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婚約破棄してくださって、ありがとうございます――無能と蔑まれた公爵令嬢は、隣国最強王子に「君がいないと世界が終わる」と溺愛されました

作者: 数庭 読み
掲載日:2026/03/18

---


シャンデリアの光が、床の大理石に無数の星を散らしていた。


王宮の大広間。

今夜は第三王子エルヴィンの来訪を祝う夜会のはずだった。


はずだった、のに。


「アデライド・フォン・クレーゼンバッハ」


王太子レオナルドの声が、広間に満ちた音楽と笑い声を塗りつぶした。


低く、よく通る声。

かつて私が好きだと思っていた声。


「貴様との婚約を、ここに破棄する」


しん、と静まり返った。


二百人はいるだろう貴族たちが、一斉に息を呑む音が聞こえた気がした。


私は王太子の正面に立って、その言葉を受け取った。

胸に刺さるかと思っていたのに。

不思議なほど、何も感じなかった。


「……理由を、お聞かせいただけますか」


我ながら、ひどく冷静な声が出た。


レオナルドは眉を寄せた。

怒りとも軽蔑ともつかない色が、その美しい顔に浮かぶ。


「理由だと? 貴様が何をしたか、わかっているだろう」


「存じません」


「とぼけるな」


彼は一歩、前へ出た。

金の刺繍が煌めくマントが、優雅にひるがえる。


「ミレーユを虐めたことは証人がいる。毒を盛ろうとしたことも、使用人への暴力も、すべて証拠がある」


私は視線を横にずらした。


レオナルドの隣に、ミレーユ・ルシェットが立っていた。


男爵家の令嬢。

平民に近い、爵位の低い家の娘。

薄桃色のドレスが、泣きはらしたように赤い目に映える。


今も、白いハンカチを目元に当てて、肩を震わせている。


泣き真似が、うまい。

本当に、うまい。


「可哀想なミレーユを苦しめ、王家を陥れようとした罪により――」


「一つだけ、聞いてもいいですか」


私はレオナルドの言葉を、静かに遮った。


広間がざわめいた。

王太子の言葉を遮るなど、普通は不敬罪に問われかねない。


でも私はもう、どうでもよかった。


「殿下は、今まで一度でも、私を見たことがありましたか」


「……何?」


「見ていたかと、お聞きしています」


レオナルドは眉をひそめた。


「何の話だ」


「なんでもありません」


私は微笑んだ。


作り物ではなく、本当に、少し可笑しかったから。


「どうぞ、続けてください」


---


断罪の言葉は長かった。


虐め、嫌がらせ、魔法による暴行。

証人は五人。

すべて、ミレーユが用意したのだろう偽証だ。


私は聞きながら、十年間のことを考えていた。


レオナルドと婚約したのは、私が八歳のときだった。

クレーゼンバッハ公爵家の娘として、王家に嫁ぐのは決まった道だった。


嫌ではなかった。

レオナルドは、その頃はまだ、普通の少年だった。


問題は、彼が成長するにつれて明らかになった。


レオナルドには、魔力が足りなかった。


王太子として、国を守るために必要な防壁魔法。

それを維持するだけの力が、彼にはなかった。


誰にも言えない弱点だった。

王家の威信に関わる。

知れれば、他国に付け込まれる。


だから私は、黙って補った。


私には生まれつき、人の魔力に触れて、それを「翻訳」する力があった。

正確には、古い言葉では「根源翻訳」と呼ばれる希少な才能だ。


誰かの魔力を受け取り、増幅し、形を整えて、その人間を通して放出する。

使っているのは本人だと、周囲には見える。


私がレオナルドの婚約者として王宮に上がってから、私はずっとそれをしていた。


夜会の前、執務の前、重要な魔法儀式の前。

さりげなく隣に立って、さりげなく手を添えて、さりげなく彼の魔力を整えた。


レオナルドは知らなかった。

いや、気づこうとしなかった。


「アデライドは魔力が低い」

「表の仕事より裏方が向いている」

「王太子妃としては地味すぎる」


そういうことを、貴族たちが陰で言い始めたのは三年前くらいからだ。


レオナルドも同じことを思っていたのだろう。


ミレーユが現れてから、それは言葉になった。


「ミレーユは明るくて、魔法の才能もある。君とは違う」


一年前に、直接そう言われた。


私は何も答えなかった。


