第91話 夢幻の如くなり
王都アルテリアの夜空に、無数の火の粉が舞い上がっていた。
魔闘会の祝祭。年に一度、大陸中から剣士と魔導師が集い、技を競い合う大会——その前夜祭にあたる今宵、王都は眠ることを忘れていた。
運河にはカンテラを掲げたボートがひしめき合い、水面が揺れる灯りで金色に染まっている。両岸の篝火台には炎が高々と上がり、運河に沿って光の帯が街を貫いていた。橋という橋に人が鈴なりになり、欄干から身を乗り出して水上の船団を眺めている。
門限はない。騒ぎは夜通し。翌朝の聖鐘が鳴るまで無礼講。——要するに、街全体が酔っ払っている。
大通りにはドワーフの鍛冶屋が露店を並べて記念品を叩き売り、ケットシーの曲芸師が辻で宙返りし、ドラケニアの傭兵が腕相撲の賭け試合を開いていた。ヴァンデルン族の楽団が異国の旋律を奏でながら通りを練り歩き、その後ろを子供たちが踊りながらついていく。吟遊詩人の館は窓も扉も開け放たれて、歌声と笑い声と酒の匂いが絶え間なく溢れ出していた。
運河の上流では、貴族たちの遊覧船が灯りをまとって連なっている。三層甲板の大型帆船から一人乗りのゴンドラまで、大小さまざまな船がゆっくりと水面を滑っていた。船上では楽の音が鳴り、詩が詠まれ、乾杯の声が夜風に乗って岸まで届く。
その中でもひときわ目を引くのが、セレリック家の遊覧船「アルカディア号」だった。三層の甲板を持つ優美な帆船で、船体の両舷に魔導灯が吊るされ、水面に青白い光を落としている。今夜はこの船上で歌会が催されており、甲板の上に貴族や文人が集い、詩を競い合っていた。
この世界では詩を詠むことが教養の証であり、社交の武器であり、出世の切り札だった。人間もエルフもドワーフも詩を詠む。いい歌を一篇詠めればどこへ行っても礼遇され、下手な歌を公の場で詠めば——社会的に死ぬ。
祝祭の夜、王都はあらゆる種族の声と灯りで満ちていた。
◆◇◆
——そんな祝祭の夜を、レオンは窓から眺めていた。
セレリック侯爵邸の離れにある小さな部屋。蝋燭が一本だけ灯っている。窓は開け放たれていて、夜風がカーテンを揺らすたびに外の喧騒と篝火の匂いが流れ込んでくる。
楽しそうだ。非常に楽しそうだ。
——脇腹が痛い。出歩く気力がない。レオンの祝祭は窓辺で終了だった。
歌会の招待状は二枚もらっていた。一枚は自分用。もう一枚はローシーの分。自分は行かない。だがローシーには楽しんでもらう。——それは、もう少し後の話だ。
◆◇◆
今のところ、主人と侍女の二人は部屋でささやかな夜会を開いていた。
最初、レオンは物語を聞かせようとした。「竜と七つの星の騎士」の続きをやるつもりだったのだが、終盤で騎士が主君の妻と駆け落ちする展開を思い出して、急遽「灰色熊と旅人」という無難な冒険譚に差し替えた。
ローシーは長い耳をぴんと立てて聞き入った。怖い場面では耳が後ろにぺたんと倒れ、面白い場面ではぴくぴく揺れる。感情が全部耳に出る子だった。
◆◇◆
お返しにローシーが歌を二つ歌ってくれた。エルフの古い旋律に人間の言葉を乗せた素朴な歌で、ハーフエルフの声は澄んでいて心地よかった。
合間に踊りも見せてくれた。
どこかの祝祭で見かけた踊りを自分流に真似たらしい。セレーネは侍女に歌舞を教えていないから、完全に我流だった。一生懸命なのは伝わる。すごく伝わる。——それ以上は言わないでおく。
拍手はした。
◆◇◆
ローシーはチェスが好きだったが、今日は脇腹が痛いし頭を使う気力がない。
代わりにレオンは手品を見せることにした。
使うのはチェスの駒一つ。白のナイト。
まず駒を右手に握って見せる。ローシーの目が駒に集中したところで、左手を大げさに振って注意を引く。その一瞬、右手の駒を指の付け根と掌の間——フィンガーパームと呼ばれる位置に滑り込ませる。手を自然に開くと、掌は空に見える。駒は指の陰に隠れているだけだが、正面から見ると消えたようにしか見えない。
