第82話 約束の刃
【現在】
煙が、ゆっくりと晴れていく。
演武場を包んでいた白い霧が、風に吹かれて散っていく。まるで舞台の幕が上がるかのように、その向こうの光景が徐々に姿を現していく。観客席は静まり返っていた。さっきまでの興奮した喧騒が嘘のように、重苦しい沈黙が演武場を支配している。誰もが息を呑み、煙の向こうを見つめていた。
◆◇◆
オースティンは、膝をついたまま動けなかった。
(レオン……)
あの日の記憶が、頭の中で渦巻いていた。七年前の夜。雨が降っていた。雷鳴が轟き、稲妻が闘を切り裂いていた。母の死。冷たくなっていく手。最後まで微笑んでいた顔。エイドリアンの憎しみ。血走った目。「お前のせいだ」という言葉が、今も耳の奥で響いている。
そして——自分の罪。何もできなかった無力感。守ると誓ったのに、何一つ守れなかった悔恨。
(俺は……お前を守れなかった……)
(あの日も、今日も……)
彼の手が、地面を掴んだ。土が、指の間からこぼれ落ちていく。
◆◇◆
煙が、さらに晴れていく。月光が差し込んできた。白銀の光が漂う煙を照らし出し、演武場全体が幻想的な輝きに包まれている。
そして——観客席から、どよめきが上がった。
「嘘だろ……」
「生きてる……!」
「あの爆発を……どうやって……!」
貴族席で誰かが立ち上がった。平民席でも人々が身を乗り出している。演武場を囲む観客たちの視線が、一斉に煙の向こうへと注がれていた。
煙の向こうに、影が見えた。銀色の髪が風に揺れている。月光を受けて、それはまるで流れる水銀のように輝いていた。
レオンは——立っていた。
両足を踏ん張り、前を見据えて。傷だらけではあった。アカデミーの制服は焼け焦げ、右袖はほとんど原形を留めていない。体のあちこちに火傷の痕があり、左頬には血が滲んでいる。だが——致命傷ではない。両足でしっかりと地面を踏みしめ、真っ直ぐ前を見据えている。その姿に、揺らぎはなかった。
◆◇◆
「馬鹿な……」
オースティンは目を見開いた。あの爆発。氷と炎が衝突した、凄まじい威力の爆発。直撃すれば四つ星の魔法師でも無事では済まないはずだった。いや、下手をすれば即死してもおかしくない。なのに——レオンは、立っている。
「どうやって……」
オースティンは呟いた。レオンの両手が微かに光っていた。淡い金色の光。指先から手首にかけて、まるで薄い手袋をはめているかのように、黄金の輝きが纏わりついている。
「プッシュ・パーム……あの瞬間、プッシュ・パームで衝撃を逸らしたのか……!」
爆発の直前、レオンは両手を前に出していた。そしてゴールデン・フォームを掌に集中させ、爆発の衝撃波を横に弾いたのだ。理論上は可能かもしれない。だが実行するには、信じられないほどの反射神経と精密な魔力制御が必要だった。
(馬鹿な……あの一瞬で、そんな判断を……)
◆◇◆
レオンは、ゆっくりと顔を上げた。その目は——燃えていた。琥珀色の瞳の奥で、金色の炎が揺らめいている。
五年間の屈辱。「デキソコナイ」と嘲笑された日々。唾を吐きかけられ、石を投げられ、誰からも見捨てられた時間。五年間の苦しみ。魔力を失い、声を失い、全てを奪われた絶望。暗闇の中で一人きりで藻掻き続けた夜。誰にも理解されず、誰にも助けてもらえず、それでも諦めなかった日々。
そして——イザベラの言葉。
『あなたは、デキソコナイなんかじゃない』
あの優しい声。あの温かい手。
『あなたは、強い子よ』
全てが、レオンの中で渦巻いていた。苦しみも、悲しみも、怒りも——全てが、一つの炎となって燃え上がっていた。
「まだだ」
レオンは呟いた。声は掠れていた。喉が焼けるように痛い。だが——言葉は、はっきりと響いた。
「まだ……終わってない」
レオンは一歩、踏み出した。よろめきながら、それでも——前へ。膝が震えている。視界が霞んでいる。体中の筋肉が悲鳴を上げている。だが——足は、止まらなかった。
「俺は……まだ……立っている」
◆◇◆
オースティンは立ち上がろうとした。だが、体が重い。まるで鉛を纏っているかのようだった。さっきの爆発で、自分も消耗していた。氷と炎を同時に使う『双温』は、想像以上に魔力を消費する。二つの相反する属性を同時に制御することは、体にも精神にも凄まじい負担をかけるのだ。
(くそ……動け……)
両手を地面につき、膝を立てようとする。だが、足に力が入らない。
その時——レオンが、動いた。
信じられない速度だった。さっきまでよろめいていたはずなのに。今にも倒れそうだったはずなのに。レオンの体が一瞬で間合いを詰めた。まるで風が吹き抜けるように。いや——雷光のように。
「なっ——!」
