10.偽りの親愛
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「他には?閣下。他にはなにか要望はございませんか?」
そのビジネスライクな言い方に、途端にアクセルの顔から笑みが消えた。
「何度言ったら分かるんだ、アクセル、と呼びたまえ、リン・バクスター。」
(なんてわかりやすい…。これじゃあ、まるで玩具を取り上げられた子どもだわ…。)
「ふふっ!」
その表情を見て、リンは思わず噴き出してしまった。
「!!」
その笑顔に目を奪われるアクセルを尻目にリンはくすくす笑いを止められなかった。
「も、申し訳ありません、かっ…アクセル。」
そう言いながらも笑いを止めることができない。口元に両手を添えて、肩を震わせながら笑うリンを眺めて、アクセルはただただその柔らかい笑顔と途端に辺りを支配した気易い雰囲気に浸った。
「…君はそんな風に笑うんだな。」
と、アクセルがまるで責めるかのように恨みがましく呟く。実際にアクセルの中には、なんともいえない黒々とした感情が渦巻いている。
(今まで私の前ではいつだって感情を押し殺したり、慇懃な態度しか取らなかったくせに。)
無論、そうし向けているのが自分自身である、というところには一切考えは及んでいない。その程度には、アクセルは貴族であり、特権階級であった。
「えっ?」
「いや、なんでもない。それより失礼じゃないか、急に笑い出すなんて。君の友情というのはそんなものなのか?」
「いいえ、そうではありません、すみません、かっ…アクセル。ああ、もう、難しいですね、閣下をアクセル、と呼び捨てにするのは。せめて、アクセル様と呼んでも…、」
「だめだ。」
リンが最後まで言い終わらないうちにアクセルが断固とした口調で宣言した。
「何回言わせれば気が済むんだ?我々は、ミリアムが望むような親しい友人になったフリをするのだ。互いを呼び捨てにするほうが自然だ。私のことはアクセル、と。そう呼ぶんだ、リン。」
「それでは…、アクセル?」
「なんだ?リン。」
「…ふふっ!…クックック…!」
「!」
「ああ、もう、おかしい!私たち、変ですよね?大の大人が、互いの呼び方で言い争っているなんて!友達でもなんでもないのに、親密なフリをする約束をしているなんて!ああ可笑しい!滑稽ですわ!でも…、今までよりはずっとましです。」
リンはいつのまにか漂う気易い雰囲気にあてられて、つい、本音を口にしてしまった。
「今までよりはまし、というのはどういう意味だ?」
「だってそうじゃありませんか?貧乏人の嘘つき呼ばわりされて、常に蔑まれている状態よりも、表面上だけでも『親しい友人』として行動していただける方が、私の精神状態にとってはずっとありがたいことですわ。」
「…。」
絶句するアクセルに、リンは微笑んで続けた。
「分かっています、安心なさって下さい。閣下が望んでいる『偽りの親愛』は、ミリアムの前限定だ、ということは。それ以外のシチュエーションでは、絶対に閣下に馴れ馴れしく接することはしない、とお約束します。ええ、誓って。」
「…また、呼び名が閣下に戻っているぞ?リン・バクスター。」
「閣下こそ、私をフルネームで呼ばないで下さい。親しい間柄なんでしょう?」
「君が私を閣下と呼ぶからだ。」
憮然としているアクセルが、ますます孤児院の少年に見えて仕方がない。
「承知いたしました。アクセル?これでよろしいですか?」
笑いを堪えて、リンが呼ばわると、
「よろしいですか?は余分だ。普通に呼んでくれればいい。」
「はい。アクセル。」
軽く頷きながら、しごく真面目な表情でリンは言った。すると、アクセルは満足そうに大きく息を吐き、微笑んだ。
その笑顔を見て、思わずリンの呼吸は止まりそうになってしまった。それくらいその微笑みは美しかった。そしてリンは思った。
(これが本当の閣下なのだ。硬く鎧った尊大な仮面の下には、少年のようなデリケートで優しく、瑞々しい心を持った男性なのだわ…。)
ロマンチックな薔薇園の東屋に、気持ちの良い夜風が吹いていく。アクセルとリンの間からこわばるような空気は消え、完全とまではいかないが、それなりにリラックスした雰囲気が漂っていた。
(しかし、本当に素敵な場所だわ。こういう場所は、きっと、甘い薔薇の香りに包まれながら甘いキスをする恋人達のためにあるんでしょうね…。私の人生にはまったくもって縁のない場所だけど…。)
ため息をついて、リンは自分がだれか愛する人に抱かれて、その腕の中でキスを受ける場面を想像してみようとした。しかし、それはあまりに遠く、実現可能だとも、自分の身に起こり得ることであろうとも、まったくもって思えなかった。
それは、リンがまだまだ幼いからと言うわけではなく、彼女のそれまでの人生が『恋愛』という要素が入り込む余裕がない程度に『過酷』だった、という理由によるものである。
