第81話 葬儀
【7年前・冬】
葬儀は、静かに行われた。
セレストーム家の墓地。冬の陽光が白い墓石を照らしているが、温もりは感じられない。
イザベラ・セレストーム。
その名が刻まれた墓石の前に、家族が並んでいた。
◆◇◆
セレリックは、石のような顔で立っていた。
何を考えているのか、誰にも読み取れなかった。側室を失った悲しみか。家の体面を気にしているのか。その目は墓石を見つめていたが、どこか焦点が合っていないようだった。
◆◇◆
エリーゼは、夫の半歩後ろに立っていた。
涙は流していなかった。正室として、側室の葬儀で泣くわけにはいかない——そう自分に言い聞かせているのかもしれない。
だが、その右手は左手首を強く握りしめていた。
爪が、白い肌に食い込んでいた。
◆◇◆
ティモシーは、長男として父の隣に立っていた。
セレストーム家の跡取りとして、感情を表に出すことは許されない。そう教えられてきた。
だが、その目は赤かった。
イザベラは、彼にとっても優しい人だった。正室の子である自分にも、分け隔てなく接してくれた。弟たちが喧嘩したとき、いつも穏やかに仲裁してくれたのは彼女だった。
(なぜ——あなたが——)
その問いを、喉の奥に押し込めた。
◆◇◆
エレンは、母の陰に隠れるように立っていた。
何が起きたのか、まだ完全には理解できていなかった。
イザベラ様は、もう戻ってこない。
それだけは分かった。だが、なぜ戻ってこないのか。なぜ皆が泣いているのか。なぜ兄のレオンが、あんなに遠くに立っているのか——
分からないことだらけだった。
◆◇◆
エイドリアンは、墓石の前で膝をついていた。
立っていられなかった。
涙は、もう枯れ果てていた。あの夜から、どれだけ泣いただろう。今は何も出てこない。目の奥が、焼けるように痛むだけだ。
墓石に刻まれた母の名前を、震える指でなぞった。
冷たい。
石は、こんなにも冷たい。
母の手は——いつも、温かかったのに。
◆◇◆
オースティンは、兄エイドリアンの背後に立っていた。
声をかけられなかった。かける言葉が、見つからなかった。
あの夜から、ほとんど眠れていない。目を閉じると、母の最期の姿が浮かぶ。血と、悲鳴と、あの老人の哄笑が——頭の中でぐるぐると回り続けて、止まらない。
(俺のせいだ)
胃の奥から、吐き気がこみ上げる。
(俺があの老人に屋敷のことを教えたから——母上は——)
何度、時間を戻したいと思っただろう。
何度、あの日の自分を殺したいと思っただろう。
だが、時間は戻らない。
母は、もう——
◆◇◆
レオンは、家族から離れた場所に立っていた。
葬儀に参列することは許されたが、家族の輪には入れなかった。
入る資格がないと——自分でも思っていた。
母エリーゼは、息子であるレオンを一度も見なかった。視線を向けることすら、しなかった。
正室として、側室の葬儀で「デキソコナイ」の息子を庇うことはできないのかもしれない。
あるいは——自分の息子のせいで側室が死んだことを、恥じているのかもしれない。
どちらにしても——
レオンは、一人だった。
◆◇◆
葬儀が終わった。
参列者たちが、一人また一人と去っていく。
やがて、墓地にはセレストーム家の者だけが残った。
冷たい風が吹き抜け、墓石の前の白い花が揺れた。
◆◇◆
レオンは、意を決して歩き出した。
エイドリアンの方へ。
足が震えていた。怖かった。だが——
伝えなければならないことがあった。イザベラの、最期の言葉を。
(エイドリアン兄上に……伝えなきゃ……)
それが、今の自分にできる唯一のことだと思った。
◆◇◆
「エイドリアン兄上」
レオンは、エイドリアンの背中に声をかけた。
自分の声が、こんなに掠れているとは思わなかった。
エイドリアンは、振り返らなかった。
「……俺に近づくな」
「でも……イザベラ様が……」
