第97話 シュテルンモース
翌日。
レオンが再びヴァルトシュタイン伯爵邸を訪れたのは、午後の早い時間だった。
今回は名目すら用意しなかった。正門で名を告げると、あの侍女が迎えに出てきた。昨日とは少し違う顔をしていた。敵意は残っているが、その奥に——警戒とは別の何かが混じっている。
「お嬢様がお待ちです」
それだけ言って、先に立って歩き始めた。
◆◇◆
セレーネの部屋に通された。帳は昨日と同じように降ろされていたが、微かに空気が違った。窓が少しだけ開けられていて、秋の風が入っている。
「レオン殿」
帳の向こうから、声がかかった。昨日より——ほんの少しだけ、はっきりしていた。
「調子はどうだ」
「……少しだけ、楽です。足の痛みが、昨夜は半分くらいになりました」
侍女が横から補足した。「今朝、手首の痣の色が僅かに薄くなっておりました。それと——」
少し言いづらそうに間を置いた。
「……骨のスープを、今朝召し上がりました」
レオンは内心で小さくガッツポーズをした。表情には出さなかった。
◆◇◆
『……ポーションが効いておるな。末端のノードに沈着していたナイトエーテルが一部流れたのだろう。だが、これは表層だけだ。深部の固着は手つかずのままだ』
(分かっている。だからこそ、次の手を打つ)
レオンは丸椅子に座り、帳に向かって話し始めた。
「セレーネ嬢。処方箋の薬草は手配できたか」
侍女が答えた。「ルナリア・ブルームとシルバーリーフの根は手配しました。月光苔はまだ届いておりません」
「わかった。——それで、一つ相談がある」
◆◇◆
「相談?」
帳の向こうから、かすかに衣擦れの音がした。上体を起こしたのかもしれない。
「処方箋の薬草とは別に、もう一つ必要なものがある。シュテルンモース——シュテルンモースだ」
「シュテルンモース……?」
侍女が怪訝な顔をした。「あの、庭の飾りに使う光る苔のことですか? 薬材としての用途はほとんどないはずですが」
「そう。今はそう思われている」
レオンは言葉を選んだ。ここから先は、オグリの知識だった。
「シュテルンモースをエーテル精製水で特定の温度——正確に言えば沸点の七割の温度で煮出すと、シュテルンエッセンツ——星素と呼ばれる物質が抽出できる。これは上古の炼金術で最も重要な触媒の一つだった」
『触媒というだけでは伝わらんぞ。具体的に何ができるか言え』
「星素があれば、普通の回復薬剤の有効成分を十倍以上に精製できる。一本五百の薬剤が、五千——いや、ものによっては一万の価値になる」
侍女の目が見開かれた。
「そして——星素はセレーネ嬢の処方箋にも使える。ルナリア・ブルームの活性を安定させる媒介として、シルバーリーフの根よりも遥かに優れている。副作用もほぼない」
◆◇◆
「……なぜそんな知識を、あなたが持っているのです」
侍女の声には、疑念と——かすかな畏れがあった。
「上古の文献に載っていた。今の炼金術師は誰も知らない」
嘘ではなかった。オグリが知っている時点で、それは上古の知識だ。
帳の向こうで、セレーネの声がした。
「……それで、相談というのは」
「シュテルンモースを大量に買い集めてほしい。王都中の薬材店にあるだけ全部だ」
◆◇◆
沈黙が落ちた。
侍女が眉をひそめた。「全部、ですか」
「全部だ。今のシュテルンモースは薬材店で埃を被っている。値段は二束三文——一筐数銅貨だろう。在庫を全て買い占めても、大した金額にはならない」
「……お言葉ですが、なぜお嬢様にそのようなことを」
「俺には金がない。そしてシュテルンモースの買い占めに動ける手勢もない。だがヴァルトシュタイン家にはある」
レオンは率直に言った。格好をつける余裕はなかった。
「交換条件だ。シュテルンモースを買い集めてくれれば——その星素を使って、セレーネ嬢の治療に最適な特製薬剤を調合する。市販の薬剤とは比較にならない効果のものを。そして導引術の準備も、これで格段に早まる」
◆◇◆
帳の向こうで、またかすかな衣擦れの音がした。
「……いくら必要なの」
セレーネの声は静かだった。
「シュテルンモースは軽い。だが量が要る。数万斤は欲しい」
