第90話 祝宴の裏側
魔闘会が終わった。
夕暮れの茜色がヴァルトシュタイン子爵邸の白壁を染めている。エヴィルがセレーネの部屋から出てきたのは、ちょうどその頃だった。碧色のポーションの効果は確かだった。セレーネの手は先程より温かく、唇にもわずかに色が戻っている。
フィーネに後を任せ、回廊を歩いていると、侍女のローシーが小走りで駆けてきた。
「エヴィル様、レオン様はもうセレリック侯爵邸にお戻りになったそうです。護衛をつけましたが、断られてしまって……」
「断った? あの脇腹で?」
「『一人で歩ける』と……」
エヴィルはため息をついた。昔からそうだ。頑固で、意地っ張りで、人の助けを素直に受け取らない。
「——ローシー、一つ聞いていい? レオン兄様が三ヶ月前から変わったと思う?」
ローシーは少し首を傾げた。
「物語はずっと前からお話しになっていましたけど、最近はそれとは違う知識が急に出てくるようになりましたよね。薬草の名前とか、ポーションの話とか」
「でも——レオン様ご自身は、変わっていないような気がします。話し方とか、人との接し方とか」
(……この子もそう感じるのね)
中身は変わっていない。でも三ヶ月前から、何かが上に乗った。まるで、ある日突然、別の引き出しが開いたみたいに。
◆◇◆
祖父の書斎に入ると、先客がいた。フィーネの父——筆頭家臣ベルクハルトが、老子爵と向かい合って座っている。
「セレーネの様子はどうだ」
「ポーションが効きました。手の温度が戻り、唇の色も改善しています」
沈黙が落ちた。
「半年間、王都の名医が束になっても動かなかったものが——あの少年のポーション一本で動いた、と」
「はい」
老子爵は杖の頭を指先で叩き続けた。「偶然か。本物か」
「分かりません。ただ、ポーションは確かに効きました。それだけは事実です」
「明朝、もう一度あの少年にセレーネを診させろ。処方箋の薬草は試してよい」
ベルクハルトが小さく頭を下げた。
◆◇◆
馬車で二十分ほど。
窓から見える王都の街並みは、すでに祝祭の色を帯び始めていた。通りの街灯が、いつもの白ではなく淡い金色に切り替えられている。魔闘会の日だけの特別な灯りだ。
大通りにはドワーフの鍛冶屋が記念の魔石細工を並べた屋台を出し、ヴァンデルン族の占い師が天幕の下でタロットを広げ、ケットシーの曲芸師たちが身軽に宙返りしながら子供たちを笑わせている。ルーンキャラバンの行商人は大きな荷車に珍しい魔道具を積んで、エルフの客と値段の交渉をしていた。
王都アルテリアは多種族の街だ。人間が最も多いが、エルフ、ドワーフ、ケットシー、竜鱗族のドラケニア——さまざまな種族が行き交い、共に暮らしている。ヴァンデルン族の幌馬車が街の広場に止まっているのは珍しくない光景で、彼らが持ち込む異国の薬草や香辛料は市場の名物だった。
祝祭の夜になれば、その多様さがいっそう際立つ。人間のリュートにエルフのハープが重なり、ドワーフの低い太鼓がリズムを刻み、ヴァンデルン族の笛が異国の旋律を奏でている。不思議と調和のとれた、王都ならではの祝祭の音だった。
◆◇◆
セレリック侯爵邸に着いた時、すでに屋敷全体が祝祭の空気に包まれていた。魔闘会の日の祝宴だ。
——だが、華やかさの中に別の空気が混じっていた。
大広間に向かう回廊で、角の向こうから侍女二人の囁きが漏れ聞こえた。
「……だから、何か秘薬を使ったんじゃないかって」
「でも秘薬であんなに動ける? 三つ星の相手よ?」
エヴィルが角を曲がると、二人は声を呑んで深々と頭を下げた。エヴィルは何も言わず通り過ぎた。
(……もう広まっているのね)
「デキソコナイ」のレオンが魔闘会で三つ星を倒した。それだけで屋敷中の話題になるには十分だ。
◆◇◆
大広間は光と音に満ちていた。当主から使用人まで数百人が一堂に会する盛大な宴。
レオンはすでに席についていて、隣のドワーフの老鍛冶頭と何やら話し込んでいる。
「——それで、その鍛冶師は溶岩の中に三日三晩立ち続けて、ようやく剣を打ち上げたわけだ」
「三日三晩!? ドワーフでも溶岩の中は無理じゃろう!」
「まあまあ、物語だから。細かいことは気にしない方向で」
「気にするわ! 鍛冶を舐めとるのか!」