オースティンは咄嗟に腕を上げた。防御の構え。だが——遅い。
レオンの拳が、金色の光を纏っていた。ゴールデン・フォーム。それが拳に凝縮されていた。まるで小さな太陽のように、眩い輝きを放っている。
「これが——」
レオンの声が、響いた。五年分の全て。苦しみ。悲しみ。怒り。そして——希望。全てを、この一撃に込めた。
「俺の答えだ——!」
拳が、オースティンの腹部に叩き込まれた。黄金の光が炸裂した。
「がはっ——!」
オースティンの体が吹き飛んだ。地面を跳ね、転がり、演武場の端近くまで吹き飛ばされた。
◆◇◆
観客席が、静まり返った。誰もが、信じられないものを見ていた。二つ星中期のレオンが——四つ星初期のオースティンを、吹き飛ばした。
「嘘だろ……」
「当たった……!」
「黄金の拳が……オースティン様に……!」
貴族席で誰かが杯を落とした。陶器が割れる音が、静寂の中で響いた。平民席では言葉を失った観客たちが、呆然とレオンを見つめていた。
オースティンは地面に叩きつけられた。腹部が焼けるように熱い。内臓が揺さぶられ、胃の中身が逆流してきそうだった。
(何だ……今の威力は……)
二つ星の攻撃とは思えなかった。まるで四つ星に殴られたかのような衝撃だった。いや、それ以上かもしれない。
(あいつは……本当に二つ星中期なのか……?)
オースティンは、よろめきながら立ち上がった。腹を押さえ、膝をつき、それでも歯を食いしばって立ち上がった。口の端から血が流れている。口の中に広がる鉄の味。レオンを見つめる。その目には——驚愕と、そして——何か別の感情があった。懐かしさ。そして——微かな喜び。
「お前……強くなったな……」
◆◇◆
レオンは、荒い息をつきながら立っていた。体中が痛む。骨が軋んでいる。魔力もほとんど残っていない。ゴールデン・フォームは、もう指先を覆う程度の光しか残っていなかった。
だが——
「俺は、レオン・セレストーム」
レオンはオースティンを見据えた。真っ直ぐに。逃げずに。五年前から、ずっと言いたかった言葉を口にした。
「デキソコナイなんかじゃない」
その言葉が、演武場に響き渡った。夜風が吹き抜け、レオンの銀髪を揺らした。観客席がざわめいた。
「デキソコナイが……オースティン様に一撃を……」
「信じられない……」
「あいつ、本当に二つ星なのか……?」
「いや……今の一撃は、四つ星でも喰らいたくない……」
◆◇◆
オースティンは、レオンを見つめていた。あの日の記憶が、再び蘇る。五年前。レオンの魔力が目覚めた日。あの屋敷で、二人きりで話した夜。
『約束しろよ。魔力が戻ってきたら、また俺と戦え。その時は、俺も本気を出す』
あの日、自分が言った言葉。酒を飲みながら、冗談半分で言った言葉。だが——レオンは、それを覚えていた。そして——約束を果たしに来た。
オースティンの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「そうか……」
「……?」
レオンは眉をひそめた。
「お前は……約束を守ったんだな」
オースティンの声には、どこか温かみがあった。
◆◇◆
オースティンは、ゆっくりと立ち上がった。体中が痛む。魔力もほとんど残っていない。さっきの『双温』で、ほぼ全てを使い果たしていた。
レオ・ルガールは——ない。さっきの爆発でどこかに吹き飛ばされたのだろう。演武場のどこかに落ちているはずだが、この暗さと煙の中では見つけられない。
(仕方ない……)
オースティンは右手を掲げた。残り僅かな魔力を掌に集中させる。冷気が渦を巻き、青白い光が形を成していく。やがて——一本の槍が現れた。氷の槍。レオ・ルガールを模した、透き通った複製品。本物ほどの強度はない。だが——一戦を終えるには、十分だった。
「なら——俺も、約束を守らなければな」
オースティンは氷の槍を構えた。その構えは——七年前と同じだった。あの日、屋敷の庭園でレオンと鍛錬した時。夕陽が差し込む中、二人で汗を流した時。「いつか俺がお前に勝つ」と約束した時。同じ構え。同じ眼差し。だが——その目には、あの頃にはなかった深みがあった。
「覚えているか、レオン」
オースティンは静かに言った。
「昔、俺たちはよく鍛錬をした。お前は剣、俺は槍。魔法なんか使わずに、ただ武器だけで」
「……ああ」
レオンは頷いた。
「覚えている」
忘れるはずがなかった。あの頃の日々は、レオンにとって最も幸せな時間の一つだった。
あの頃は、まだ良かった。レオンの魔力が封印される前。母が死ぬ前。二人はただの兄弟だった。一緒に鍛錬し、一緒に汗を流し、一緒に笑っていた。夕食の席で冗談を言い合い、夜更かしして星を眺め、馬鹿な話で盛り上がった。