聡明だったリンは、ハイスクールに入るとすぐにアルバイトを始め、孤児院の財政を支え始めた。そして同時に、常に倹約と経費の欠乏を念頭に置きながら、子ども達の世話をし、シスターの家事を手伝って多忙な日々を過ごした。こうした日々はリンを驚くほどの速さで老成させ、そして、その人生から『恋愛』という要素を奪ったといえる。
実際には、リンを恋うていた少年はそれなりにいたが、だれもかれも忙しすぎるリンにおそれをなし『好いている』状態から一歩踏み込もうとはしなかった、というわけである。
そんなリンだったから、こうして恐ろしく端麗で男性的なディスカストス侯爵と、薔薇の香り漂い月光が辺りを蒼く照らすロマンチックな東屋にいても、そういう雰囲気にはならないのだった。
(そろそろ寝なければ…。)
リンは唐突に思った。明日から『偽りの親愛』関係を表現する、という骨の折れる仕事が待っている。信じられないほどの贅沢なバカンスの対価としては安いものなのか、それとも…。どちらにしろ、体力は付けておくにこしたことはないだろう。睡眠は大切だ。
「それでは、これで失礼します、かっ…アクセル。明日も良い天気になるといいですね。おやすみなさい。」
そんな通り一辺倒な決まり文句を言いながら、礼儀正しく腰を折ってお辞儀をしたリンが顔を上げると、アクセルの無言でいて、だからこそ感情豊かな視線が飛び込んできた。
アクセルはその瞬間無意識に願ってしまっていた。
(リンを行かせたくない…。もう少しだけでいいから、この気持ちの良い宵を、薔薇の香りと美しい月夜をリンと分かち合いたい。)
いつになく無防備なアクセルが、そんな思いを無意識のうちに瞳に乗せ、リンを見上げた。
リンは引き込まれるようにその瞳を見返した。月の光が煌々とアクセルの灰色の瞳を照らしている。その不思議な青灰色をした瞳が、その思いを能弁に語った。リンには、彼の思いが手に取るように伝わってきた。『まだ行かないで。ここにいて。』と…。
もしかしたらそこにはアクセルのまだ形となっていない想いが滲んでいたのかも知れない。しかし、リンにはわからなかったし、それを無言の裡に汲み取ることをリンに求めるのも無理なことではあった。なんといってもリンの人生には過去にも未来にも恋愛の二文字が勘案されることは一切なかったのだ。ウィリアムズ・カレッジ一の秀才と呼ばれるリン・バクスターではあるが、恋愛に関しては全く、貴族階級の7歳女児にも劣る程度のカンしか持っていない。
そんなわけで、リンが
(寂しいのね、こんな風に緊張を忘れてリラックスできる友人がこの人にはいないのだろう。)
とアクセルの行動を解釈し、そう大きくはずれてもいない洞察力によって、アクセルの寂しさを嗅ぎ取ったことは、とても自然なことであるといえる。
リンがその眼差しの中に思い出したのは、やはり生まれ育った孤児院で自分が面倒をみた数多の少年達だった。当初は問題行動を起こしてばかりだった彼らが、次第に心を開き、やがてリンに母親を求めるようになる。ひどい子は1日中リンにつきまとい、そうでもない子も、夜寝る前の『本の読み聞かせ』をいつまでもいつまでも延々と要求したものだ。
彼らは例外なく、寂しがりやだった。目の前で微笑んで愛情を示してくれるリンの存在が、一晩経ったら夢のように消えてしまうのではないか、と、いつだって疑い深く恐れていた。
アクセルの瞳の中には、この得難い親密で暖かい雰囲気を惜しむ気持ちが溢れていた。
(ああ、本当にこの方は…!!)
リンの中に、アクセルに対する同情と憐憫、そして熱い母性本能がたちまち膨れ上がった。そしてその想いは、かつて少年達にしていたのと同じ形を取って、発現した。
すなわち、一歩踏み出したリンは、アクセルの両頬から耳の下あたりをその手のひらでそっと包み込むと、優しく額にキスを落とし、そのまま頬を交互に押しつけ、耳元で言った。
「おやすみなさい、アクセル。また明日。良い夢を。」
斜めから差し込んでいる月光がリンの表情を片側から照らし出した。そこに浮かぶ聖母のような微笑みに、アクセルの身体の奥の奥が瞬時に反応する。それは心臓と胃の中間あたり、柔らかく感じやすい弦のような箇所だった。それはあまりにも久方ぶりの感覚だったために、アクセルはただただ呆然として言葉を口にすることもできず…。気がつくとただ一人、月光の下、薔薇の香りに包まれて、ぼんやりと座っている自分に気付いたのだった。
やがて、次第に頭がはっきりするにつれ、リンから与えられた優しいキスと頬の感触が、ありえないリアルさで思い起こされてきた。
そのせいで、今度は精神的な柔らかい箇所ではなく、もっと即物的で動物的な箇所がぴくりと反応してしまい…。ほとんど夢遊病者のように、足早に自室へと戻って行くのだった。
後に残された薔薇の香りはまるでなにもなかったかのように辺りに漂い、アクセルとリンのささやかな秘密の薫りを覆い隠して、美しい夏の夜は更けていった。