第96話 ずっと知ってた ——Side:ローシー
馬車がセレリック侯爵邸の裏門から入った。
エヴィルはローシーを送り届けるために、ここまで来ていた。自分の家はもう少し先だが、今夜のことが気になって、先にローシーを侯爵邸に届けようと思ったのだ。
裏門でちょうど、宴席帰りの家令長と出くわした。侯爵家の事務を取り仕切る老人で、エヴィルの顔もよく知っている。
「おや、エヴィルお嬢様。こんな遅くに。レオン坊ちゃまにご用ですかな」
「いえ、ローシーを送ってきただけよ。レオンはもう寝ているでしょう?」
「ええ、とっくに。魔闘会の傷もありますし、今夜は早くにお休みになりました」
エヴィルは二階の窓を見上げた。真っ暗だった。月明かりだけが、カーテンの隙間にうっすらと差し込んでいる。
この時間、今夜の詩はまだ王都中に広まりきってはいなかった。あの詩は確かに上等な作品だったが、一夜にして「今宵随一」の名声を得るには、まだ早い。フリードリヒ卿の訓戒もまだ詩宴の外には伝わっていない。普通の人の耳には、あの詩はカールスベルク家のご子息やヴァルト卿の作品と同程度——あるいは作者が無名な分、やや低く見られているかもしれない。あの詩の真の凄みを即座に見抜けるのは、フリードリヒ卿やヴァレンシュタイン公爵のような、真に学識ある者だけだった。
家令長は詩宴のことなど何も知らない。レオン・セレリックの名が今夜どれほどの人の口に上ったかも。
「遅いですから、お嬢様もお気をつけて」
「ありがとう。——ローシー」
「はい」
「今夜はもう遅いから、レオンを起こさないで。明日の朝、ちゃんと話しなさい」
「……はい」
ローシーが小さく頷いた。長い耳がまだ半分垂れている。
エヴィルは少しだけ笑って、馬車に戻った。
◆◇◆
エヴィルの馬車が去った後、ローシーは裏門をくぐって中庭を横切った。
月明かりが石畳の上に銀色の模様を描いている。静かだった。祝祭の喧騒はもう遠い。
二階の窓を見上げた。暗い。
(……寝てる)
当たり前だ。魔闘会の傷で体はぼろぼろで、今夜は早くに寝たと言っていた。
ローシーは自分の部屋に向かいながら、ふと足を止めて、もう一度二階を振り返った。
(……明日の朝、なんて言おう)
◆◇◆
部屋に戻って、扉を閉めた。
ローシーはそっと扉にもたれかかった。両手を胸の前で組んで、深く息を吸った。仰向いた小さな顔の上に、いくつもの感情が浮かんでは消えた。——嬉しさ、戸惑い、不安、そしてほんの少しの誇らしさ。
ローシーは単純な子ではなかった。見た目は無邪気でうっかり者だが、セレリック家で幼い頃から仕えてきた侍女だ。小さな心の中にも、ちゃんと考えはある。ただし、その考えはいつも、自分の好きな人たちのためにある。レオン様のこと。エヴィルお嬢様のこと。セレリック家のこと。
◆◇◆
ローシーはレオンが小さな頃から、ずっとそばにいた。
覚えている。あの子が初めて魔法の授業で何も出せなかった日のことを。帰ってきて、何も言わずに部屋に入って、窓の外をぼんやり見ていた。ローシーがお茶を持っていったら、「ありがとう」とだけ言って、笑った。
覚えている。「デキソコナイ」と呼ばれ始めた頃のことを。使用人たちがひそひそと噂した。「侯爵家のご子息なのに」「魔法の才能がまるでない」「あれでは跡を継げまい」。ローシーはその度に長い耳を倒して、何も言えなかった。——レオンの耳には届いていたはずだが、あの子は何も言わなかった。ただ少しずつ、口数が減っていった。
あの頃のレオンは、まるで自分に蓋をしているようだった。
本当は頭のいい子だと、ローシーは知っていた。本を読む速さも、物事の飲み込みの早さも、同い年の子とはまるで違った。でも魔法が使えないというだけで、誰もそれを見なかった。やがてレオン自身も、そういう自分を見せなくなった。——見せても仕方がないと思ったのだろう。
ローシーにはうまく言葉にできなかったが、ずっと感じていた。この人は本当はこんなものじゃない。もっとすごい人のはずなのに。——でもそれをどう伝えればいいかわからなかった。「デキソコナイ」と呼ぶ人たちに、何と言い返せばよかったのか。
そして——この三ヶ月。
魔法が覚醒した。魔闘会で三つ星を倒した。それだけでも十分に驚くべきことだったが、ローシーにとって本当に嬉しかったのは、それではなかった。