答える必要を感じなかった、というより。

答えたところで、彼には届かないとわかっていたから。


---


「以上の罪により、アデライド・フォン・クレーゼンバッハを王宮より追放し、婚約を破棄する。異論はあるか」


レオナルドの声が、断罪の言葉を締めくくった。


「ございません」


私は、深く一礼した。


顔を上げたとき、ミレーユと目が合った。


泣き真似の薄い瞳が、勝利の光で濡れていた。


私は無表情でそれを見た。


おめでとう、と思った。

本当に、心から。


あなたが手に入れたものが何なのか、あなたはまだ知らない。


踵を返そうとした、その瞬間だった。


「お待ちください」


広間に、新しい声が響いた。


低く、落ち着いた。

それでいて、場の空気をまるごと掌握するような声だった。


人垣が割れた。


白を基調とした軍服。金ではなく銀の装飾。

隣国リュスタル王国の色だ。


歩いてくる男は、背が高かった。

黒い髪が、シャンデリアの光を吸っていた。


第三王子、エルヴィン・ヴァン・リュスタル。


今夜の夜会の主役であるはずの男が、ゆっくりと歩いてきた。


レオナルドが眉を寄せた。


「エルヴィン殿下、これは我が国の内政問題で――」


「存じています」


エルヴィンはレオナルドを一瞥した。

それだけで、レオナルドが黙った。


隣国の第三王子。

しかし「最強」と呼ばれる男の眼光は、王太子を黙らせるには十分だった。


エルヴィンは私の前に来て、立ち止まった。


黒い瞳が、私を見た。


まっすぐに。

ただ、まっすぐに。


誰かに、こんな風に見られたのは、いつ以来だろう。


「アデライド・フォン・クレーゼンバッハ令嬢」


「……はい」


「失礼を承知で、一つ確認させてください」


彼は、静かに言った。


「あなたが持つ『根源翻訳』の力。それは、先代より引き継いだ古代魔法の系譜ですね」


広間がざわめいた。


私は息を止めた。


根源翻訳。

その言葉を知っている人間が、この場にいるとは思わなかった。


「……なぜ、それを」


「リュスタルの王立図書館に、記録が残っています。百五十年前に一度だけ確認された、失われた魔法系統。その継承者は百年に一人現れるかどうか、という」


エルヴィンは続けた。


「その力を持つ者は、国の柱となる。魔法の触媒として、国家規模の術式を支えることができる。本人は陰に徹するため、表には出ない」


彼は広間を見回した。


「現在のクレーゼンバッハ王国の防壁魔法。王太子殿下の名の下に維持されているそれが、実際には誰によって支えられていたか」


言葉が、静寂の中に落ちた。


レオナルドの顔が、白くなった。


「何を……」


「事実です」


エルヴィンは淡々と言った。


「リュスタルの諜報は優秀でして。三年前から、防壁の魔力特性が変わっていることは把握していました。王太子の魔力ではない。しかし王宮内の誰かが補助している」


彼は私を見た。


「あなたでしたね」


私は何も言えなかった。


「素晴らしい自制心だ」


静かな怒りが、その低い声の底に混じっていた気がした。


「三年間、一度も誰かに漏らさなかった。記録にも残さなかった」


エルヴィンは私の隣に並んだ。


そして、そのまま膝を折った。


隣国の第三王子が、私の前に、跪いた。


「無礼を承知で申し上げます」


黒い髪が、重力に従って揺れた。


「あなたの力を、私の国に貸してほしい。いや、正確には」


彼は顔を上げた。

黒い瞳が、私を見た。


「あなた自身を、私にください」


広間が完全に凍りついた。


「リュスタル王国第三王子として、正式にあなたへの求婚を申し込みます。今夜、この場で」


---


レオナルドが何か言おうとした。


エルヴィンは立ち上がりながら、私の手を取った。

そのまま、肩を引き寄せる。


温かかった。


ただそれだけのことで、十年間の疲れが、すうっと溶けていく気がした。


「殿下」


エルヴィンがレオナルドを見た。

その声は穏やかだったが、目は違った。


「せっかくですから、一つ、お見せしましょう」


「……何をする気だ」


「何も。ただ、この国の防壁が今この瞬間からどうなるか、見せて差し上げるだけです」


エルヴィンが、静かに私に囁いた。


「アデライド。もう、手を離していい」


私はその言葉の意味を理解した。


三年間、毎日続けていたこと。