そのまま手をローシーの耳の後ろに持っていき、指を緩めて駒を落とす。まるで耳の後ろから出てきたように見える。次はエプロンのポケットに手を入れるふりをして、同じ要領で駒を「取り出す」。
「えっ!? え、えぇっ!?」
目を丸くして耳が逆立った。
「種はこうだ」
笑いながら一通り教えてやると、ローシーが真似しようとした。——が、指の付け根に駒を保持できない。手が小さすぎるのか、力の入れ方が分からないのか、チェスの駒が手のひらから盛大にはみ出している。
「あの、レオン様、こうですか?」
「……練習すればそのうちできる」
窓の外を見ると、篝火がまだ揺れていた。
「俺はそろそろ寝る。ローシーはセレリック家の歌会に行ってこい。招待状は机の上だ」
「レオン様がお休みになってから行きます」
即答だった。
「ふん。なら寝るまでもう一曲歌ってくれ」
「いいですよ。何をお聞きになりたいですか?」
◆◇◆
二人はベッド脇で詩歌選集を開いた。
「『嘆きの航海』」
「それはローシー歌えません」
「『暁の丘』は?」
「歌えます!」嬉しそうに息を吸い込んだ。
「やっぱりいい。あんまり好きじゃない」
「……」耳がしょんと下がった。
「『星詠みの賦』」
「聞いたことはありますけど……自信ないです」
「『月下独吟』は?」
「あ、それ歌えます!」耳がぴんと立った。
「——ただ、別の詞でやりたい。同じ詩型で」
「別の……詞ですか?」
◆◇◆
この世界にはない言葉を、レオンは思い出していた。
前の世界で何度も耳にした一節。織田信長が桶狭間の前に舞ったと伝わる、幸若舞の「敦盛」。テレビの正月特番か何かで、誰かが朗々と謡っていた気がする。今まで一度も思い出さなかったのに、今夜、月を見上げたらするりと浮かんできた。
「ローシー、ペンとインク」
「はい? あ、はい!」
弾かれたように立ち上がった。
◆◇◆
ベッドの縁に体を預けて、羊皮紙に書き始めた。脇腹が痛んで姿勢が悪い。字がひどく歪む。
中身は覚えている。ただ、そのままでは使えない。「金谷」も「南楼」もこの世界にはない。「金谷」はラウレリア——花を詠んだ詩人の国。「南楼」は銀の塔——ラウレリア帝国の王城にあったという伝説の塔。それで置き換えた。
書き終えて、ローシーに見せた。
「レオン様がお書きになったんですか?」
目が輝いていた。
「ああ。お前にやる。——さあ歌え」
◆◇◆
ローシーはその詞をしばらく真剣に見つめてから、『月下独吟』の節回しに乗せて歌い始めた。
澄んだ声だった。専門の歌い手ではないから技巧はない。途中で一度音を外した。——が、雰囲気はすばらしかった。
聴き終えて、レオンはふっと笑った。
「もう一回。今度は別の歌い方を教えてやる」
「え? 別の……歌い方?」
「ああ。俺が一節歌うから、お前が続けて真似しろ」
「レオン様が歌うんですか!?」耳がぴんと立った。
「いくぞ」
◆◇◆
レオンが一節歌い、ローシーが繰り返す。この世界で誰も聴いたことのない旋律が、小さな部屋の中に満ちていった。
やがてローシーは全体を覚えた。レオンが頷く。
「通してみろ」
ローシーは小さく息を吸って、目を閉じた。
そして——この世界で初めて、あの旋律が一つの歌として響いた。
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし
ラウレリアに花を詠じし者も
銀の塔に月を愛でし者も
万の栄華は夢の間にして
ひとたびの風に燭の消ゆるが如し
天つ星の巡りに比ぶれば
人の世の五十年はただ一瞬の瞬き
この世は夢幻の如くなり
ひとたび生を享け
滅せぬもののあるべきか
最後の一音が消えて、しばらく沈黙があった。
窓の外では祝祭の喧騒がまだ続いている。遠くの篝火が揺れている。だがこの小さな部屋の中だけ、時間が止まったようだった。
前の世界の旋律が、この世界の声で響いた。それだけのことなのに、胸の奥の、普段は触れないようにしている場所に、何かがそっと触れた気がした。