「数万斤!?」侍女が声を上げた。
「だが金額にすれば大した額ではないはずだ。今の相場なら、数万斤でも——」
「構わないわ」
セレーネがあっさりと言った。侍女が帳の方を振り返った。
「お嬢様——」
「あのポーションが効いたのは、侍女のあなたも見たでしょう。半年間、誰にも治せなかったものが、あの一本で動いた。——この人の言葉を信じてみたい」
◆◇◆
侍女はしばらく黙っていた。やがて、小さくため息をついた。
「……かしこまりました。手配いたします」
レオンは頷いた。
「急いでくれ。買い占めに気づかれると価格が跳ね上がる。できれば今日中に、複数の使用人を別々の店に向かわせてほしい。一つの店で大量に買えば目立つ。小分けにして、一日で掃討する」
侍女はレオンを見た。——薬草の知識だけでなく、商売の勘所まで心得ている。この少年は一体何者なのか。
「……承知しました」
◆◇◆
その日の午後。
ヴァルトシュタイン伯爵邸から、十数人の使用人が王都の各方面に散った。いずれも地味な身なりに着替え、伯爵家の紋章を外していた。
彼らは王都中の薬材店を回り、シュテルンモースを片端から買い集めた。
「シュテルンモース? ああ、あれね。倉庫の奥に転がってるよ。何に使うんだい?」
「庭の装飾に使うのです」
「へえ、物好きだねえ。好きなだけ持っていきな。——いや待て、金を払うのかい? いつもは捨ててるんだが」
こういった会話が、王都の至るところで繰り返された。
◆◇◆
「あの人たち、うちのシュテルンモースを全部持っていったよ」
「お宅もか? うちも今日、在庫を全部買われた」
「何に使うんだろう。あんなもの、光る以外に能がないのに」
「さあ。どこかの貴族の庭師が大量発注でもしたんじゃないか」
薬材店の主人たちは首を傾げたが、それ以上は気にしなかった。シュテルンモースは棚の場所をとるばかりで何年も売れない厄介者だ。金を払って引き取ってくれるなら、むしろありがたい。在庫処分のついでに、薬草園に植えてある分まで刈り取って売った店もあった。
夕方までに——王都アルテリアのシュテルンモースは、ほぼ全てヴァルトシュタイン伯爵邸の倉庫に収まっていた。
向こう三年、王都のシュテルンモースは品薄になるだろう。もっとも、シュテルンモースのようなものが品薄になったところで、気にする者は誰もいない——今のところは。
◆◇◆
翌朝。
レオンがセレリック侯爵邸の自室で包帯を替えていると、シルが木箱を一つ運んできた。
「レオン様、ヴァルトシュタイン家から届きものです」
木箱を開けた。中には空間拡張の魔法がかけられた革袋が三つ入っていた。一つを開けると——薄い緑色の苔が、ぎっしりと詰まっていた。仄かな燐光を放っている。
革袋の底に、小さな紙片が一枚。
——お約束のもの。四万八千斤。費用はお気になさらず。
——セレーネ
レオンは紙片を見て、目を丸くした。
『……四万八千斤だと? あの娘、随分と気前がいいな』
(言ったのは「数万斤」だ。まさか本当にここまで集めるとは……)
『それだけあれば十分だ。星素の抽出に入れるぞ、小僧。時間を無駄にするな』
レオンは紙片を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。費用はいずれ返さなければならない。——だが、星素から作る薬剤の売却益を考えれば、返済どころか大きな利益が出るはずだった。
◆◇◆
だが金のことを考える前に、レオンの頭にはもう一つ気になっていることがあった。
昨日、セレーネの部屋に向かう途中で見たものだ。
ヴァルトシュタイン伯爵邸の中庭——セレーネの病室がある棟とは反対側の、東翼の庭園で、若い男たちが集まっていた。笑い声が響いていた。病人のいる邸内とは思えない、華やかな空気だった。
◆◇◆
その中心にいたのは、二十歳前後の青年だった。
栗色の髪を後ろに撫でつけ、仕立てのいい外套を纏い、胸元にヴァルトシュタイン家の紋章をつけている。——だが、紋章の色が違った。セレーネの侍女がつけていたのは銀地に青の直系紋章。この青年のものは、銀地に灰の傍系紋章だった。