王宮に足を踏み入れるたびに、無意識に行っていたこと。


レオナルドの魔力に触れて、整えて、補う。


それを、止める。


私は目を閉じた。


ゆっくりと、息を吐くように。


十年かけて張り続けた糸を、一本ずつ、解いていった。


最後の一本が切れた瞬間。


レオナルドが、声を上げた。


「っ……!」


よろめいた。


あれほど堂々と立っていた体が、まるで足元の地面が消えたように、ぐらついた。


胸元の紋章が、ぱっと明滅した。

魔力が制御を失い、全身から霧のように散逸していく。


「な、なんだ、これは……」


レオナルドは自分の手を見た。

魔力が滲み出て、霧散していく自分の手を。


信じられないという顔だった。


「レオ様!」


ミレーユが駆け寄ろうとした。


その瞬間、足元の魔力紋が弾けた。


自分でも制御できていなかったのだろう、焦りで乱れた魔力が逆流した。


「きゃっ……!」


薄桃色のドレスの裾が、ぱっと黒く焦げた。

丁寧に巻いていた金の髪が、静電気を帯びたように逆立った。


涙で濡れた頬に、煤が一筋。


さっきまでの「可憐な被害者」の姿は、跡形もなかった。


「な、なんで、なんで……っ」


ミレーユが喚いた。


声が裏返っていた。


広間の貴族たちが、ざわめいた。

ざわめきが、波のように広がった。


王太子が、膝をついた。


「う、あ……」


床の大理石に、金の刺繍のマントが広がった。


レオナルドは、震える手を床につきながら、私を見た。


初めて、私を、見た。


「お前が……お前が、ずっと……」


私は彼の目を、まっすぐに見た。


十年間、一度も向けてもらえなかった視線を、今さら向けてくれても。


「婚約破棄してくださって、本当にありがとうございます」


静かに、はっきりと、言った。


「おかげで、やっと自由になれました」


エルヴィンが私の肩を抱いたまま、歩き出した。


私は一度も振り返らなかった。


大広間の扉が、二人の背後で閉じた。


---


リュスタルは、美しい国だった。


首都の石畳は白く、運河が街を縦横に走っていた。

冬でも、水辺に鳥が集まっていた。


王宮は、クレーゼンバッハより古くて、少し暗くて、でもどこか温かかった。


私が来て最初の一週間は、何もしなかった。


正確には、エルヴィンが何もさせなかった。


「疲れているでしょう」


初日の夜、彼はそう言った。


「しばらくは、ゆっくりしてください。仕事の話は、あなたが望んだときに」


「……それでは、私はただの居候ですが」


「構いません」


彼は真顔で言った。


「あなたに休んでほしいので」


なんと答えていいかわからなかった。


十年間、私は常に役に立つことを考えていた。

何か貢献すること。何か補うこと。

存在を証明すること。


休んでいい、と言われたのは初めてだった。


「……お言葉に、甘えてもいいですか」


「ぜひ」


エルヴィンは少し微笑んだ。


その顔を見て、私はようやく、少し泣いた。


こっそり、部屋に戻ってから。

一人で、布団の中で。


声を殺して。


泣いている理由が自分でもよくわからなかった。

悲しいのか、嬉しいのか、ただ疲れたのか。


全部だったかもしれない。


---


後から知ったことだが、あの夜、エルヴィンは私の部屋の前で夜明けまで立っていたらしい。


「なぜそんなことを」と聞いたら、


「泣き声が聞こえたから」


とだけ、彼は言った。


「入ればよかったのでは」


「あなたが一人でいたかった時間だと思ったので」


どこまでも真顔で。


私はその話を聞いて、また少し泣きそうになったので、窓の外を向いた。


---


一週間後、私はエルヴィンの執務室を訪ねた。


「何か、手伝えることはありますか」


彼は顔を上げて、少し目を細めた。


「急がなくていいと言いましたが」


「急いでいるのではなく、したいんです」


正直に言った。


「じっとしているのが、性に合わないみたいで。何かしていると、落ち着く」


エルヴィンはしばらく私を見てから、執務机の上にある書類を一枚、こちらへ向けた。


「では、一つだけ。北の砦の魔法術式が不安定で、担当の魔法師が頭を抱えています。原因がわかりますか」


術式の図面だった。


私はそれを受け取って、眺めた。


三分で、原因がわかった。