「聞きたくない」
「イザベラ様が、最期に……兄上に伝えてほしいって……」
「聞きたくないと言っている」
エイドリアンの声が、低く震えた。
◆◇◆
「エイドリアン兄上、お願いです。イザベラ様は——」
「黙れ」
エイドリアンが振り返った。
その目を見た瞬間、レオンは息を呑んだ。
涙の跡。充血した白目。そして——その奥に燃える、真っ黒な炎。
「お前の口から、母さんの名前を出すな」
「——っ」
「お前が。お前が母さんを殺したんだ」
◆◇◆
「違——」
「違わない」
エイドリアンは一歩、前に出た。レオンは一歩、後ずさった。
「あの老人が言っていただろう。母さんは、お前のために死んだと」
「それは——」
「お前がいなければ、母さんは死ななかった」
また一歩。
「お前が隠れていれば、見つからなかった」
また一歩。
「お前を庇わなければ——母さんは、まだ——」
エイドリアンの声が、掠れた。
「——生きていたんだ」
◆◇◆
「エイドリアン兄上……俺は……」
「デキソコナイ」
その言葉が、レオンの胸を貫いた。
「それがお前の価値だ。魔力もない。才能もない。何の役にも立たない——デキソコナイ」
エイドリアンの唇が、歪んだ。笑っているのか、泣いているのか、分からなかった。
「そんなお前を守るために——母さんが死ぬ必要なんて、なかったんだよ」
◆◇◆
レオンは、言葉を失った。
涙が頬を伝った。拭うことも忘れて、ただ立ち尽くしていた。
「俺は……俺だって……死にたくなかった……」
「なら、死ねばよかったんだ」
エイドリアンの言葉が、冬の空気を切り裂いた。
「お前が死んでいれば、母さんは生きていた。お前なんかより——母さんの方がずっと——」
「エイドリアン」
◆◇◆
オースティンの声が、二人の間に割って入った。
「もうやめろ、兄上」
「オースティン——」
「レオンを責めても、母上は戻ってこない」
「だが——!」
「分かっている」
オースティンの声は静かだったが、その奥に押し殺した何かがあった。
「分かっているんだ、兄上。俺だって……」
◆◇◆
オースティンは、俯いた。
その肩が、微かに震えていた。
「俺だって、自分を責めている。俺があの老人に屋敷のことを教えたから——全ては、俺のせいなんだ」
「オースティン……」
「だから……レオンだけを責めないでくれ。責めるなら、俺も一緒に責めてくれ」
エイドリアンは、弟を睨みつけた。
「お前は、こいつを庇うのか。母さんを殺した奴を」
「そうじゃない。ただ——」
「もういい」
◆◇◆
エイドリアンは、レオンに背を向けた。
「お前とは、もう話さない」
「エイドリアン兄上——」
「二度と、俺に近づくな」
その声は、氷のように冷たかった。
「俺の前から——消えろ」
エイドリアンは歩き去った。
その背中は、震えていた。悲しみなのか、怒りなのか、分からなかった。
◆◇◆
レオンは、その場に立ち尽くしていた。
伝えられなかった。
イザベラの、最期の言葉を。
(『エイドリアンには……ごめんなさいって伝えて。お母さんは、あなたが大人になるのを見届けられなくて、本当にごめんなさいって』)
その言葉は、レオンの胸の中に閉じ込められたままだった。
重く、冷たく、沈んでいく。
◆◇◆
オースティンが、レオンの傍に立った。
「……レオン」
「……」
「兄上は、今は混乱しているんだ。時間が経てば——」
「オースティン兄上」
レオンは顔を上げた。涙で濡れた目で、オースティンを見つめた。
「俺は……本当に……人殺しなんでしょうか」
◆◇◆
オースティンは、答えられなかった。
口を開きかけて、閉じた。また開きかけて、また閉じた。
心の中では、分かっていた。レオンは悪くない。母が自分の意志で、レオンを守ろうとしたのだ。
だが——
その言葉が、口から出てこなかった。
母が死んだのは、レオンを守ろうとしたからだ。それは、紛れもない事実だった。
