院内保育所の保育士だと名乗った。
「困るんですよねー、夜勤明けスタッフのお迎えの時間は、8時って決まってるんのにィ、バクスター先生だけ、いつまでも来ないからァ。こういう日に限って、アタシがステラちゃんの担当で、も、ちょおツイてない、っていうかー」
驚くほど若い、アイラインをきっちりと引いたメイクをした、その若い保育師は、不満をぶつけるように早口でそう言った。
「ああ……、ああ、そうですか。それはそれは申し訳ないことをしました」
どうやら彼女の超過勤務の原因の素因は、巡り巡って、リンの手を握って離さずにいる、ディスカストス侯爵閣下であるらしい。
(ステラ……ステラ様……!)
心の中で、沸き上がる何とも言えない愛おしさが溢れ出すのをなんとか堪えながら、グッドマンはすぐに反応した。
「それでは、私がそのーーステラさ……ちゃんを引き取りましょう」
両手を差し出すグッドマンを見て、しかし、はすっぱな保育士は意外にも抵抗を見せた。曰く、
「ハァ?っていうか、バクスター先生、いるんですよね?法律で、保護者さん以外のヒトに、子供さん、渡さないことになってるンで」
そして、グッドマンの身体を避けて、室内に入ろうとしたところを、やんわり、しかしキッパリと、身体を使ったとおせんぼで塞き止めると、グッドマンは断固たる表情で、赤ん坊を抱き取るために当然のように腕を差し出したまま繰り返した。
「それには及びません。今、バクスター先生は患者さんに対応している最中です。少々込み入った処置をしていますので、関係者以外の立ち入りはお断りしております」
「……でもォ、保護者の方から連絡がないとぉ~~~」
困った顔をして、意外にもしっかりした危機管理意識を見せるはすっぱ保育士である。口調も身なりも社会人としてはどうか、という印象ではあるが、仕事はしっかりやるタイプの若者であるらしかった。
どうやら簡単にいかないようだとあたりをつけたグッドマンだが、そこはそれ、色々と心得ている。
「申し遅れました。私、ディスカストス侯爵家、筆頭家令執事のグッドマンと申します」
とっておきの笑顔を付けて、軽く腰を折った。
「執事ィ~~~?!」
昨今、アザリス近代の貴族を主人公にした時代劇ドラマが流行した関係で、執事、とかハウスメイドとかいう言葉がそれなりに市民権を得ていることが幸いした。さっきまでとは打って変わった様子で、若い保育士はまじまじとグッドマンを見つめ、興奮した声で続けた。
「ちょっ、やだ、本物ォ~?マジ、ウケるんですけどォ!リアル執事、チョーレア~!やっ、写真写真!」
半分以上、ワケのわからないその狼狽えぶりと大袈裟な声に、キョトキョトとしているステラがなんとも可愛らしい。その姿に目を奪われていたグッドマンは、背後から迫ってきた足音に気付くことができなかった。
「ベッキー、ごめんなさい。もう大丈夫よ」
グッドマンはハッとして振り向いた。そこには2年分大人になり、おそらくーー母親になった故の強さを備えたリンが立っていたのだった。
次回、リンとグッドマンの対決(?)です。