第92話 デキソコナイの詩
時刻はもう真夜中に近づいていた。
王都アルテリアの祝祭はちょうど最高潮を迎えようとしている時間帯で、馬車はセレリック侯爵邸を出て、人の流れが比較的少ない道を抜けてきたが、楽師通りに近づくにつれて速度がどんどん落ちてきた。
道すがら、馬車の窓の外には無数の篝火の光が揺れていた。幌を少しめくって外を覗くと、普段は静かな通りですらこの時間は人でごった返している。楽師通り付近の繁華街に差しかかると、前方の道はもう人の頭で埋め尽くされ、馬車はまるで泥沼にはまったように進めなくなった。ドワーフの山車の行列が鉦と太鼓を打ち鳴らしながら向こうからやってくる。
シルはしかたなく馬車を道の脇に止めた。
「姉さん、この先はちょっと無理です」
◆◇◆
シルはレオンの男仆で、ひょろりと背が高く寡黙なハーフエルフの少年だ。ローシーとは同じセレリック侯爵家の使用人同士で、普段から行動を共にしている。今夜は御者を兼ねて、ローシーを歌会に送る役目だった。
ここ数ヶ月、ローシーはレオンの身の回りの世話をしているだけのように見えるかもしれない。だが実際には、彼女と他の二人の侍女——リーゼとメルはセレリック侯爵家で長年仕えてきた。シルもまた同様だ。侯爵家の使用人という立場は、たとえ小さなハーフエルフであっても、下の使用人たちからそれなりの扱いを受ける。ローシーが馬車を手配できたのはそういう理由だ。
「見ればわかるわ。ここで降りるから、シルは馬車を戻してきて」
ローシーは幌をめくって飛び降りた。振り向いてにっこり笑った。
「ありがとね」
「前、すごい人ですよ」シルが長い耳を少し傾けて、人波の向こうを見やった。「俺も一緒に行きましょうか」
「大丈夫、平気だよ」ローシーは手を振った。「馬車をお屋敷に戻さないと怒られるでしょ。先に帰ってて」
「……わかりました」
シルは少し心配そうだったが、頷いた。
ローシーが蝶のように人波の中に駆け込んでいく。小さな手が空中でひらひらと数回振られたのが見えて——やがて人ごみに紛れて、見えなくなった。
シルはしばらくその方向を見ていた。それから長い耳を一度立てて、静かに馬車を走らせ始めた。
◆◇◆
人波をぴょんぴょんとすり抜けて、運河の岸に着いた。
セレリック家の大型遊覧船「アルカディア号」はすでに岸を離れていた。カンテラの灯りを両舷に吊るして、運河をゆっくり進んでいる。岸に残っていた連絡船に招待状を見せ、ボートに乗った。
縄梯子を伝って甲板に上がり、三層目に出ると——歌会はまさに佳境に差しかかっていた。
◆◇◆
月が高く昇っていた。屋根のない三層目の甲板で、詩人たちが輪になって新作を披露し合い、聴衆がワインやハーブティーを手に耳を傾けている。
ローシーが隅に座ると、すぐにリーゼとメルが寄ってきた。セレリック家の侍女仲間だ。
「ローシーちゃん、遅かったね」
「うん、レオン様がなかなか寝なくて……」
「お菓子食べる? エルフのお菓子、すっごくおいしいよ」
メルが皿を差し出した。ローシーは一つ取って頬張った。甘い。おいしい。
レオンに教わった手品を再現しようとして——お菓子を手のひらに隠すはずが、ぽろりと床に落とした。
「あーあ」
「不器用すぎ」
「違うの、レオン様がやるともっとうまくいくの……」
三人でくすくす笑っていると——甲板の反対側から、声が聞こえてきた。
◆◇◆
「——聞いたか。セレリック家のあの小鬼、最近やたらと魔法の腕を上げているらしい」
身なりのいい青年だった。仕立てのいい上着に銀の襟留め。歌会の招待客の一人だろう。周囲に若い学徒たちの輪ができている。
「今日の魔闘会でも三つ星を倒したそうじゃないか。去年まで何もできなかったガキが急にだぞ? 秘薬だの禁忌術だのと、きな臭い噂もあるが——」
学徒たちがあいまいに笑う。青年はワインのゴブレットを軽く回しながら続けた。
