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錬金系の落ちこぼれ四男、辺境領主として無双する  作者: 穏やかな旅人


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第88話 東棟の客室


  東棟へ向かう回廊で、エヴィルが追いついてきた。


  銀髪が夕暮れの光を受けて淡く光っていた。その半歩後ろに、もう一人——見覚えのある少女が続いていた。


  亜麻色の髪を肩の上で切り揃えた、快活な顔立ちの少女。翡翠色の瞳が、レオンを見るなり不機嫌そうに細められた。


  フィーネ・ランベルト。ルディア町の騎士団長の娘で、セレーネの幼馴染だった。エヴィルとも交流がある。社交の場で何度か顔を見かけたことはあるが、レオンと直接口を利いたことはほとんどない。——というより、「デキソコナイ」と呼ばれていた頃のレオンは、彼女の視界に入っていなかった。


  「エヴィル。この人が来る必要あるの?」


  フィーネの声は、遠慮というものを知らなかった。レオンの方を見もせずに、エヴィルに向かって言った。


  「フィーネ、兄さんは特製ポーションを持ってきたの。セレーネの怪我に効くかもしれないわ」


  「ポーション?」フィーネは眉を上げた。「この人が? もう医師が診てるのに?」


  今度はレオンの方を見た。翡翠色の瞳に、隠す気のない疑いが浮かんでいた。さっきの魔闘会で満身創痍になっていた少年が、医師の治療を受けている患者に、わざわざポーションを届ける——何の冗談だ、と言いたげだった。


  レオンは何も言わなかった。説明するだけ無駄だと分かっていた。


  「まあいいわ。セレーネのためなら、誰が来ようと構わない。ただし——」


  フィーネはレオンの前に回り込み、指を突きつけた。


  「変なことをしたら、私が叩き出すから」


  「……わかった」


  エヴィルが小さく肩をすくめた。その表情は、どこか楽しそうだった。


◆◇◆


  三人で東棟へ向かう道すがら、フィーネがエヴィルに目を向けた。さっきまでの棘とは違う、どこか探るような視線だった。


  「……エヴィル。さっきの試合のこと、聞いてもいい?」


  エヴィルの足取りが、ほんの一瞬だけ乱れた。すぐに元に戻ったが、レオンは見逃さなかった。


  「何を聞きたいの」


  「セレーネがバックフローを起こした時——あんた、気づいてたでしょう」


  沈黙が、数歩分だけ続いた。


  レオンは自分の試合の後、すぐに席に戻っていた。エヴィルの対戦のすべてを見ていたわけではない。だが、エヴィルとセレーネの一戦——家族魔闘会の招待対戦枠、最後の試合だけは、会場の空気が明らかに変わったのを感じていた。


  セレーネ・ヴァルトシュタイン。ルディア町の三大家族の一つ、ヴァルトシュタイン伯爵家の令嬢。当主のただ一人の孫にして、最後の直系だった。レオンより一つ年上で、町の社交の場で何度か顔を合わせたことはあるが、まともに言葉を交わしたことは一度もない。


  だが、名前は知っていた。強化系の魔法師として将来を嘱望されている少女だ。三つ星中期から後期への昇級を目指し、人一倍の努力を重ねていると聞いていた。


  その少女が、エヴィルとの試合の最中にバックフローを起こした。魔力が制御を離れ、本来流れるべき方向とは逆に回路を駆け巡る——魔法師にとって最も恐ろしい事故の一つだ。


◆◇◆


  エヴィルが口を開いた。


  「セレーネは、最初から様子がおかしかったわ。強化系の魔力を全身に巡らせていたけど、回路への負荷が明らかに高すぎた。三つ星中期の器で、後期の出力を無理やり引き出そうとしていた」


  「それでバックフローに——」


  「試合の中盤で、魔力の流れが反転し始めた。回路が逆流に耐えきれず、内側から崩れていった。私が星象魔法で魔力の流れを抑え込まなければ、回路が完全に焼き切れていたわ」


