第79話 脱出
【七年前・冬】
監禁されてから、二日が経った。
地下室での生活は、想像を遥かに超える過酷さだった。冷たい石の床は、座っているだけで体温を容赦なく奪っていく。与えられた毛布は薄く、湿気を含んでいて、暖を取るには心許ない。食事は一日に一度、黒パンの欠片と濁った水だけ。そして何より——いつ殺されるか分からないという恐怖が、絶えず胸を締め付けていた。
だが、イザベラはずっとレオンの傍にいてくれた。暗闇の中でも、彼女の存在だけが、かすかな光だった。
◇◆◇
「レオン、食べなさい」
イザベラは、看守が置いていった僅かなパンを、レオンに差し出した。固くなったパンは石のように重かったが、イザベラの手は、それを大切なもののように扱っていた。
「イザベラ様は......」
「私はいいの。あなたの方が、体力が必要だわ」
「でも——」
レオンは言いかけて、口を噤んだ。イザベラも、もう二日間ほとんど何も食べていない。顔色は青白く、唇は乾いて、頬はこけ始めている。それでも彼女は、自分の分まで差し出そうとしているのだ。
「いいから」
イザベラは、それでも微笑んだ。その笑顔は——こんな状況でも、変わらなかった。まるで、屋敷の庭で一緒にお茶を飲んでいた頃のように、穏やかで、温かい。
レオンは黙ってパンを受け取り、小さく齧った。固くて、味気ない。喉を通すのも辛い。だが——イザベラの優しさが、それを少しだけ温かくしてくれた。
◇◆◇
その夜。
イザベラは、レオンが眠った後、静かに身を起こした。
薄い毛布の下で、小さく丸まって眠るレオン。その寝顔は、年相応に幼い。こんな場所に閉じ込められているというのに、彼はまだ——彼女を信じて、安心して眠っている。
(この子だけは、守らなければ)
イザベラは、小さな窓から外を覗いた。月が厚い雲に隠れている。星も見えない。今夜は、闇が深い。
(今しかない)
イザベラは、この二日間、ずっと観察を続けていた。看守の交代時間。見回りの間隔。扉の構造。そして——地下室の鍵の在処。わずかな情報を、一つ一つ丁寧に積み重ねてきたのだ。
◇◆◇
看守は二人いた。
一人は真面目な男で、常に警戒を怠らない。見回りも規則正しく、隙がない。話しかけても無視され、こちらの様子を冷たい目で観察している。あの男が当番の夜は、逃げ出す隙などない。
だが、もう一人は怠け者だった。
深夜になると必ず居眠りをする。しかも、鍵を腰に下げたまま、壁にもたれて眠るのだ。寝息は大きく、一度眠ると朝まで起きる気配がない。
今夜の当番は——怠け者の方だった。
(天が、味方してくれている)
イザベラは静かに息を吐いた。
◇◆◇
「レオン」
イザベラは、眠っているレオンの肩をそっと揺すった。
「......イザベラ様?」
レオンは目を擦りながら起き上がった。寝ぼけた目が、暗闇の中でイザベラを捉える。
「静かに」
イザベラは、指を唇に当てた。そして、真剣な目でレオンを見つめ、囁いた。
「今夜、逃げるわよ」
その言葉に——レオンの目が、一瞬で覚めた。眠気が吹き飛び、瞳に緊張の色が走る。
「逃げる......?」
「ええ。看守が居眠りしている。今がチャンスよ」
レオンは息を呑んだ。恐怖と、わずかな希望が、その瞳に浮かんでいた。
◇◆◇
イザベラは、この二日間で密かに準備を整えていた。
看守に気づかれないよう、少しずつ氷の魔力を溜めていたのだ。監禁されてから、まともに食事も取れていない。魔力の消耗は激しく、体は日に日に弱っている。大きな術を使う余裕はない。
だが——鍵穴を凍らせて壊すくらいなら、できる。
「私の後ろについてきて」
イザベラはレオンの手を取った。小さな手は、冷たく震えていた。
「絶対に、離れないで」
「......はい」
レオンは頷いた。その目には、恐怖と——そして、決意が宿っていた。
◇◆◇
イザベラは、扉に近づいた。
指先に意識を集中させる。氷の魔力が、静かに集まっていく。冷たい感覚が、指の先から腕へ、そして全身へと広がっていく。
鍵穴に、そっと触れた。
パキッ——
小さな音と共に、鍵穴の中が凍りつき、内側から壊れた。金属の欠片が、床に落ちる。
扉が——ゆっくりと、開いた。
◇◆◇
廊下に出る。
松明の灯りが、石壁に揺らめいている。空気は冷たく、埃っぽい。
看守は——予想通り、壁にもたれて眠っていた。微かな寝息が、規則正しく聞こえる。腰には、鍵束がぶら下がっている。
