第85話 勝者——レオン・セレストーム
審判の声が消えた後も、演武場には長い沈黙が横たわっていた。
レオンは砕けた剣の柄を石畳に突き立て、まだ立っていた。血まみれで、視界は半分潰れ、体は限界をとうに超えていた。だが、立っていた。
その姿を——さまざまな目が、見ていた。
◆◇◆
レオンはゆっくりと息を吐き出した。
視界が明滅していた。体のどこが痛いのか、もう分からない。全部が痛い。だが、足はまだ地面についている。剣の柄がまだ手の中にある。それだけで十分だった。
首を巡らせ、地面に膝をついているオースティンを見た。
隣で呆然としている審判に目を向けた。
「試合は……終わりましたよね」
審判は唾を飲み込み、我に返った。慌てて頷き、まさに結果を改めて宣告しようとした——
◆◇◆
「待ちなさい!」
怒りに満ちた叫び声が、それを遮った。
観客席がざわめく。何人かが「またか」という顔をしていた——声の主を知っていたからだ。
栗色のツインテール。吊り上がった目。観客席の手すりを蹴って演武場に飛び降りると、着地と同時に石畳に罅が入った。三つ星後期の魔力が足元から噴き上がる。
ソフィア・セレストーム。エイドリアンとオースティンの従姉妹。セレストーム分家の娘にして、学院でも知られた実力者——ただし、学院で有名な理由のもう半分は、その性格にあった。
気が強い。声が大きい。自分が正しいと信じたら梃子でも動かない。
控えめに言って、面倒な女だった。
◆◇◆
「この試合は無効よ!」
ソフィアは怒りに燃える目でレオンを睨みつけ、指を突きつけた。
「あなた、絶対に不正をしたわ! デキソコナイが四つ星に勝てるわけがない!」
「証拠は?」
レオンは冷たく問い返した。正直、この女と言い合う体力すら惜しい。
「証拠なんて——あなたが勝ったこと自体が証拠よ!」
「それは証拠とは言わない。ただの言いがかりだ」
「言いがかりですって——!?」
ソフィアの顔が真っ赤に染まった。分家の娘としてのプライドが、目に見えて燃え上がっている。
「いいわ、それなら——」
剣を抜いた。刃が陽光を反射し、鋭い光を放つ。
「私が、あなたの化けの皮を剥いであげる! 今すぐ私と戦いなさい! 疲れ切った今のあなたなら、本当の実力が分かるはず!」
◆◇◆
(……漁夫の利ってやつか)
レオンは心の中で舌打ちした。
冷静に計算する。オースティンとの戦いで、魔力も体力もほとんど残っていない。今、三つ星後期のソフィアと戦えば——勝ち目はゼロだ。
だが退くわけにもいかない。ここで退けば、「やはり不正だった」と言われる。七年間かけて積み上げたものが、この女の一言で崩される。
「どうしたの? 怖いの?」
ソフィアが嘲笑った。
「やっぱり不正をしていたのね。本当の実力じゃ、私にも勝てないんでしょう?」
レオンが口を開こうとした。
その前に——低い声が、演武場に響いた。
◆◇◆
「ソフィア、下がれ」
オースティンが、よろめきながら立ち上がっていた。
肩の傷から血が滲み、顔は蒼白だ。だが目だけは、はっきりとしていた。
「オースティン!? あなた、大丈夫なの!?」
駆け寄ろうとしたソフィアを、オースティンは手で制した。
「レオンは、不正なんかしていない」
静かに、だがはっきりと。
「俺は、正々堂々と負けた」
「でも——!」
「ソフィア」
オースティンの目が鋭くなった。獅子の目だった。
「俺の敗北を侮辱するな」
ソフィアは言葉を詰まらせた。口を開き、閉じ、また開いた。だがオースティンの目がそれを許さなかった。
「で、でも……デキソコナイが四つ星に勝つなんて……」
「レオンはデキソコナイなんかじゃない」
オースティンは、レオンを見つめた。
「俺が保証する」
◆◇◆
観客席がどよめいた。