  エヴィルの声は淡々としていた。だが、その淡々さの下に、何かが沈んでいるのをレオンは感じた。


  フィーネが唇を噛んだ。


  「……あの馬鹿。なんで無理したのよ。エヴィル相手に張り合おうとして——」


  声が震えた。


  「あんたが勝者として宣告されたのは見たわ。でも、セレーネがあんな状態で——あんたは、嬉しかった?」


  エヴィルの足が止まった。振り返らなかった。銀髪が夕暮れの光の中で揺れた。


  「……嬉しいわけないでしょう」


  声は静かだった。レオンが知る限り、エヴィルがこの声色を使うのは珍しかった。


  「私が勝ったのは、セレーネが自滅したからよ。あんなもの——勝ちとは呼ばない」


  フィーネは黙った。しばらくして、小さく息を吐いた。


  「……ごめん。八つ当たりだった」


  「いいわ。セレーネのことが心配なのは、私も同じだから」


  エヴィルが歩き出した。フィーネが続いた。レオンは黙ってその後ろを歩いた。


  「ねえ」


  フィーネが唐突にレオンに声をかけた。前を向いたまま、横目で見ていた。


  「医師がもう診てるのに、わざわざポーションを持ってくる理由は何」


  「医師の治療は外傷と魔力の安定化が中心だろう。だがバックフローの本質は、魔力経路そのものの損傷だ。通常の治療やポーションでは、回路の深部にまで手が届かない」


  フィーネは黙った。しばらくして、小さく鼻を鳴らした。


  「……さっきの魔闘会の戦い方といい、あんた、見た目よりは分かってるのね」


  褒めているのか貶しているのか分からなかった。レオンは鼻の頭を掻いた。



  東棟の客室の前に着いた。


  扉の両脇に、二人の衛兵が立っていた。ヴァルトシュタイン家の紋章——盾の上に交差する二本の剣——を胸に縫い取った軍装だった。


  そして——扉の前に、もう一人。


  小柄な老女が、背筋を真っ直ぐに伸ばして立っていた。白髪を厳格に結い上げ、深い皺の刻まれた顔には一分の隙もなかった。灰色の瞳は赤く腫れていた。泣いた後だった。だが、その姿勢に揺らぎは一切なかった。


  リーゼ。ヴァルトシュタイン伯爵家に長年仕える老女官で、セレーネが生まれた時から側に付いている。さっきの魔闘会——セレーネがバックフローを起こしたあの瞬間、観客席から真っ先に演武場に駆け出したのが、この老女官だった。


◆◇◆


  リーゼの灰色の瞳が、三人を捉えた。フィーネとエヴィルの顔を認めると、かすかに表情が和らいだ。だが、その視線がレオンに移った瞬間——鉄の扉が降りるように、顔が引き締まった。


  「フィーネ様、エヴィル様。お越しいただきありがとうございます」


  二人には丁寧に一礼し、それからレオンに目を向けた。


  「——そちらの方は」


  「セレストーム家のレオンよ。セレーネに特製ポーションを持ってきたの」


  フィーネが答えた。


  リーゼの灰色の瞳が、わずかに細まった。


◆◇◆


  「セレストーム家の四男殿ですか。お嬢様のご容態を案じてくださるお気持ちは、ありがたく存じます」


  リーゼは一礼した。礼の角度は完璧だった。完璧すぎて、逆に冷たかった。


  「しかしながら——お嬢様には既に医師がついております。伯爵様がお呼びになった方で、今もお嬢様の治療に当たっておられます」


  灰色の瞳が、レオンの懐を正確に見据えた。


  「医師の治療が進んでいる最中に、出所の定かでないものをお嬢様に差し上げるわけには参りません。万が一、医師の処置と干渉を起こしたら——お嬢様の御身に触れるものは、伯爵様ご自身か、担当の医師が認めたものでなければ」


