第87話 特製ポーション
午後の陽光が、窓の隙間から斜めに射し込んでいた。細かく砕けた光の粒が、簡素な部屋の中に散らばっていた。石造りの壁、最低限の家具、埃一つない床。セレストーム侯爵邸の離れに位置する、レオンの私室だった。
医務室には、結局行かなかった。回廊で壁伝いに歩きながら、レオンは考えを変えていた。医務室に行けば、傷の程度が記録される。侯爵家の者たちに、さっきの戦いでどれほど消耗したかが知れ渡る。それは避けたかった。
自室に戻り、扉を閉めた。その瞬間、ようやく膝の力を抜いた。寝台に倒れ込むように腰を下ろした。
◆◇◆
枕元に手を伸ばした。
寝台の脇に、小さな硝子瓶が三本だけ並んでいた。碧色の液体が、午後の光を受けて静かに揺れている。いつもの特製ポーションだった。日々の修練の後、疲弊した体を回復させるために使い続けてきたものだ。
三本。これが最後の在庫だった。材料はとうに尽きている。次を炼制するには、また金を稼いで素材を買い集めなければならない。
だが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。一本を手に取り、栓を抜いた。馴染みの、仄かに甘い香りが鼻腔に広がった。
迷いなく、一口を含んだ。
◆◇◆
——温かかった。
喉を通った瞬間、碧色の液が体の内側に染み渡るように広がった。胸から腹へ、腹から四肢へ。いつもと同じ穏やかな温もりだった。だが今日は、その温もりが沁みた。傷ついた筋繊維の隙間を、一本一本縫うように満たしていく。
脇腹の焼けるような熱が、少しずつ和らいだ。完全に消えたわけではない。だが、刃物で抉られるような鋭い痛みが、鈍い疼きに変わった。呼吸が、楽になった。
レオンは目を閉じた。特製ポーションの力が体を巡るのを、静かに感じていた。急ぐ必要はない。この液の性質は、もう体が覚えている。何度も繰り返してきた修練後の回復と同じだ。ただ——今回は、いつもより深く効いた。傷が深い分、体が貪欲に吸収しているのだろう。
◆◇◆
窓から射し込む光が、ゆっくりと角度を変えていった。午後の黄金色が、徐々に深い橙に傾いていく。レオンは寝台の上で微動だにせず、体の回復に意識を集中させ続けていた。時折、瓶をもう一口含み、再び目を閉じた。
修練の日々と同じだった。焦らず、怠らず、一滴の薬効も無駄にしない。この半年、そうやって体を作ってきた。
光が窓枠の影を長く伸ばした頃、レオンはようやく目を開いた。瞳の奥に、かすかに碧い光が一瞬だけ宿り——すぐに消えた。
脇腹に手を当てた。痛みは残っている。だが、さっきまでの焼けつく熱ではなく、鈍く重い疼きに変わっていた。動ける。ゆっくりと寝台から足を下ろし、立ち上がった。軽く体を捻る。筋が軋んだが、崩れはしなかった。
◆◇◆
硝子瓶を見た。一本目は空になっていた。残り二本。
(……魔闘会が終わったら、また稼ぎに出なければならないな)
ため息を呑み込んだ。オグリの炼制には特定の素材が必要で、それは安くない。侯爵家の末子が金策に走り回る姿など、誰にも見せられたものではないが——背に腹は代えられない。
空の瓶を片づけながら、レオンはふと手を止めた。
(……オースティン三兄)
三兄の顔が浮かんだ。さっきの魔闘会で、レオンはオースティンと剣を交えていた。レオンが勝ちを拾ったあの一戦——だが、無傷だったのはどちらでもない。オースティンもまた、あの戦いで右腕を痛めていた。試合後、何事もない顔をしていたが、レオンは見逃さなかった。袖口の下で、拳を握れていなかった。
自分が傷つけたのだ。
残りの特製ポーションを見つめた。二本。たった二本。一本たりとも余裕はない。
——分かっている。
レオンは一本を手に取り、懐に入れた。
◆◇◆
整潔な衣に着替え、部屋を出た。腰に下げた古びた吊墜が、歩くたびに微かに揺れた。夕刻の陽光が回廊に差し込み、石畳に長い影を落としていた。
碎石の小道を歩いた。両脇には翠緑の柳が植えられていた。葱鬱な緑が、数刻前の血と汗の記憶を、少しだけ薄めてくれた。角を曲がると、中庭が見えた。
オースティンは中庭にいた。石のベンチに腰かけ、右腕を膝の上に置いていた。左手で何気なく本を開いていたが、ページは進んでいなかった。
足音に気づき、オースティンが顔を上げた。レオンを見た瞬間、驚きが一瞬だけ目に浮かんだ。すぐに穏やかな笑みに変わった。
「レオン。……体はもう大丈夫なのか」
◆◇◆
「兄さんこそ。右腕、まだ動かないだろう」
レオンは単刀直入に言った。
オースティンの笑みが、わずかに固まった。そして——苦笑に変わった。
「……バレていたか」
