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錬金系の落ちこぼれ四男、辺境領主として無双する  作者: 穏やかな旅人


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第89話 碧の瓶と処方箋


レオンが初めてセレーネ・ヴァルトシュタインの部屋に足を踏み入れたのは、ポーションを届ける名目だった。目に入ったのは、まず淡い絹の帳に囲まれた寝台、それから三人の女——フィーネ、エヴィル、そしてもう一人、帳の内側で慌ただしく寝具を整えている侍女だった。


帳は病床の常で、衰弱した令嬢の姿をみだりに晒さぬためのものだった。


レオンは軽く咳払いをして前に進み、医師が使っていたらしい丸椅子に腰を下ろした。侍女が運んできたものではない。まだ微かに温もりが残っていた。本物の医者のように澄まし顔で座ったが、脇腹の疼きが走り、危うく顔を歪めそうになった。すぐに表情を戻し、口を開いた。


「セレーネ嬢。手を見せてもらえるか」


◆◇◆


帳の向こうで、微かな衣擦れの音がした。


侍女が即座に口を挟んだ。


「お待ちください。お嬢様のお体に触れることはお許しできません」


ヴァルトシュタイン伯爵家の令嬢、しかもただ一人の直系だ。未婚の貴族令嬢に、素性の知れぬ少年が肌を触れるなど——主治医ですら侍女立ち会いのもと、最低限の接触しか許されていない。


「脈を診るだけだ。手首に指一本、触れるだけでいい」


侍女は唇を引き結んだまま、帳の向こうに目を遣った。


◆◇◆


沈黙が落ちた。やがて——


「……いいわ」


帳の向こうから、掠れた声が返ってきた。侍女が驚いた顔で振り返った。


白く細い左手が帳の隙間からゆっくりと差し出され、腕枕の上に置かれた。腕枕は使い込まれた絹張りのもので、寝台の脇に常備されていた。主治医が頻繁に訪れている証だった。


侍女は一歩寄り、レオンの手元を凝視した。何かあれば即座に止める構えだった。


◆◇◆


レオンはその手首を見た。陶器のように滑らかで、血管が薄く透けて見える。だが、その白さは健康な白さではなかった。血の気が引いた、病的な白さだった。そして——手首の内側に、薄い青紫の痣が覗いていた。


指先を一本だけ伸ばし、手首に軽く触れた。


◆◇◆


フィーネが息を殺してこちらを見ていた。指一本で診るその仕草に、何かしらの信頼を感じたのかもしれない。——実際のところ、レオンの感知法はオグリから学んだ独自のもので、正式な医術とは全く別物だった。一本指で触れるのは、サーキットの微細な振動を拾うためであり、格好をつけているわけではない。だが、わざわざ説明する必要もなかった。


指先から伝わる感触は——冷たかった。異様なほどに。


胸元のペンダントが微かに熱を帯びた。


『……小僧、もう少し深く探れ。表層だけでは見えん』


頭の中に、オグリの声が響いた。レオンは目を閉じ、指先から微量の魔力を流し、サーキットの深部を探った。


◆◇◆


酷い有様だった。強化系のマナサーキットは至るところで断裂し、逆流した魔力の残滓が澱のように溜まっていた。医師の治療で表層は安定していたが、深部——特に心臓から四肢へ伸びる幹線は、内側から焼けたように損傷していた。


『……バックフローだけではないな』


オグリの声が低くなった。


『サーキットの底に別のものがある。冷たくて重い、暗い魔素だ。——ナイトエーテルの蓄積だ、小僧。これは厄介だぞ』


レオンの指が僅かに強張った。


『ナイトエーテルがサーキットのノードに沈着して、回路を内側から塞いでおる。この世界の医者どもは「バックフローによる魔力枯渇」しか診ておらん——原因と結果を取り違えておるのだ。ナイトエーテルの蓄積が先で、バックフローは結果に過ぎん』