「どう思う。いい歌か」
「すごく……すごくいいです……」
ローシーがレオンを見上げる目が変わっていた。敬慕というか、仰望というか——言葉にならない色が浮かんでいる。
「レオン様は……作曲もおできになるのですね……」
レオンは苦笑した。
「この歌は自分で口ずさむだけにしておけよ。あちこちで歌うな。お前みたいな小さな侍女が勝手に詩型の節回しを変えて歌ったりしたら、礼儀知らずだと言われかねない。わかったか」
「はい!」
ローシーはその羊皮紙を両手で大事そうに抱え、力強く頷いた。
「よし……おやすみ」
◆◇◆
レオンが毛布にもぐり込んだ。
しばらくして首をひねると、ローシーがまだベッド脇の椅子に座ってじっとこちらを見つめていた。数日前に体調を崩した時にも、こうして枕元で見守っていたのと同じ目だった。
「大丈夫だから、もう行け」
ローシーはそこでようやくはっとして、慌てて立ち上がった。
「おい、机の上の招待状持っていけ。でないと船に乗せてもらえないぞ」
「あ、はい!」
ばたばたと蝋燭を消し、招待状をつかんで出ていった。扉が閉まる。——と思ったら、隙間からもう一度顔を覗かせた。
「おやすみなさい、レオン様」
「おやすみ」
今度こそ扉が閉まった。
◆◇◆
レオンは大きなあくびをした。
街の喧騒がまだかすかに聞こえてくる。篝火の光が窓に揺れていた。
夢幻の如くなり、か。こっちの世界に来てから、毎日が夢みたいなものだ。
——まあ、悪い夢じゃない。
目を閉じた。やがて、眠りに落ちていった。
◆◇◆
ローシーは部屋の外の柱に背を預けたまま、しばらくぼんやりと立っていた。
手の中の羊皮紙を見下ろす。レオンの歪んだ字。ベッドの脇で、痛む体を押して書いてくれた字だ。
寝息が聞こえてきたのを確かめてから、ローシーは階下に降りた。
自分の小部屋に戻り、蝋燭を灯し、ペンとインクを取り出した。小さな机に突っ伏すようにして、あの歪んだ字を、もう一度きれいに書き写す。
書き終えてから、何度か元の羊皮紙を見返した。
それから——耳の先まで赤くなった顔で、引き出しの一番奥にそっとしまい込んだ。
まるで盗みを働いたみたいに。
◆◇◆
それからローシーは離れを出た。
通りに誰もいないのを確かめてから小走りに正門へ駆けていき、執事に馬車を一台頼んで、嬉しそうに「アルカディア号」へと向かっていった。
小さな侍女はやはり、こういう賑やかなものが好きなのだった。
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本章でローシーが歌った詩は、日本の室町時代に成立した幸若舞「敦盛」の一節を元にしています。
原典はこの世の無常を詠んだ詩で、草葉の露や水面の月のように人の世は儚く、万の栄華は夢の間にすぎない——という内容です。この一節は戦国武将・織田信長が桶狭間の戦い前夜に舞ったことで知られ、太田牛一の『信長公記』にも記された日本で最も有名な戦国の名場面の一つです。
作中ではレオンがこの詩を異世界の文脈に合わせて改編しています。「金谷」を古代帝国ラウレリアに、「南楼の月」を伝説の銀の塔に置き換えるなど、世界観に沿った形に直しました。
レオンがこの世界に来て、もう十四年になります。日々の中では意識しないものの、ふとした拍子に——たとえば祝祭の夜、月を見上げた瞬間に——前の世界の記憶が不意に蘇ることがある。「人の世の五十年はただ一瞬の瞬き」という一節は、原典では人の命の儚さを詠んだものですが、レオンにとっては別の意味も重なっています。気づけば十四年。あっという間だった。この世界での日々もまた、夢幻の如く過ぎていく。
数百年前の日本の言葉が、異世界のハーフエルフの少女の声で蘇る。——その不思議な響きを楽しんでいただければ幸いです。
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