「基点の魔力配分が均等すぎます。この地形だと、北西側に風の魔力干渉が集中するので、そこだけ配分を一・三倍にしないと振れ幅が出ます」


エルヴィンは静かに私を見ていた。


「……三分で、わかったんですか」


「単純なミスなので」


「担当者は二週間悩んでいました」


私は少し黙った。


「あの、私がおかしいのでしょうか」


「おかしくない」


エルヴィンははっきり言った。


「あなたが、正しい」


彼は立ち上がった。

執務机を回って、私の前に来た。


「アデライド」


名前を呼ばれた。

苗字ではなく、名前を。


「一つ、聞いてもいいですか」


「……はい」


「クレーゼンバッハで、誰かに『よくやった』と言われたことは、ありましたか」


胸が、ちくりとした。


「……ほとんど、なかったです」


「これからは」


エルヴィンは言った。


「毎日言います」


私は彼の顔を見た。


真顔だった。


「……それは、少し重いのでは」


「重くて結構です」


一切の冗談がない目で、彼は言った。


「私は、あなたにしっかり重さを感じてもらいたいと思っているので」


---


その言葉通りだった。


本当に、毎日言った。


だがエルヴィンの「重さ」はそれだけではなかった、と私が気づいたのは、赴任から二週間ほど経った頃のことだ。


北の砦の件を解決した翌日、担当魔法師のヴァルター・シュルツ中佐が礼を言いに来た。


年は三十代半ばで、穏やかな目をした実直な男だった。

感謝の言葉を述べながら、今後の術式改修について質問をいくつか投げかけてきた。


私は書類を広げて、丁寧に答えた。


話し込んで、三十分ほど経った頃。


「……寒い」


ヴァルター中佐が、ぽつりと言った。


私も気づいた。


執務室の温度が、じわじわと下がっていた。

窓は閉まっている。暖炉は燃えている。

それなのに、吐く息が白くなりかけていた。


ドアが、静かに開いた。


「アデライド、書類が一枚足りなかったので持ってきた」


エルヴィンだった。


入ってきた瞬間、黒い瞳がヴァルター中佐を見た。


一秒だけ。


それだけで、室温が氷点下まで下がった気がした。


ヴァルター中佐が、さっと立ち上がった。


「で、では私はこれで! 大変参考になりました、令嬢!」


早足で退室していった。


扉が閉まった。


室温が、すっと戻った。


「……エルヴィン様」


「なんですか」


「わかっていてやっていますか」


「何のことでしょう」


真顔だった。


あまりにも真顔なので、私は少し笑ってしまった。


「業務に支障が出ます」


「シュルツ中佐は優秀な魔法師なので大丈夫です」


「そういう問題では」


「では、どういう問題ですか」


エルヴィンは真剣な目で私を見た。


「あなたと、私以外の男が、二人きりで三十分。それを支障なく受け入れろというのは、私には無理です」


どこまでも真面目に言うので、私は返す言葉を失った。


「……業務連絡です」


「わかっています」


「わかっているなら――」


「わかっていても、無理です」


一言一言が、重かった。


真剣で、揺らがなくて、どこまでも本気で。


「好きな人が他の男と二人でいるのが平気な男は」とエルヴィンは言った。


「その人のことを、本当に好きではないのだと、私は思っています」


私は少しの間、黙った。


それから、書類を一枚手に取って、エルヴィンに渡した。


「……シュルツ中佐に謝ってください」


「わかりました」


「本当に謝ってください」


「善処します」


「それは謝らないということでは」


エルヴィンは少しだけ、口元が動いた。


笑っていた。


こういう顔をするのか、と私は思った。


---


あれは、来てから一ヶ月ほど経った夜のことだったと思う。


私が寝ていると、部屋の中に気配があった。


起き上がろうとしたら、低い声が言った。


「起こしてしまいましたか」


エルヴィンだった。


「……なぜ、部屋に」


「扉が少し開いていたので、閉めに来ました」


「今、閉めましたか?」


「……いいえ」


正直だった。


私は薄暗い中で彼を見た。


椅子を引き寄せて、ベッドの傍に座っている。


月明かりが窓から差して、その横顔を照らしていた。


「エルヴィン様」


「はい」


「何をしているんですか」