◆◇◆


「サーキットの深部にナイトエーテルが蓄積している。これがバックフローの根本原因だ」


「何ですって?」侍女が即座に反応した。


『眼瞼結膜の色を確かめろ。ナイトエーテルの長期蓄積があれば、瞼の裏に特有の暗紫色が出る。古い文献にしか載っておらんがな』


「眼瞼の裏の色を確かめたい。顔に触れさせてもらえるか」


「なりません!」


侍女は微塵の迷いもなく拒否した。


『……仕方ない、問診で絞り込め。儂が質問を出す』


◆◇◆


「主治医の診断は、魔力枯渇か」


答えたのは侍女だった。帳の向こうのセレーネは衰弱して、横になったまま一言も発していなかった。


「はい」


レオンはオグリの声に従い、問いを重ねた。


「夜になると、四肢の末端が異常に冷えるか」


「はい」


「体が痩せてきているか」


「はい」


『次は夜間の体感を聞け。深部の蓄積があるなら、必ず特有の症状が出る』


「深夜に、体の芯が氷に沈むような感覚があるか」


「は——」


◆◇◆


侍女の口が、途中で止まった。今の質問は、侍女には答えられない。深夜の体感は、本人にしか分からない。


だがレオンはその一瞬の沈黙を見逃さなかった。指先がまだ手首に触れていた。——掌が、微かに湿っていた。冷えているのに発汗している。


『末梢循環不全だ。ナイトエーテルがノードに沈着して末端への魔力供給を塞いでおる。上古の文献では「ナイトエーテル沈着症」と呼ばれていた。今の医者で知っている者は、まずおるまい』


帳の向こうで、微かに息を呑む音がした。


◆◇◆


「……ええ。毎晩」


初めて、セレーネ本人の声が返ってきた。掠れた、だが確かな声だった。


侍女が驚いた顔で帳の方を見た。


レオンは続けた。


「サーキットのノードに痣が出ているはずだ。手首、足の甲。痛みが消えず、広がっているか」


「……はい」


「いつからだ」


「……半年前から」


◆◇◆


フィーネが息を呑んだ。「半年——!?」


『半年か。だいぶ進行しておるな。だが……ノードの固着が完全でなければ、まだ間に合わんことはない』


レオンは内心でほっとしたが、表情には出さなかった。


「セレーネ嬢のサーキットには、確かにナイトエーテルが蓄積している」


これだけ問診して、結局この結論か——侍女が唇を噛んだ。フィーネが目を剥いた。エヴィルですら、小さく溜息をついた。


◆◇◆


だがレオンは気にせず、立ち上がって部屋の隅の書き物机に向かった。羊皮紙と羽根ペンを取り、迷いなく書き始めた。


処方箋だった。


『ルナリア・ブルームを主剤にしろ。ナイトエーテルを包み込んで体外へ押し出す作用がある。ただし活性が強すぎる——シルバーリーフの根の粉末で緩衝しなければ、残ったサーキットまで焼く。比率は七対三だ。間違えるな』


オグリの声が矢継ぎ早に指示を飛ばした。レオンは一言一句漏らさずに書き取った。上古の炼金術に基づく処方だった。今の王都の医者が知るはずのない知識。


書き終えた羊皮紙を侍女に渡した。侍女は受け取り、目を通した。——その眉が、すぐに跳ね上がった。


◆◇◆


「ルナリア・ブルーム、月光苔、シルバーリーフの根……」


侍女は顔を上げた。数年間、様々な医師がセレーネに出す処方を間近で見続けてきた女だ。長く病人に付き添ううちに、薬草の知識に関しては並の薬師を凌ぐほどになっていた。


「ルナリア・ブルームは活性が強すぎます。お嬢様のサーキットは今、バックフローで消耗しきっているのですよ。ここに活性の強い薬草を入れれば、残った魔力まで燃え尽きるのでは?」