◆◇◆


  フィーネが爆発した。


  「リーゼ!あんたも見てたでしょう!?その医師の治療だけで、本当に足りてるの!?セレーネのバックフローは魔力回路の深部にまで及んでるのよ!?通常の治療で回路の損傷まで治せるの!?」


  リーゼは顔色一つ変えなかった。


  「フィーネ様。お気持ちは分かりますが、お嬢様の安全は——」


  「安全、安全って!あんたが一番近くで見てたんでしょう!?セレーネが苦しんでるのを、医師に任せてるだけで本当にいいの!?」


  フィーネの翡翠色の瞳が潤んでいた。怒りだけではなかった。その奥に、幼馴染を案じる焦りが滲んでいた。


◆◇◆


  エヴィルがフィーネの肩に手を置いた。


  「フィーネ、落ち着いて」


  そして、リーゼに向き直った。紅い瞳が、穏やかに、しかし真っ直ぐに老女官を見据えた。


  「リーゼ殿。あなたのお気持ちは、痛いほど分かるわ。あの瞬間——セレーネの魔力が反転した時、私もすぐ目の前にいた。お嬢様を守りたい気持ちは、私たちも同じよ」


  リーゼの表情が、ほんの僅かだけ緩んだ。


  「でも——医師の治療は外傷と魔力の安定化が中心。バックフローで損傷した回路の深部にまでは、届いていないかもしれない。兄さんの特製ポーションは、魔力経路に直接作用するものよ。医師の治療を妨げるものではないわ。むしろ——補えるかもしれない」


  一拍、間を置いた。


  「もし、このポーションが本物だったとして。それを試す機会すら与えなかったと、後で伯爵様がお知りになったら——リーゼ殿は、何とお答えになるのかしら」


  沈黙が落ちた。


  リーゼの灰色の瞳に、初めて迷いが浮かんだ。あの演武場で、崩れ落ちるセレーネに駆け寄った時の記憶が、老女官の脳裏を過ぎったのだろう。腫れた目の縁が、微かに震えた。


  レオンは黙って立っていた。エヴィルとフィーネが交渉する間、一言も口を挟まなかった。ここで自分が何を言っても、状況は良くならない。リーゼが警戒しているのは、ポーションではなく——ポーションを持ってきた、素性の定かでない少年なのだ。


◆◇◆


  その時、扉の奥から声が聞こえた。


  微かな声だった。途切れがちで、息が浅い。だが、確かに誰かが何かを言っていた。


  リーゼの肩が、かすかに強張った。


  「……お嬢様」


  扉の向こうから、もう一度。今度は少しだけ明瞭に聞こえた。


  「——フィーネの声が……聞こえた。通して」


  リーゼの表情が揺れた。


  忠誠と、主の意思。この老女官にとって、その二つが矛盾する瞬間は、最も苦しい瞬間だったろう。あの演武場で真っ先に駆け出した足と、今この扉の前で退かない足は、同じ忠誠心から来ている。


  長い沈黙の後——リーゼはゆっくりと半歩、脇に退いた。


  「……レオン様」


  声はまだ硬かった。だが、道は開いていた。


  「お嬢様のお部屋では、決してお嬢様の御身に直接触れないでください。ポーションをお渡しになるだけ。そして——医師の判断に従っていただきます。それが条件です」


  レオンは一つ頷いた。


◆◇◆


  フィーネが真っ先に扉を開けて中に入った。「セレーネ!」という声が、すぐに聞こえた。駆け寄る足音。それから、押し殺したような嗚咽。


  エヴィルが続いた。


  レオンは扉の前で一瞬だけ立ち止まった。懐の中の最後の硝子瓶に、指先が触れた。碧色の液体の温もりが、微かに伝わってきた。


  部屋の奥から、掠れた声が聞こえた。


  「——どうぞ、お入りください」


  レオンは微かに背筋を伸ばし、扉をくぐった。

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