少し間があった。


「見ていました」


「……見ていた」


「あなたの顔を」


また間があった。


「眠っているあなたを見ていると」


エルヴィンは、静かに言った。


「呼吸の仕方を、思い出す」


「……何ですか、それは」


「そのままの意味です」


彼は月明かりの中で、私を見た。


「君がいないと、俺は呼吸の仕方も忘れる」


真顔だった。


あまりにも真剣で、あまりにも揺らいでいなくて。


私は言葉が出なかった。


「変ですか」


「……変です」


「そうですか」


「かなり変です」


「それでも、事実なので」


エルヴィンは立ち上がった。


「おやすみなさい、アデライド。よく眠れますように」


扉が、静かに閉まった。


私はしばらく、天井を見ていた。


胸の中に、どうにも収まらない何かが、ふわふわと漂っていた。


---


それから半年が経った。


私はリュスタルの魔法顧問として、正式な地位を得ていた。


エルヴィンとの婚約は、正式に締結されていた。


毎日、顔を合わせる。

話す。

一緒に夕食を取ることが増えた。


「今日もよくやった」


本当に、毎日言った。


時に「今日の術式の修正は特によかった」と具体的に。

時に食事の後、何気なく「今日も一日、ありがとう」と。


私はいつの間にか、その言葉を待つようになっていた。


---


婚約発表から三ヶ月後の夜。


王宮の庭に、エルヴィンと二人でいた。


月が明るい夜だった。


石造りのベンチに並んで座って、お互い何も言わずにいた。


「アデライド」


「はい」


「リュスタルは、好きになれましたか」


空を見ながら、彼は聞いた。


「好きです」


本当のことを言った。


「運河が特に好きで。朝、水面が光るのを見るのが日課になりました」


「それは良かった」


少し間があった。


「私も、好きです」


「……リュスタルが、ですか」


「あなたが」


月明かりの中で、エルヴィンは私を見た。


「あなたが好きです。最初に見たときから」


「……夜会で婚約破棄されているところを、ですか」


「そうです」


迷いなく言うので、私は少し笑った。


「変わった趣味ですね」


「かもしれません」


彼も、少し笑った。


それから、また真顔になった。


「あのとき、あなたは少しも揺らいでいなかった。悲しくないわけじゃないとわかった。でも、揺らがなかった」


「……揺らいでいましたよ、内側では」


「知っています」


エルヴィンは言った。


「だから、余計に」


少し考えた。


「連れて帰りたかった。あんな場所に置いておきたくなかった」


私は月を見た。


胸の中が、じわじわと温かくなっていた。


「一つ、聞いてもいいですか」


「なんでも」


「私がいなくても、リュスタルの魔法は回りますか」


エルヴィンはしばらく黙った。


「……正直に答えます」


「お願いします」


「魔法は、回ります」


私は頷いた。


「ただ」


彼は続けた。


「私は、回りません」


「……どういう意味ですか」


「そのままの意味です」


真顔で、エルヴィンは言った。


「あなたがいないと、私の朝が始まらない。あなたの声がないと、執務に集中できない。あなたが食事の席にいないと、食べた気がしない」


「……それは」


「依存していると言いたいなら、そうかもしれません」


少しだけ、困ったように彼は言った。


「自覚はあります。重いと言われることも、わかっています」


「重い、と言ったら?」


「離れません」


一秒の迷いもなかった。


「それだけははっきり言えます。離れない。あなたが嫌だと言っても、説得します。一生かけても、あなたに好きになってもらいます」


私は彼の顔を見た。


月明かりの中で、黒い目が静かに私を見ていた。


本気だった。


「……嫌じゃ、ないです」


「何が」


「重いのが」


エルヴィンが少し目を見開いた。


「今まで、軽く扱われてきたので」


私は正直に言った。


「誰かがちゃんと、重く思ってくれるのが。嫌じゃないです。むしろ」


少し考えた。


「嬉しいと、思っています」


月明かりの中で、エルヴィンは手を伸ばした。


私の手に、触れた。


指が、絡んだ。


「アデライド」


「はい」


「好きです」


「……私も」