『ほう、この侍女はなかなか見所がある。だが——理屈が逆だ』


◆◇◆


「だからシルバーリーフの根で緩衝する。最初の一週間は半量で煎じ、体が受け入れ始めたら本来の量に戻す」


侍女はレオンを見た。少し苛立った目だった。


「お嬢様はナイトエーテルの汚染で体が弱っているんです。活性の強い劇薬など、とても耐えられません」


『この侍女の言い分は、今の医学の常識に基づいておる。だが逆だ。毒が残ったまま体を養うのは、穴の空いた桶に水を注ぐようなものだ——まず穴を塞がねば、いくら水を足しても無駄だ。原因を攻め出してから、体を補う。今の連中が忘れた順序だ』


レオンは苛立ちを飲み込んだ。侍女はセレーネの身を思えば手を抜いているわけがない。主治医の指示に忠実に従っているだけだ。


だが——処方の話はオグリの領分だった。ここから先は、レオン自身の知識の出番だった。


「処方の前に、もう一つ。食事を変える必要がある」


◆◇◆


「食事……?」


「今、どういう食事をしている」


侍女は姿勢を正し、自信を持って答えた。


「毎日、薬草を煮出した淡いスープに温野菜です。油気のあるものは一切お出ししておりません。主治医の指示で、体に負担のかからない食事を徹底しております」


◆◇◆


レオンの中で、前世の記憶が弾けた。


(——冗談じゃない)


これはオグリの知識ではない。前世の世界で学んだことだった。脂質を完全に断つ——それがどれほど危険なことか。脂は体の壁を作り直す材料だ。体のあらゆる部分が脂質の膜で包まれている。それを断てば、体は壊れた場所を修復する材料を失い、自分自身の筋肉を分解して賄い始める。免疫が落ち、回復力が失われていく。


この世界の医者は「弱った体に油気は毒」と信じている。だが前世の世界では、それは完全に間違った常識だった。重病の患者にこそ、脂質と肉から得られる栄養が必要なのだ。


『……小僧、何を考えておる? 処方の話はまだ終わっておらんぞ』


(黙っていてくれ、師匠。ここから先は俺の領分だ)


『……何?』


オグリが怪訝な声を上げた。だがレオンは構わず口を開いた。


◆◇◆


「なぜ油気を抜いている」


侍女、フィーネ、エヴィル——三人の女が、正気を疑うような目でレオンを見た。


「サーキットが損傷した患者に脂は禁忌です。それはお分かりでしょう?」侍女が当然のように答えた。


「逆だ」


レオンは断言した。オグリの知識ではない。前世の記憶が、確信を持って言わせていた。


「体を治すには材料が要る。壊れた壁を直すのに、藁と水だけ渡されても何もできない。石と漆喰が要る。サーキットも同じだ——回路を修復するには、体そのものに力がなければならない。その力の源が、肉であり、脂であり、骨髄だ」


侍女は怪訝な顔をした。この世界にはない発想だった。


「今日から食事を変えてくれ。羊肉のシチュー、根菜の煮込み、温かいハーブティー。体を芯から温めるものだ」


侍女の顔が強張った。レオンは構わず続けた。


「羊肉が重すぎるなら骨から出汁を取ったスープでもいい。大事なのは肉や骨髄から得られるものを、毎日少しずつでも摂らせることだ。水と野菜だけでは、体は自分自身を食い始める。痩せているのは病のせいだけじゃない——食事が体を追い詰めている」


◆◇◆


『……小僧、お前は何を言っておるのだ。食事で病が治るとでも?』


オグリの声に、明らかな戸惑いがあった。上古の炼金術師にとって、病を治すのは薬であり、術であり、処方だった。食事が治療の核になるという発想は、オグリの知識体系には存在しなかった。


(……師匠。あんたは薬の天才だ。だが、薬だけでは人は治らない。どんな名薬を飲ませても、体にそれを受け止める力がなければ意味がない。その力を作るのが食事だ。——薬が三割だとしたら、食が七割。俺が前にいた場所では、それが常識だった)


『……前にいた場所だと?』


(……何でもない)