そして、自分にも責任があった。老人に屋敷のことを教えたのは、自分だった。
レオンを慰める資格が、自分にあるのか。
分からなかった。
「……行こう、レオン」
オースティンは、それだけ言った。
「寒い。中に戻ろう」
それ以上、何も言えなかった。
◆◇◆
その日から——
エイドリアンは、レオンを避けるようになった。
いや、避けるだけではなかった。
見かけるたびに、冷たい言葉を浴びせた。
「デキソコナイ」
「人殺し」
「母さんを返せ」
廊下ですれ違うだけで、その目が突き刺さった。
◆◇◆
最初は、言葉だけだった。
舌打ち。睨み。聞こえよがしの悪態。
だが、やがて——
「お前のせいで、母さんは死んだんだ」
エイドリアンの拳が、レオンの頬を打った。
「お前なんか、生まれてこなければよかったんだ」
蹴りが、レオンの腹に食い込んだ。
「死ね。死んで、母さんに謝れ」
◆◇◆
レオンは、抵抗しなかった。
抵抗できなかった。
エイドリアンの言葉は、少しずつ、少しずつ、レオンの心を蝕んでいた。
(俺のせいで、イザベラ様は死んだ)
(俺が、イザベラ様を殺した)
(俺は——人殺しだ)
殴られるたびに、その思いが深く刻み込まれていった。
◆◇◆
オースティンは、それを見て見ぬふりをした。
止めようとしたことも、何度かあった。
腕を掴みかけて——止めた。
声をかけようとして——飲み込んだ。
「お前も同罪だろう、オースティン」
ある日、エイドリアンが言った。
「お前があの老人に屋敷のことを教えたから、母さんは死んだんだ。お前に、俺を止める資格があるのか」
オースティンは、何も言えなかった。
その通りだった。自分に、兄を止める資格などない。
だから——見て見ぬふりを続けた。
◆◇◆
日が経つにつれ、エイドリアンの暴力は静かにエスカレートしていった。
最初は頬を打つだけだった。
やがて、拳が体を打つようになった。
食事を取り上げられることもあった。
夜中に部屋に押し入られ、眠りを妨げられることもあった。
使用人たちは、見て見ぬふりをした。側室の息子と「デキソコナイ」の争いに、首を突っ込む者はいなかった。
セレリックは、何も言わなかった。
エリーゼも、何も言わなかった。
レオンは——一人だった。
◆◇◆
夜、レオンは自分の部屋で膝を抱えていた。
窓から差し込む月明かりだけが、暗い部屋を照らしている。
体中が痛む。今日も、エイドリアンに殴られた。
肋骨のあたりが、ずきずきと疼いている。明日には青痣になっているだろう。
だが、体の痛みよりも——心の痛みの方が、ずっと辛かった。
(イザベラ様……)
(ごめんなさい……)
(俺のせいで……)
◆◇◆
イザベラの最期の言葉が、頭の中で繰り返される。
『あなたは、デキソコナイなんかじゃない』
『あなたは、強い子よ』
『オースティンとエイドリアンを、頼むわね』
(頼まれたのに……俺は……何もできない……)
(伝言さえ、伝えられない……)
(強い子なんかじゃない……俺は……)
膝を抱える腕に、力を込めた。爪が肌に食い込んでも、構わなかった。
◆◇◆
窓の外には、冬の星空が広がっていた。
イザベラが好きだった星空。
あの夜も、こんな星空だった。イザベラと一緒に見た、最後の星空。
「イザベラ様……」
レオンは呟いた。声は震えていた。
「俺は……どうすればいいんですか……」
答えは、返ってこなかった。
星だけが、静かに瞬いていた。
◆◇◆
こうして——
7年が過ぎた。
エイドリアンの憎しみは、消えなかった。むしろ、年を経るごとに、冷たく、硬く、凝り固まっていった。
レオンへの暴力は、続いた。
そして——レオンは、「デキソコナイ」と呼ばれ続けた。
イザベラの最期の言葉を、胸に秘めたまま。
誰にも、伝えられないまま。
7年間——ずっと。
【続く】