「お前の剣は、いつも真っ直ぐだった」
オースティンは言った。目が遠くを見ていた。
「迷いがなくて、純粋で。俺は……お前の剣が、好きだったよ」
レオンは黙って聞いていた。胸の奥が熱くなった。目の奥が痛くなった。
「オースティン兄上……」
「今のお前の剣は、どうだ」
オースティンは槍を構え直した。氷の穂先が月光を受けて煌めいた。
「あの頃と同じか。それとも——変わったか」
◆◇◆
レオンは答えようとした。だが——その手には何もなかった。剣はさっきの爆発で吹き飛ばされていた。演武場のどこかに落ちているはずだが、煙と薄暗さの中では見つけられない。
「剣が……」
レオンは周囲を見回した。地面には焦げ跡と氷の破片が散らばっているだけで、剣の姿は見当たらなかった。
その時——オースティンが左手を掲げた。
「最後の魔力だ」
冷気が彼の掌に集まっていく。周囲の空気が白く霞み、微かな霜が彼の指先を覆っていく。青白い光が渦を巻き、形を成していく。やがて——一振りの剣が現れた。氷の剣。透き通った青い刃が月光のように輝いている。柄には繊細な模様が刻まれ、鍔には霜の花のような装飾が施されている。まるで名匠が数ヶ月かけて作り上げた芸術品のように、美しい剣だった。
「受け取れ」
オースティンはその剣をレオンに向かって投げた。剣は弧を描いて飛び、レオンの足元に突き刺さった。
「……これは……」
レオンは目を見開いた。
「母上の魔法だ」
オースティンは静かに言った。
「霜華の術。氷を形作る魔法。俺が唯一、母上から受け継いだもの」
レオンは言葉を失っていた。
「俺は母上を忘れないために、この魔法を使い続けてきた。母上の遺してくれた、唯一のものだから」
オースティンの声が僅かに震えた。
「父上の炎ではなく……母上の氷を。俺は、そちらを選んだ」
◆◇◆
レオンは氷の剣を見つめた。青白く輝く刃。冷たいはずなのに——どこか温かみを感じた。
(イザベラ様……)
あの優しい笑顔が脳裏に浮かんだ。いつも温かい手で自分の頭を撫でてくれた人。「大丈夫よ」と言って抱きしめてくれた人。この剣には彼女の魔法が宿っている。彼女の想いが形になっている。
「使え」
オースティンは言った。
「その剣で、俺と戦え。あの頃のように——剣と槍で」
「でも……これはオースティン兄上の魔力で作った……」
「構わない」
オースティンは微笑んだ。その笑顔は——七年前と同じだった。
「母上はお前のことも家族だと思っていた。なら——母上の力を借りる資格は、お前にもある」
オースティンは氷の槍を掲げた。
「俺たち二人とも、もう魔力は残っていない」
それは事実だった。オースティンは『双温』で。レオンはゴールデン・フォームで。互いに全てを出し尽くしていた。
「だから——接近戦で、決着をつけよう」
◆◇◆
レオンはゆっくりと氷の剣を抜いた。地面から引き抜くと、剣は微かに震えた。まるで喜んでいるかのように。冷たい感触が掌に伝わる。だが——不思議と手に馴染んだ。
「……ありがとう、オースティン兄上」
「礼はいい。その代わり——全力で来い」
観客席がざわめいた。
「オースティン様が……レオンに武器を……」
「なぜだ……」
「敵に武器を渡すなんて……」
「あの二人、一体何が……」
◆◇◆
二人は向き合った。氷の槍と氷の剣。七年前と同じ。あの日の庭園と同じ。夕陽の代わりに月光が二人を照らしている。だが——二人ともあの頃とは違っていた。背も伸びた。肩幅も広くなった。目の奥にはあの頃にはなかった深みがある。七年間で二人はそれぞれの道を歩んできた。苦しみ、傷つき、それでも前に進んできた。
オースティンの目に静かな光が宿った。
(母上……見ていてくれ)
脳裏にあの優しい笑顔が浮かんだ。いつも自分を応援してくれた人。「オースティン、あなたなら大丈夫」と言ってくれた人。
(俺は約束を守る。レオンと、本気で戦う)
レオンは氷の剣を構えた。青白い光が彼の顔を照らしている。
(イザベラ様……)
あの言葉が心の中で響いている。
(俺はデキソコナイなんかじゃない。あなたの言葉を、証明してみせる)
レオンはオースティンを見た。
(兄上にも見せてやる。俺がどれだけ強くなったか)
「いくぞ——」
オースティンが動いた。槍が風を切って突き出される。銀色の軌跡が月光の中を走った。
レオンも動いた。氷の剣が槍を弾き返す。
氷と氷がぶつかり合う。澄んだ音が演武場に響き渡った。火花は散らなかった。代わりに——氷の欠片が夜空に舞い上がった。月光を受けて、それは宝石のように輝いていた。
【続く】