オグリは沈黙した。しばらくして、ぽつりと呟いた。


『……儂の知らぬ知恵か。面白い小僧だ』


それ以上は聞かなかった。


◆◇◆


「胃が受け付けないなら、まずはエーテル精製水で煮た粥に月光苔の粉末を少量混ぜたものから始める。胃が整ってきたら、処方箋の薬を重ねる」


一人で長々と述べたが、周囲は眉を寄せるばかりで、誰一人として頷かなかった。


◆◇◆


ちょうどその時、扉が開いた。


リーゼだった。扉の外で待っていたはずの老女官が、背筋を伸ばしたまま部屋に入ってきた。


「随分と長居をされているようですが」


侍女がリーゼに駆け寄り、小声で説明した。リーゼは処方箋を一瞥し、それから侍女に目を向けた。


「何か変わったことは?」


侍女が苦笑して答えた。


「ええ、少々変わったことが。ナイトエーテル汚染だと断定されたうえ、お嬢様に毎日羊肉のシチューを食べさせろと仰っています」


リーゼは目を見開き、激しく首を振った。


「そんなことをしてお嬢様の容態が悪化したら、どうするのです。主治医も二日に一度いらしているのに、このお方は何を——」


言いかけたところで、リーゼの顔色が変わった。腹を押さえ、小さく呻いて、そのまま扉の外へ消えていった。


◆◇◆


エヴィルの紅い瞳が、かすかに笑いを含んだ。


先ほど回廊でリーゼに差し出した茶——あの中に、エヴィルが何を仕込んだのかは、レオンは聞かないことにした。妹は時折、こういう手を使う。


◆◇◆


レオンは侍女に向き直った。


「処方と食事の件は、すぐに納得してもらえるとは思っていない。だから——先にこれを飲ませてくれ」


懐から硝子瓶を取り出した。最後の一本。碧色の液体が、薄暗い部屋の中で仄かに光った。


『あのポーションは、ナイトエーテルの一部を中和してノードの固着を緩める。一本では完治せんが、末端の循環が僅かに戻るはずだ』


「特製ポーションだ。サーキットの深部に溜まったナイトエーテルの残滓を流し、ノードの固着を緩める。これが効けば——信じてもらえるか」


◆◇◆


「ポーションは飲ませましょう。ですが、食事は絶対に変えられません」


この侍女は本当に手強かった。


『……今は引け、小僧。まずポーションの効果を見せろ。結果が出れば、向こうから聞いてくる』


◆◇◆


帳の向こうで、セレーネは黙って聞いていた。


外のあの少年と侍女のやり取りが、帳を通して全て聞こえていた。痣のこと、ナイトエーテルのこと——自分が半年間、誰にも言えずに抱えてきた秘密を、あの少年は指先一つで見抜いた。主治医が何度診ても分からなかったものを。