「まあ、魔法はいい。力さえあれば認められる世界だからな。だが——」
ここで青年は、にやりと笑った。
「こういう歌会の席には来られないだろう。いくら魔法が強くなっても、詩歌は力でどうにかなるものじゃない。才能と教養の結晶だ。十四の小鬼にそんなものがあるとは、誰も思うまい」
笑い声が起きた。
ローシーの長い耳がぴくりと動いた。甲板の反対側でも、ハーフエルフの耳には届いてしまう。
リーゼがひそひそ囁いた。「あの銀の襟留め、感じ悪いね」
メルも顔をしかめた。「レオン様のこと何も知らないくせに……」
ローシーの長い耳が、後ろに倒れた。——怒りではない。こういう時、ハーフエルフの耳は悲しみの方に倒れる。
ローシーは少し考えて——立ち上がった。
◆◇◆
「すごいですよ、レオン様のお詩は」
さっきまでお菓子を落として笑っていた小さな侍女が、銀の襟留めの青年の輪に向かってまっすぐ歩いてきた。手にはまだお菓子のかけらがついている。
「今夜、レオン様もお詩をお書きになったんです」
この一言に、銀の襟留めの青年も、ちょうどその場に来ていた歌会の主催者オットーも、一瞬動きを止めた。オットーはセレリック家の遠縁にあたる中年の男で、若い頃に登用試験に通った経歴がある。詩歌にもそれなりの見識があり、今夜は各所を回って客人をもてなす役を担っていた。
過ぎること少し、銀の襟留めの青年が笑みを浮かべた。
「ほう。あの小鬼が詩を? 魔法の次は詩歌か。それは素晴らしい。ぜひ皆さんにお見せいただきたいですね」
一片の驚きと喜びを装った表情だったが——内心ではすでに笑い出していた。魔法の腕が上がったことは認めよう。だが詩歌は別だ。あれは一朝一夕でどうにかなるものではない。ましてやまだ十四の小僧だ。この小さな侍女が「すごい」と言っているのは、主人を慕うあまり見境がなくなっているだけだろう。出来の悪い詩を実際にこの場で「品評」してしまえば——いくら魔法が強くなろうと、所詮は教養のない小鬼だという評判が固まる。
◆◇◆
「うん、いいよ」
ローシーは頷いて、服の中から折りたたんだ羊皮紙を取り出し始めた。口はぺちゃくちゃとしゃべっている。
「今夜、レオン様はお体が悪くて、ローシーに歌を歌ってほしいって言うから、詩歌の本から一曲選ぼうとしたんだけど、レオン様が『どれもあんまり好きじゃない』って言って、それで自分でお書きになったの。これがそのお詩で、ローシーが書き写したんです……」
——「どれもあんまり好きじゃない」から自分で書いた。十四の小僧がずいぶんな言い草だ。
オットーが眉をひそめた。銀の襟留めの青年は笑みがいっそう晴れやかになった。
◆◇◆
ローシーがそう言いながら羊皮紙を広げたところで——甲板の奥から一人の男がゆっくりと歩いてきた。
ヴァレンシュタイン公爵。
王国四公爵の一人にして、王立学院の総長を兼ねる。文武の大家であり、詩歌においては「銀筆」の異名で知られる。今夜はセレリック家の歌会に来賓として招かれていた。
白髪交じりの壮年の男だった。背が高く、仕立てのいい黒い外套を纏い、胸元に王家の紋章の徽章をつけている。穏やかだが、その目は周囲のすべてを見透かすような静かな鋭さを湛えていた。
甲板の上の空気が、一段変わった。
銀の襟留めの青年の笑みが少し引きつった。オットーは姿勢を正した。学徒たちも自然と背筋を伸ばしている。
公爵は何も言わず、騒ぎの輪の傍で足を止めた。——何事かと、静かに成り行きを見ている。
その傍らに、もう一人。
◆◇◆
エヴィルが立っていた。
公爵の隣に控えるように——いや、自分も成り行きを見に来たという風だった。歌会にふさわしい淡い色の衣装を纏い、髪をきちんと整えている。レオンの幼馴染にして、この歌会の招待客の一人。
「ローシー?」
小さなハーフエルフの侍女が羊皮紙を手に、銀の襟留めの青年たちの輪の中に立っているのを見て、エヴィルは少し目を瞬いた。