レオンが笑うようになった。
冗談を言うようになった。物語を聞かせてくれるようになった。手品を教えてくれるようになった。お茶を飲みながら、くだらない話をするようになった。
変わったのではない。戻ってきたのだ。
蓋をしていたものが、少しずつ外れていった。魔法が使えるようになったことで、あの子はようやく——自分自身でいることを、自分に許せるようになったのだ。
レオンは最初からこういう人だった。ただ、長い間それを閉じ込めていただけだった。
(……ローシーは知ってた。ずっと知ってた)
言葉にできなかったけれど。
だから今夜、あの銀の襟留めの青年が「小鬼に詩歌の才があるわけがない」と笑った時——ローシーは黙っていられなかった。
◆◇◆
もともとの計画は、もっと小さなものだった。
レオンが書いた詩を、いつかエヴィルお嬢様に見せよう。そう思っていた。エヴィルお嬢様はレオンの幼馴染で、二人の仲がうまくいけばいいなと——ローシーはそう思っている。
ローシーは小さい頃から、エヴィルに色々なことを教わった。だからエヴィルのことも大好きだし、エヴィルが何を好むかも大体わかっている。エヴィルは詩が好きだ。才能のある人を素直に尊敬する人だ。——レオンの詩を見せれば、きっとエヴィルはレオンを見直す。
レオンが今夜書いたあの詩は、きっとそのきっかけになる。ローシーは詩歌に詳しくはないが、あの詩がいいものだということくらいはわかる。レオン様が書いたというだけで、嬉しかった。
だから持っていった。詩宴で、いい機会があればお嬢様に見せよう、と。
ところが——あの銀の襟留めの青年の声を聞いて、頭に血が上った。
「十四の小鬼に詩歌の才があるとは、誰も思うまい」
——それはあの子が「デキソコナイ」と呼ばれていた頃と、同じ声だった。
中身も見ずに、決めつける声。
ローシーはあの声を何年も聞いてきた。廊下で、庭で、使用人の部屋で。あの声を聞くたびに、長い耳を倒すしかなかった。
でも今夜は——手の中に、証拠があった。
つい出て行ってしまった。公爵に渡して、朗誦して、名前まで言って。
小さな驚きを用意するつもりが——驚きが大きすぎた。
◆◇◆
フリードリヒ卿が二度読みを求めた時、ローシーは自分でも驚いた。公爵が署名を見て笑った時も。場内が沈黙に包まれた時も。
——ローシーが思っていた「いい詩」は、どうやらローシーが考えていたよりも、ずっとずっと「いい詩」だったらしい。
もしこれほどの反響が起きるとあらかじめわかっていたら、ローシーは絶対にあんな風に出て行かなかった。お嬢様に見せるだけのつもりだったのに、結果的にフリードリヒ卿やヴァレンシュタイン公爵まで巻き込んで、詩宴全体をひっくり返してしまった。——エヴィルお嬢様も、船の上で明らかに面食らっていた。
本当は小さな花束を渡すつもりだったのに、間違えて花火を打ち上げてしまったような気分だった。
(……レオン様、才能があるのはいいけど、ここまですごくなくてもよかったのに……)
(明日の朝、どうやって説明しよう……)
(……きっとレオン様が悪い。こんなすごい詩を書くほうが悪い)
ローシーは唇を尖らせて、テーブルの上に広げた羊皮紙——レオンが書いてくれた原稿——を人差し指でつんつんと突いた。
——この世にとどまるものは何もない。
つん。
——ならばせめて、この一瞬を歌おう。
つん。
◆◇◆
(……この一瞬を歌おう、か)
ローシーはしばらくその一行を見つめていた。
今夜、あの甲板の上で、この一節を歌った時のことを思い出した。百人の前で、レオンの詩を、レオンが教えてくれた節回しで。
あの子が「デキソコナイ」と呼ばれていた頃、ローシーには何もできなかった。お茶を持っていくことと、そばにいることくらいしか。
でも今夜——ローシーは歌った。
あの子の言葉を、あの子の声の代わりに。
(……ローシーは歌ったよ、レオン様。あなたの一瞬を)
頬がじわりと熱くなった。
ローシーは慌てて羊皮紙を丁寧に折りたたみ、引き出しの奥底にしまった。
蝋燭を吹き消した。
暗闇の中で、顔がどんどん熱くなっていく小さなハーフエルフの侍女は、手探りで毛布を引き寄せて、もぞもぞとベッドに潜り込んだ。
長い耳が、暗闇の中でぴんと立っていた。
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