そして今、自分のために侍女と言い争っている。処方箋を書き、食事を変えろと主張し、誰にも聞いてもらえず、それでも退かない。


セレーネは絹の掛布の端を、きゅっと握りしめた。


◆◇◆


侍女がレオンに空の硝子瓶を返した。


「……飲み終わりました」


その顔に、隠しきれない驚きが浮かんでいた。


「お嬢様の顔色が——少しだけ、戻ったように見えます。それに、お嬢様の手に触れた時……先程よりも、温かかった」


◆◇◆


フィーネが帳の縁から覗き込んだ。


「セレーネ……唇の色が……」


「……うん。少しだけ……温かい。足の痛みも……少し、楽になった気がする」


先程よりほんの少しだけはっきりした声が返ってきた。フィーネの目から涙が零れた。


◆◇◆


レオンは侍女に目を向けた。


「効いただろう。処方箋の薬草も、食事と併せて使えば効果は倍になる」


侍女は空の瓶を握りしめたまま、しばらく黙っていた。やがて、小さく頭を下げた。


「……処方箋はお預かりします。ですが、食事については——」


「食事は変えない、か」


「……申し訳ありません」


◆◇◆


レオンは苛立ちを飲み込み、踵を返した。


だが扉に向かう途中で、足を止めた。振り返りはしなかった。


「——一つだけ。ポーションと処方箋で、表層のナイトエーテルはある程度流せる。だが、深部のノードに固着したものはポーションだけでは取れない」


侍女が眉を寄せた。


「いずれ導引術が必要になる。外から直接魔力を流し込んで、固着したナイトエーテルを一つずつ剥がす施術だ」


『……その通りだ。ポーションで表層を掃除し、食事で体力を戻してからでなければ、導引術に耐えられん。今の状態でやれば、サーキットが持たんだろう』


レオンは頷いた。


「ただし、今すぐにはできない。今の体では導引術に耐えられない。まずポーションと食事で体を整える。体がある程度回復してから——改めて導引の話をする」


◆◇◆


侍女の顔が、一瞬強張った。


「導引術……お嬢様の体に、直接触れるということですか」


「手首だけでは足りない。サーキットの主要なノードは背中や腹部にもある。そこに手を当てて、魔力を流し込む必要がある」


部屋の空気が凍りついた。


侍女の目が、はっきりと敵意を帯びた。


「——ありえません。未婚の令嬢の体にそのような接触を許すことは、いかなる理由があろうとも、この部屋にいる限り絶対にありえません」


レオンは黙った。


予想通りの反応だった。手首に指一本触れることすら大騒ぎだったのだ。背中や腹部に手を当てるなど——侍女が起きている限り、許可が下りるはずがない。


『……だから言ったろう。導引術は、この連中の前ではできん。方法を考えろ、小僧』


(……分かっている)


◆◇◆


「今日のところはこれで失礼する。処方箋の薬草は、必ず温かいエーテル精製水で煎じてくれ。冷めたものを飲ませたら意味がない」


侍女は固い顔のまま頷いた。


レオンは扉に向かって歩き出した。


◆◇◆


「待って」


帳の向こうから、声がかかった。


レオンの足が止まった。外の四人が、それぞれ違う反応をした。侍女は帳の方に駆け寄り、フィーネは心配そうに覗き込み、エヴィルは紅い瞳でレオンの背中を見つめた。


「……あなたの名前。まだ、聞いていない」


「セレストーム家のレオンだ」


「レオン……」


セレーネはその名前を小さく繰り返した。


「……今日のこと。ありがとう」


「礼はいらない」


レオンはそれだけ言って、扉をくぐって出ていった。


◆◇◆


回廊を歩いた。エヴィルとフィーネはセレーネの傍に残った。レオンだけが、一人で夕暮れの回廊を歩いた。


懐は空だった。三本あった特製ポーションは、もう一滴も残っていない。自分の分。オースティン兄の分。そして——まともに話したこともなかった少女の分。


脇腹の疼きが、じわりと戻ってきていた。


『……お前、自分の分のポーションまであの娘に使ったな。脇腹の傷はどうする気だ』


(……何とかなる)


『なるわけがなかろう、馬鹿者。まったく……お人好しも大概にしろ』


オグリの声には呆れが滲んでいたが、怒ってはいなかった。


◆◇◆


(……導引術。あの侍女の前では絶対に許可が出ない。だが、やらなければセレーネの深部の固着は取れない)


体を整える時間は必要だった。ポーションと食事——食事を変えてもらえるかはまだ分からないが——で体を養い、導引術に耐えられるだけの体力を戻す。そこまでに、早くて数日。


そして数日後、導引術を施す時——侍女が起きていない時間に、あの部屋に入る方法を見つけなければならない。


『……夜だな。夜、あの娘の部屋に忍び込むしかあるまい。侍女が寝てからだ』


(……伯爵家の令嬢の寝室に夜中に忍び込む。バレたら死罪だな)


『バレなければ死罪にはならん』


(……それは慰めになっていない)


◆◇◆


(……まずは金だ。ポーションの材料も処方箋の薬草も調達しなければならない)


成年礼までの四ヶ月が、一気に重くなった。


『炼金術師協会に手紙を出せ。月光苔の応用法を一つ二つ教えてやれば、向こうから金を積んでくる。儂の知識を安売りするのは癪だが……背に腹は代えられん』


(……頼りになるな、師匠)