ローシーもエヴィルに気づいた。だが今は説明している場合ではなかった。
◆◇◆
オットーが口を開いた。
「公爵閣下。実は今、セレリック家のレオン殿が詩をお書きになったと——こちらの侍女が」
「ほう」
公爵の視線がローシーに落ちた。小さなハーフエルフの少女が、手にお菓子のかけらをつけたまま、折りたたんだ羊皮紙を持っている。
「見せてもらえるかね」
穏やかな声だった。
ローシーは一瞬ためらった。——レオンは「歌うな」と言った。この羊皮紙を渡せば、もう取り返しがつかない。
だが——あの男の声が、まだ耳に残っている。
「いくら魔法が強くなっても、詩歌は力でどうにかなるものじゃない。十四の小鬼にそんなものがあるとは、誰も思うまい」
(……それは違う)
「あの」ローシーは羊皮紙を差し出した。「——お願いします」
◆◇◆
公爵が羊皮紙を受け取った。
銀の襟留めの青年は、笑みを浮かべたまま首を少し伸ばした。見えなかったが、気にしなかった。
——どのみち、魔法がいくら強かろうと、詩歌だけは誤魔化しがきかない。ましてや十四の小僧だ。公爵の前で恥をかくなら、なおさら好都合だ。
いたずらが成功する直前のような気分で、にこにこと待っていた。
◆◇◆
公爵は紙面に目を落とした。
最初の数行——目の動きが、ゆっくりになった。
唇がかすかに動いている。文字を一つずつ追っているのではない。——噛みしめている。
オットーはその様子を見て、表情が変わった。王国随一と謳われる「銀筆」が、こういう読み方をするのは滅多にない。
銀の襟留めの青年は、まだ笑っていた。
エヴィルは公爵の横から、紙面をちらりと見た。最初の数行が目に入った。
——思へばこの世は常の住み家にあらず。
——草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。
ほんの一瞬——エヴィルの目元が、かすかに動いた。
◆◇◆
公爵はローシーを一度見た。
小さなハーフエルフの侍女が、長い耳をまっすぐ立てて、じっとこちらを見ている。
公爵は紙面に目を戻した。読み進める。
——ラウレリアに花を詠じし者も、栄花は先つて無常の風に誘はるる。
——銀の塔に月を愛でし輩も、月に先つて有為の雲にかくれり。
古の帝国の栄華を引いて、人の世のはかなさを詠んでいる。『月下独吟』の詩型だが——こんな使い方は見たことがない。
——人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。
——一度生を受け、滅せぬもののあるべきか。
五十年を天の時に比べるこの視座。
これが本当に、十四の少年の筆から生まれたものだというのか。
まるで——この世界の外側から、人の営みを眺めているかのような。
◆◇◆
船の横手から、祝祭の花火が上がった。
華やかな光の明滅が、甲板の上の人々の顔を照らした。オットーが公爵の表情を窺い、銀の襟留めの青年が温和な笑みを浮かべたまま待ち、学徒たちが固唾を飲んで成り行きを見守っている。
ローシーは公爵の手の中の羊皮紙を見つめた。
(……レオン様)
エヴィルはもう紙面を覗こうとはしなかった。ただ公爵の横顔を見ていた。——幼い頃から知っているあの少年の名前が、今、王国最高の詩人の手の中にある。
花火の光が、公爵の瞳の中で明滅した。
紙面から目を上げない。
エヴィルは公爵を見た。それからローシーを見た。——小さな侍女の長い耳がまっすぐ立っているのが見えた。
視線を前に戻した。
花火が一つ、また一つと夜空に咲いては消えていく。
その華やかな炎の照り返しの中で——エヴィルは軽く唇を噛んだ。
瞳の奥の光は、複雑にして、言い表しようのないものを湛えていた。
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