去りかけていた者たちが、完全に足を止めていた。
「オースティン様が——」
「レオンを認めた……?」
「一体、何が……」
貴賓席で、ベアトリスは優雅に茶杯を置いた。
帝都三指に入る競売商。名家の子弟が集まる演武場は、彼女にとって品評会に等しい——将来の顧客、投資先、あるいは利用できる駒。そういう目で常に世界を見ている女だ。
だが今、その怠惰に細められた目に、珍しく鋭い光が走っていた。
(ゴールデン・フォーム……あれは失われたはずの古の武術。あの技を使える者は、今の時代ほとんどいない。この子の背後には——一体、誰がいるのかしら)
紅い唇が弧を描く。その目は、珍品を見つけた競売商の目だった。
◆◇◆
貴賓席の反対側——クロード・アシュモアは静かに腕を組んだまま、視線を動かさなかった。
(やはり——あの子には師がついている)
レオンの成長は速すぎた。二つ星の少年が独学であの速度で強くなるのは不自然だった。姉の息子を遠くから見守り続けてきたクロードには、分かっていた。あの子の剣には、独学では辿り着けない「型」がある。
今日、それが確信に変わった。
ふと、隣の気配に気づいた。セレストーム侯爵セレリックが、既に席を立とうとしていた。
その横顔は——僅かも動いていなかった。驚きも怒りもない。まるで最初からこうなると分かっていたかのような、静謐な顔。
クロードは声を低くした。
「セレリック殿」
侯爵の足が止まった。振り返りはしなかったが、聞いている。
「ゴールデン・フォーム——あれはセレストーム家の技ではないはずだ」
セレリックは答えなかった。
「あの技を教えられる人間は、そう多くない。少なくとも五つ星以上……いや、それ以上か」
沈黙。
クロードは一歩、間を詰めた。
「誰が教えた?」
セレリックはゆっくりと振り返った。表情は変わらない。だがその目の奥に、一瞬——本当に一瞬だけ、何かが揺れた。
「……さて。私にも分からんよ」
それだけ言って、侯爵は背を向けた。
クロードはその背中を見送りながら、目を細めた。
(嘘だな)
分からないのではない。言わないのだ。
(姉さん。あなたの子供たちは、思った以上にとんでもないことになっているようだ)
◆◇◆
だが、演武場の緊張はまだ解けていなかった。
オースティンの言葉に黙ったものの、ソフィアの剣を持つ手はまだ震えていた。剣を収める気配がない。
「でも、私は——」
「ソフィア姉さん」
鈴のような声が、演武場に響いた。
◆◇◆
軽やかな足音と共に、一人の少女が演武場に降り立った。
銀色の髪が風に揺れた。どこかレオンに似た銀髪——だが瞳だけが違う。レオンの黒い目に対して、彼女の瞳は紅かった。血の色ではなく、夕焼けの最後の一刹那のような、妖しく美しい紅。
エヴィルだった。
「レオン兄さんは、もう疲れているわ」
穏やかな声。だがその穏やかさの奥に、硬いものがあった。
「この時に挑戦するのは——ちょっと卑怯じゃないかしら」
「エヴィル……あなたは——」
ソフィアの声が揺らいだ。エヴィルは分家の娘であるソフィアより年下だが、本家の血を引いている。そして何より——エヴィルの実力を、ソフィアは知っていた。
「それに——」
エヴィルは首を傾げた。銀髪が肩から流れ落ちる。紅い瞳が、ソフィアをまっすぐに見据えた。
「お兄様が正々堂々と負けたと言ったのに、それを信じないの? ソフィア姉さんは、オースティンお兄様の言葉より、自分の思い込みの方が正しいと?」
ソフィアの顔が強張った。そう言われると、反論のしようがない。
「もしそれでも、どうしても戦いたいなら——」
エヴィルは微笑んだまま、一歩前に出た。
「エヴィルがお相手するわ」
首を傾げた。紅い瞳が妖しく輝いた。
「いかが?」
【続く】