『師匠と呼ぶな。まだ弟子にした覚えはない』


それだけを考えながら、暗がりの中を一人で歩いた。


◆◇◆


セレーネ・ヴァルトシュタイン。


ヴァルトシュタイン伯爵家のただ一人の孫。幼い頃に両親を亡くし、祖父である老伯爵の手で育てられた。友と呼べるのはフィーネくらいだった。伯爵家の名に恥じぬ魔法師になれと——それが祖父の口癖だった。期待に応えたかった。応えなければならなかった。だから無理を重ね、体を壊した。


体が壊れ始めていることには、とうに気づいていた。足の甲の痣。消えない痛み。深夜の異常な冷え。だが、止められなかった。止まれば、祖父の期待を裏切ることになる。それだけが怖かった。


◆◇◆


フィーネとエヴィルが帰った後、部屋にはセレーネと侍女だけが残された。


侍女は空になった碧色の硝子瓶を丁寧に棚に置いた。薬瓶は捨てるのが普通だが——なぜか、捨てる気になれなかった。


◆◇◆


帳の向こうで、セレーネは天井を見つめていた。


体はまだ重かった。サーキットの奥が、鈍く疼いていた。だが——さっきまでとは違う温もりが、胸の奥に残っていた。碧色のポーションの余韻だった。


「……セレストーム家の、レオン」


呟いた。今日の魔闘会で、その名前は何度も耳に入っていた。「デキソコナイ」と呼ばれていた四男が、格上の相手を倒した——そんな噂が会場を駆け巡っていた。同じセレストーム家のエヴィルの従兄弟だという。あのエヴィルが「兄さん」と呼ぶ人物。


今、帳の外に現れたのは、噂とはまるで違う人物だった。静かで、言葉少なで、必要なことだけを淡々と告げていく。侍女が何を言っても退かず、リーゼが圧をかけても動じなかった。自分の体も満足に治っていないのに、最後の一本を見知らぬ相手に渡していく——変な人だった。


◆◇◆


そして——自分が半年間、誰にも言えずに隠し続けてきたものを、指先一つで見抜いた。


ナイトエーテルのこと。痣のこと。眠れない夜のこと。


主治医が何度診察しても分からなかった。リーゼにも、フィーネにも、祖父にも——誰にも気づいてもらえなかった。あの少年だけが、気づいた。


そして最後に言った。いずれ導引術が必要になると。体に直接触れて、魔力を流し込む施術だと。侍女は即座に拒否した。当然だった。未婚の令嬢の体に男が手を触れるなど、ありえない。


——だが。


(……もしあの導引術でなければ、治らないのだとしたら)


セレーネは天井を見つめたまま、掛布の下で自分の手を握った。あの少年の指が触れた手首。まだほんの少しだけ、温かかった。


半年間、冷たかった場所に——初めて温もりが戻った。


◆◇◆


侍女が帳越しに声をかけた。


「お嬢様、何かお気づきのことはございますか。あの少年の言葉で、気になることがあれば——」


セレーネはしばらく黙っていた。


「……あの処方箋。試してみて」


侍女は驚いた顔をしたが、やがて小さく頷いた。


「……かしこまりました。ただし、食事については——」


「食事は……」


セレーネは少し迷った。あの少年の言葉が耳に残っていた。水と野菜だけでは、壊れた壁を直すのに藁しか渡していないのと同じだ。


「……骨のスープくらいなら、お願いしてもいいかしら」


侍女は長い沈黙の後、静かに頭を下げた。


「……お嬢様がそう仰るのでしたら」


◆◇◆


窓の外では、夕陽が沈みかけていた。


セレーネは帳の隙間から、薄暮の空を見つめた。碧色のポーションの残り香が、まだ微かに部屋の中に漂っていた。


足の甲が疼いた。半年間、ずっと痛かった。誰にも言えなかった。


今日初めて、その痛みに名前がついた。



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