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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
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1.プロローグ

 その救急患者の顔を見て、リンは愕然とした。

(アクセル・・・?!)

 目の前にいるのは、リンがかつて一人だけ愛した男性だった。しかも、驚くことに、ここはリンが医師として働く救急病院であり、彼は死にかかっているという。

(いったいなにが?)

 アクセルの住むエッジロード市は、このマニティ島からおよそ400km離れている。

(何故、彼がここに?しかも死にかけているの?!…まさか、私を探して?)

そこまで考えて、リンは苦々しく自分を嘲笑いながら、首を振った。

(バカバカしい、いつまでロマンチックな感傷を引きずっているの?リン・バクスター。彼がまだ自分の事を気にかけているなんて、都合の良い考えをよくも、まぁ!!)

 それは、彼から離れてからずっとリンの中に巣くう、願望であった。辛いとき、苦しいとき、リンはあのアクセルに守られ、愛されていると信じていた日々を思い出しては、耐えてきたのである。


「ドクター!!」

看護師が叫ぶ。2年前の日々を思い出してぼんやりとしていたリンは、看護師の鋭い叫びに、現実に引き戻された。

「状況は?」

「出血多量。裂傷が全身に及んでいます。どうやら足と腕を骨折しているようですね。」

「…いったいどうしたら、こんな状態に…?」

「この嵐の中を、無理矢理、渡ってきたそうですよ?大型フェリーが欠航だったので、自前のクルーザーで。」

「…。」

「座礁したんだそうです。もう少しで接岸できそうだったらしいんですが、桟橋に叩き付けられて…。」

(そんな無茶、冷静沈着でクールなアクセルらしくないわ…。いったいなにが彼をそこまでさせたの…?)

 リンはアクセルの体中に応急処置をしながら、舌打ちしたい気持ちでいっぱいだった。

(少なくとも、私の知っているアクセル・ディスカストスはそんな無謀なことはしない)

 しかし、そんなことはもう、どうでも良いことかもしれない。あの日、リンが逃げるようにアクセルの元を去ってから、2年。人が変わってしまうのに十分すぎるほど十分な期間だ。

 手際よく縫合と消毒を進めながら、骨折を確認する。幸い骨は折れていなかった。きっと、相変わらず週に3回はジムに通い、トレーニングをしているのだろう。全身を覆う滑らかな筋肉は、2年前のままだ。

「ドクター、あとは私たちが処置します。」

 看護師がそう言ってくれた。確かにもう、小さな裂傷の手当だけで、縫合の必要のありそうな大きな傷は残っていない。

 と、アクセルの目元がピクピクと反応し、うっすらと瞼が開いた。リンの記憶の中と同じ、灰色の瞳が、何かを求めて左右に動いたのがわかった。リンを認めると、突然暴れるように身じろぎし、叫んだ。

「…リン…!!!リン!!!」

「落ち着いて、ミスタ・ディスカストス。」

「ああ、リン…!!!」

「大丈夫、私はどこにも行かないわ。」

リンは医者としての克己心を奮い立たせて、彼の手を握り、励ました。けが人には優しいウソが必要な時があるものだ。それがどんなに後で残酷な結果を生み出そうとも。

 その瞬間、安らかな気分で薬のまどろみの中に浸るために。私はそれを知っている。

 リンは看護師に目で合図すると、アクセルに鎮静剤を注射した。

「お知り合いですか?」

アクセルの体が力をなくし、興奮していた精神が安寧の闇の中に沈み込んで行くのを確認して立ち去ろうとしたリンに向かって、看護師が訊いた。

「…そうね。古い知り合いよ。」

手袋を外し、ゴミ箱に捨てるとリンはあれこれ訊かれる前に、救急救命センターを後にした。


 すでに夜明けが廊下を紫の光で満たしている。嵐は去ったようだ。朝焼けがじわりと東の空を暖めている。

(…疲れた…)

しみじみ疲労感を感じた。また、月の残業時間が40時間を超えてしまった。

(今年2回目の「産業医面談命令書」が届くのは確実ね。)

 でも、辞める良い理由が出来たとも言える。

 こんなへんぴな島で、アクセルに再会するなんて「偶然」、あり得ない。アクセルにはなにかリンを探さねばならない事情があったのだろう。しかしそれはアクセルの事情であって、リンの事情ではない。リンはまだ、アクセルに見つかるわけにいかない理由があった。

(あと1年。あと1年は逃げおおせなければ・・・)

 リンの胸に、強い焦燥感がわき上がる。

 立ちっぱなしでむくんだ足を元気づけるように勢いよくオフィスのドアを開けると、ペパーミントのピリっとした香気に包まれた。いつものように、仕事着を思い切りよく脱ぎ捨て、私服に着替える。

(とにかく眠ろう。起きたら退職願をつくって、明日出せば、1週間後にはこの島を離れられる。)

 たった2年間ではあるが、仲良くやってきたスタッフみんなの顔が思い浮かび、リンは少しだけ感傷的な気分に浸った。

 しかし、どうしてもここから、アクセルから「逃げる」以外の選択肢が思い浮かばなかった。もう2年も経っているのに、まるでたった今、あの辛い選択をしたかのように、胸がズキズキと痛んだ。

 早足で駐車場に向かい、愛車に乗り込む。

 と、バッグを肩から外す拍子に、携帯が震えているのに気がついた。立った今出てきたばかりの、救急救命センターからのコールだった。

(また急患?ドクター・デリスがもう来てるはずでしょ?)

リンはウンザリした気分で、勤務要請を断る気満々で、電話に出た。

「…リン?」

かすれた声が聞こえてくる。セクシーでけぶるようなハイ・バリトン。人に命令し、屈服させることを運命づけられた人間特有の、高圧的なニュアンス。

「…」

「リン・バクスター?お願いだ、リン。切らないで、返事をしてくれ、リン」

リンが黙っていると、初めとは打って変わった懇願するような声が続いた。

「・・・ミスタ・ディスカストス・・・。」

 アクセルのかすれた声に、最後に抱き合った時の記憶が、まざまざと揺り起こされて、目眩がする。

 2時間後、全身包帯だらけで、アクセルが横たわる病室で、リンは過去への追憶にふけった。


 あの日。晩夏のまばゆい日差しが満ちあふれていた、あの美しい日。

 雨上がりの駅でリンとアクセルの運命は動き出したのだ。

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