言えた。


不思議なくらい、すっと言えた。


「好きです」


川の音が、遠くから聞こえた。

月が、水面で揺れていた。


私はその手を、握り返した。


---


翌月、クレーゼンバッハからの使者が来た。


三度目だった。


「どうか国に戻ってほしい。防壁が安定しない。殿下が、あなたの力を必要としている」


私は使者と向き合って、静かに口を開いた。


「殿下は十年間、私が必要だとは思っていませんでした」


「し、しかし今は――」


「必要なのは私ではなく、私の力でしょう」


私は言った。


「それは同じではありません。私はもうここにいます。ここで生きています。それは――」


「アデライド」


廊下の奥から、足音がした。


エルヴィンだった。


使者の姿を見た瞬間、その目が変わった。


温度が、消えた。


「三度目ですね」


声は穏やかだった。

穏やかなのに、廊下の空気が凍りついた。


エルヴィンは使者の前に立った。


腰の剣に、手をかけた。


抜かなかった。

抜かなかったが、その手が柄に添えられたというだけで、使者の顔が蒼白になった。


「使者としての礼は守っています」


エルヴィンは静かに言った。


「三度、礼を守っています。ただ」


黒い目が、使者を射抜いた。


「我が妻に、四度目はない」


「で、殿下……」


「あなたの背後にいる方に、お伝えください」


エルヴィンの声は低く、一切の揺らぎがなかった。


「アデライドに二度と使者を寄越すな。もし寄越すなら、それはリュスタルへの宣戦布告と受け取る」


使者が、震えた。


「その汚らしい国ごと、灰にされたくなければ」


一語一語が、刃のようだった。


「二度と、彼女の名前を呼ぶな」


沈黙が落ちた。


使者は何も言えないまま、深く頭を下げて、後退りした。


私はエルヴィンの隣に立って、使者を見た。


咎める気には、不思議となれなかった。


むしろ。


「というわけですので」


私は微笑んだ。


「お引き取りを」


扉を、静かに閉めた。


廊下に、二人きりになった。


エルヴィンは剣から手を離して、私を見た。


「……言いすぎましたか」


「いいえ」


私は首を振った。


「ちょうどよかったと思います」


彼は少し、目を細めた。


「あなたが咎めないなら、良かった」


「咎めません」


「なぜ」


私は少し考えてから、言った。


「誰かが、あんな風に怒ってくれたのが」


初めてだったから、とは言えなかった。


代わりに、エルヴィンの手を取った。


彼の指が、私の手を包んだ。


「アデライド」


「はい」


「好きです」


「……それは、さっきも言いましたよ」


「毎日言うと約束したので」


また真顔で。


私は少し笑って、窓の外を見た。


運河が光っていた。

朝日が水面を赤く染めていた。


今日もいい天気だ。


自分の足音がする石畳を、私は好きだった。


ちゃんとここにいる、と教えてくれるみたいで。


この国で、この人の隣で。


私はやっと、自分の場所を見つけた気がした。


---


        了

読んでくださり、ありがとうございました。

「見えない支えが可視化される瞬間」と「重い愛が軽い扱いへの答えになる瞬間」の二つを軸に書きました。


自分の価値を知らなかったアデライドが、エルヴィンの「重すぎる愛」によって呼吸の仕方を取り戻していく過程を楽しんでいただけていれば幸いです。


もし「面白かった!」「エルヴィンの重さがクセになる」と思っていただけましたら、下にある**【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして評価**いただけますと、執筆の大きな励みになります!


続編や、エルヴィン視点の「重すぎる裏側」などの番外編のご要望があれば、ぜひ感想欄でお聞かせください。

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― 新着の感想 ―
これ王太子とアデライドの親側の動きが気になりますね。 アデライドは誰にも相談せず全てを捨てて出国したから仲が悪かったのか。 王太子の親はきちんと婚約の意味を言い含めなかったのか、説明しても覚えられな…
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