エヴィルの姿を見つけると、レオンが軽く手を上げた。
「遅かったな」
「祖父様のところで少し話し込んだの。——また鍛冶頭を怒らせてるの?」
「怒らせてない。盛り上がってるんだ」
エヴィルはレオンの隣に座った。昔からずっとこうだ。宴席ではいつも隣同士。
座った瞬間、周囲の使用人たちの視線が一瞬集まり、すぐに散った。レオンは気づいているはずだ。あの人は鈍いようで、こういうことには妙に鋭い。——ただ、気づいた上で何もしない。
料理が運ばれてきた。レオンが根菜のグラタンを見て目を細めた。
「月光苔のバター。……食材としても使えるのか」
「月光苔は薬草でしょう。料理にも使うの?」
「使える。本来はこっちの使い方の方が古い。薬草として広まったのは後からだ」
——また出た。三ヶ月前から突然現れた知識。
「……詳しいのね」
「まあ、いろいろと」
エヴィルはゴブレットを傾けた。聞き流した振りをして、心の中でそっと書き留める。
隣でケットシーの伝令役がレオンの皿からチーズをくすねようとしていた。
「おい、見えてるぞ」
「にゃっ! 見てないふりしてくれてもいいじゃないですかー!」
「厨房にまだいくらでもある。自分の分を取ってこい」
「厨房のおばちゃんが怖いんですよー」
「……知らんがな」
噂が飛び交う広間の中で、レオンだけがいつも通りだった。他人が自分をどう評価するかに対する、根本的な無関心。
(……腹が立つ)
誰に対してかは、自分でもわからなかった。
◆◇◆
宴の途中、ローシーがエヴィルの傍にやってきた。
「衛兵の控え室で、レオン様のことがずいぶん話題になっていまして。秘薬だとか禁忌術だとか——」
「レオン兄様は何か言った?」
「何も。ケットシーの伝令役が聞いたら、『何の話?』って笑って、そのまま子供たちに物語の続きを聞かせ始めて……」
「放っておきなさい。噂は噂。そのうち消える。——消えなければ、私が消す」
最後の一言は、自分でも思っていたより低い声だった。ローシーが目を丸くした。
◆◇◆
夜が更け、宴は緩やかに落ち着いていった。客の大半が引き揚げた頃、セレリック老侯爵が暖炉の前のアームチェアでエヴィルとレオンに声をかけた。
「お前たちは互いに支え合っていけ」
昔から何度も聞いた言葉だ。子供の頃は聞き流していた。今は——少し、違う響きがある。
◆◇◆
中庭に出ると、夜の冷えた空気が頬に触れた。フェアリーたちはほとんどが木々に戻って眠りにつき、残った数匹が噴水の上でぼんやりと光っている。
レオンがベンチに腰を下ろした。脇腹を押さえている。
「……痛いの?」
「何が」
「脇腹。宴の間ずっと我慢してたでしょう。料理を取る時に左腕だけ使ってたわ」
レオンが少し驚いた顔をした。
「……聞こえていたでしょう」エヴィルは腕を組んだ。「屋敷中で貴方の噂をしていたわ。秘薬だの禁忌術だの」
「まあ、そうだろうな。急に変わったように見えれば、疑うのは普通だ」
「何も言い返さないつもり?」
「言い返して何になる。証拠を見せろと言われても困る。俺にだって上手く説明できない」
「——説明できない、ということは、説明すべき何かがあるの?」
レオンがエヴィルを見た。噴水の上のフェアリーの淡い光だけが二人を照らしている。
「……別に。大したことじゃない」
出た。いつもの台詞。何かある時ほどそう言う。
「大したことじゃないなら、教えてくれてもいいでしょう」
「……そのうちな」
「そのうち、っていつ?」
「整理がついたら」
曖昧な答えだ。でも——「何でもない」とは言わなかった。「整理がついたら」と言った。それは、いつかは話すという意味だ。
「……約束よ」
「約束というほどのものでも——」
「約束」
レオンは苦笑した。だが、否定はしなかった。
しばらく二人とも黙っていた。
「……寒くないか」レオンが言った。
「平気よ」
「嘘つけ。腕に鳥肌立ってるぞ」
(……なんでそういう細かいところだけ気づくのよ)
「レオン兄様こそ、早く部屋に戻って脇腹を冷やしなさい」
「冷やすのか温めるのか、どっちがいいんだったかな……」
「薬学の知識はどうしたの」
「……あれは薬草とポーション限定だ。怪我の応急処置は専門外」
(……変なところで正直ね)