「俺がやったんだ。分からないわけがない」
沈黙が、一拍だけ落ちた。オースティンは黙って右腕を見下ろした。そして、静かに首を振った。
「お前のせいじゃない。正々堂々の一戦だった。それに——」
笑みが、少しだけ深くなった。
「負けたのは、俺の方だ」
◆◇◆
レオンは懐から硝子瓶を取り出した。碧色の液体が、夕暮れの光の中で静かに輝いた。
オースティンの目が、わずかに見開かれた。
「これは——」
「特製ポーションだ。一口でいい、右腕に効く」
「待て。これはお前の——」
「余りだ」
レオンはさらりと言った。余りではなかった。最後の二本から一本削ったのだ。だが、顔には出さなかった。
「修練で使っているものだろう。俺が受け取るわけには——」
「兄さん」
レオンはオースティンの手に、瓶を押し付けた。
「俺が傷つけた腕だ。俺が治す。それだけのことだ」
言葉が、静かに落ちた。
◆◇◆
オースティンは瓶を持ったまま、しばらく動かなかった。やがて、静かに笑った。魔闘会で見せた、あの控えめな笑みとは違う——少しだけ、目元が潤んでいた。
「……ありがとう」
「礼はいらない」
レオンは鼻の頭を掻いた。エヴィルに言われた時と同じ台詞を、今度は自分が言っていることに気づいて、小さく苦笑した。
「飲み方は簡単だ。一口含んで、右腕に意識を集中させればいい。薬効が勝手に患部に集まる」
「お前、いつの間にこんなものを……」
オースティンの問いに、レオンは曖昧に笑った。
「色々あってな」
それ以上は言わなかった。腰の吊墜が、微かに温かい気がした。
レオンは踵を返した。
「兄さん、右腕は早く治した方がいい。利き腕が使えないと不便だろう」
背を向けたまま、軽く手を振った。
◆◇◆
オースティンはその背中を見送った。碧色の瓶を手の中で転がしながら、呟いた。
「……変わったな、あいつ」
いや——違う。変わったのではない。戻ったのだ。三年前の、あの頃の弟に。いや、あの頃よりも——少しだけ、背中が大きく見えた。
栓を抜いた。甘い香りが広がった。一口含み、右腕に意識を向けた。
温もりが、静かに沁みていった。夕暮れの光が、中庭の柳を金色に染めていた。
◆◇◆
碎石の小道を戻る途中だった。角を曲がった瞬間、銀髪が目に入った。エヴィルが小走りにこちらへ向かってきていた。いつもの余裕のある足取りではなかった。
「兄さん」
エヴィルの声に、わずかな硬さがあった。紅い瞳がレオンを捉え、一拍の間を置いてから、口を開いた。
「セレーネが怪我をしたわ」
レオンの足が止まった。
「……セレーネが?」
「さっき知らせが来た。詳しいことはまだ分からない。ただ——軽くはないみたい」
エヴィルの声は平静だった。だが、唇がわずかに引き結ばれていた。
◆◇◆
セレーネ・ヴァルトシュタイン。ルディア町の三大家族の一つ、ヴァルトシュタイン伯爵家の令嬢。当主のただ一人の孫にして、最後の直系だった。レオンより一つ年上で、町の社交の場で何度か顔を合わせたことはあるが、まともに言葉を交わしたことは一度もない。
だが、名前は知っていた。強化系の魔法師として将来を嘱望されている少女だ。三つ星中期から後期への昇級を目指し、人一倍の努力を重ねていると聞いていた。あの老伯爵がどれほどこの孫を大切にしているか、社交界では知らぬ者がいない。
その少女が、重傷を負った。
「どこだ」
「東棟の客室。ヴァルトシュタイン家の使いが運び込んだらしいわ」
レオンは踵を返した。脇腹がまだ疼いた。特製ポーションで動けるようにはなったが、万全には程遠い。
だが、足は迷わなかった。
◆◇◆
「兄さん」
エヴィルの声が背中にかかった。振り返ると、エヴィルが特製ポーションの硝子瓶を一本、指先で摘んでいた。レオンの部屋から持ってきたのだろう。
最後の一本だった。
「持っていきなさい」
レオンは立ち止まった。最後の一本。これを渡せば、手元にはもう一滴も残らない。次のポーションを炼制するための材料もない。金もない。成年礼までの四ヶ月を、素手で乗り越えることになる。
エヴィルはレオンの逡巡を見透かしたように、小さく笑った。
「兄さんのことだから、どうせ手ぶらでは行かないでしょう」
レオンは黙って瓶を受け取った。硝子の中で、碧色の液体が揺れた。
(……ゼロか)
懐に入れた。軽いはずの硝子瓶が、ひどく重く感じた。東棟へ向かって歩き出した。
◆◇◆
エヴィルはその背中を見送った。紅い瞳が、細められた。
「……オースティン三兄の次は、セレーネ。自分の分まで全部あげて——」
呟きは、誰にも届かなかった。
「兄さん、自分の体のことは後回しなのね。昔から——ずっと」