ディートリヒ・ヴァルトシュタイン。伯爵家の傍系の嫡男で、セレーネの又従兄弟にあたる。
彼の周りには五、六人の若い貴族子弟が集まっていた。学院の同期だろうか、いずれも身なりがいい。
◆◇◆
「見ろ、これが先日手に入れた鎧だ」
ディートリヒが外套を脱ぎ、その下に纏っていた鎧を見せた。
銀白色の軽鎧だった。胸当てから肩甲にかけて、精緻な紋様が刻まれている。紋様は淡い青白い光を放っており——魔力が込められている証だった。
「アイゼンヴァッヘ——《鉄の守護》。サーキット強化型の防護鎧だ。装着者のマナサーキットと共鳴して、受けた衝撃の三割を魔力に変換して吸収する。市場に出れば、金貨二百枚は下らない」
周囲の若者たちがどよめいた。
「金貨二百枚だって!?」
「嘘だろ、そんな鎧が市場に出回っているのか」
「出回らないから価値があるんだ」ディートリヒは余裕の笑みを浮かべた。「ヴァルトシュタイン家の伝手で、帝都の鍛冶工房から直接取り寄せた。一般には流通していない特注品だ」
◆◇◆
取り巻きの一人が目を輝かせた。
「ディートリヒ、俺にも一着紹介してくれないか。来月の模擬戦に——」
「いいぞ。ただし金貨二百枚だ。お前に払えるか?」
「うっ……さすがにそれは……」
ディートリヒは笑って、鎧を脱いだ。そしてそれを、隣に立っていた取り巻きの一人に放り投げた。
「やる」
場が凍った。
「……え?」
「お前にやると言ったんだ。金貨二百枚の鎧を惜しんでどうする。——俺の周りにいる連中には、それなりの装備をしてもらわないと格好がつかない」
投げ渡された青年は、呆然としたまま鎧を抱えていた。
◆◇◆
ディートリヒは懐から小さな木箱を取り出した。
「それからこれだ。五年物のエーテル結晶が六個。家の倉庫から持ち出した。これがあれば、サーキットの強化訓練が格段に捗る」
木箱を開けて見せた。淡い光を放つ結晶が、絹の上に六つ並んでいた。
「俺についてくる奴には、惜しまない。覚えておけ」
取り巻きたちの目が変わった。崇拝と欲望が入り混じった視線。ディートリヒはそれを受けて、満足そうに笑った。
◆◇◆
レオンは中庭を横切りながら、その光景を横目で見ていた。
『……あの傍系の小僧、随分と羽振りがいいな。伯爵家の金で取り巻きを囲っておる』
(……セレーネが寝込んでいるのをいいことに、家の中で勢力を広げている。そういうことか)
『当主の老伯爵は高齢だ。直系の跡継ぎはセレーネ一人。そのセレーネが病で動けない。——傍系にとっては、これ以上ない好機だろうな』
レオンの目が細くなった。
ディートリヒがセレーネの病を心配している様子は、微塵も見えなかった。むしろ——セレーネが倒れていることを、都合がいいとすら思っているように見えた。
鎧を惜しげもなく部下に投げ渡し、家の倉庫から高価な結晶を持ち出して配る。あれは取り巻きへの投資だ。セレーネが回復しなければ、次の当主は傍系から出る。その筆頭がディートリヒだ。
◆◇◆
(……セレーネが治らなければ、あの男が伯爵家を継ぐ)
レオンは足を止めなかった。中庭を抜け、セレーネの病室がある西翼へと向かった。
(だが、セレーネは治る。俺が治す)
『……随分と断言するな、小僧。あの娘にそこまで入れ込む理由は何だ』
(理由か。——ポーションの借りを返してもらう。それだけだ)
『嘘をつけ。ポーションの借りなら薬草代で相殺だろう。四万八千斤のシュテルンモースで十分すぎる』
(…………)
『まあいい。理由は何でもいい。やると決めたなら、中途半端にするな。それだけだ』
レオンは黙って歩き続けた。脇腹の傷が疼いた。自分の分のポーションは、もうない。
だが——懐には四万八千斤のシュテルンモースがある。星素を抽出すれば、セレーネの薬も、自分の傷の薬も、売却用の高純度薬剤も——全て作れる。
足を速めた。時間は限られている。
◆◇◆
セレーネの部屋の前を通りかかった時、ふと足を止めた。
扉は閉じていたが、薄い壁越しに——微かな匂いがした。
骨を煮出したスープの匂いだった。
レオンは少しだけ笑って、そのまま通り過ぎた。