イザベラはレオンの手を握りしめ、足音を殺して歩き始めた。一歩、また一歩。石の床が、靴底に冷たい。
(このまま、階段を上がれば——)
出口は、もう目の前だった。
◇◆◇
階段を上がる。
一段、二段、三段——古い木の階段が、微かに軋む。
レオンは息を殺し、イザベラの手を握りしめていた。心臓が、痛いほど鳴っている。その音が、看守に聞こえてしまうのではないかと思うほどに。
(もう少し......もう少しで——)
その時。
「どこへ行く?」
冷たい声が、背後から響いた。
◇◆◇
イザベラとレオンは、同時に振り返った。
階段の下に——老人が立っていた。松明の灯りが、その顔を照らしている。深い皺。冷たい目。そして——手には、使い込まれた槍が握られていた。
「やはり、逃げようとしたか」
老人は穏やかに微笑んだ。まるで、孫の悪戯を見守る祖父のように。だが——その目は、少しも笑っていなかった。
「霜華の民は、氷の魔力で鍵を壊せる。それくらいは知っていたよ」
「......」
「だから、わざと隙を見せた。お前たちが、いつ動くか——試したかったのでな」
老人の声には、嘲りが混じっていた。最初から——泳がされていたのだ。
◇◆◇
イザベラは、レオンを背中に庇った。
「レオン、走りなさい」
「でも——」
「いいから!」
イザベラは叫んだ。その声には、有無を言わせぬ力があった。
「出口は目の前よ! 走って! 私が時間を稼ぐから!」
「無駄だ」
老人が一歩、階段を上がった。木の軋む音が、静寂に響く。
「この建物は、我々の手の者に囲まれている。外に出たところで、逃げ場などない」
「それでも——」
イザベラは両手を構えた。氷の魔力が、指先に集まっていく。冷気が、周囲の空気を震わせる。
「この子だけは......逃がす」
◇◆◇
老人は、その姿を見て——微笑んだ。
「面白い女だ」
槍を構えながら、老人は言った。
「自分の子供でもないのに、そこまでするか」
「この子は、私の息子たちの弟よ」
イザベラは、真っ直ぐに老人を見据えた。
「私の家族と——同じ」
「家族、か」
老人は槍の穂先を、イザベラに向けた。
「ならば、家族として——一緒に死ぬがいい」
◇◆◇
老人が動いた。
驚くべき速さだった。老いた体とは思えない——長年の鍛錬が生んだ、無駄のない動き。
イザベラも動いた。
氷の魔法が、老人に向かって放たれる。鋭い氷の礫が、空気を切り裂いて飛んでいく。
だが——老人は、それを槍で弾き飛ばした。氷の欠片が、壁に当たって砕け散る。
「その程度の魔力で、私を止められると思ったか」
「くっ——」
イザベラは後退した。壁に背中がぶつかる。消耗した体では、これが限界だった。
◇◆◇
「レオン! 走りなさい!」
イザベラは叫んだ。
「今よ! 私が抑えている間に!」
「でも、イザベラ様——」
「いいから!」
イザベラはレオンを押した。強く、背中を。
「走って! 生きて! オースティンとエイドリアンに——私の言葉を伝えて!」
その目は、真剣だった。覚悟を決めた目だった。
レオンは——走り出した。
◇◆◇
涙が、頬を伝う。
(イザベラ様——)
振り返りたかった。戻りたかった。だが、足は止まらなかった。イザベラの言葉が、脳裏に響いていた。
『走って。生きて』
出口が見えた。古い木の扉。その向こうに——夜の森が広がっている。
レオンは扉を押し開け、外に飛び出した。冷たい空気が、肺を刺す。だが、構わなかった。
(逃げなきゃ......逃げなきゃ......)
レオンは森の中を走った。枝が顔を掻き、根に足を取られそうになりながらも、ただ前だけを見て走り続けた。
◇◆◇
だが——背後から、足音が聞こえた。
速い。どんどん近づいてくる。
「無駄だと言っただろう」
老人の声が、すぐ後ろから聞こえた。
「この森には、我々の手の者がいる。逃げ場などない」
レオンは走り続けた。だが、八歳の子供の足では、大人に敵うはずがなかった。
やがて——前方に、崖が現れた。
行き止まりだった。
◇◆◇
レオンは立ち止まった。
崖の下は、闇に沈んでいて底が見えない。前に進むことも、後ろに戻ることもできない。
振り返ると、老人が立っていた。息一つ乱れていない。そして——その後ろから、イザベラが現れた。
「イザベラ様——!」
イザベラは、老人の手の者に両腕を掴まれていた。顔には、殴られた痕があった。口の端から血が流れている。だが、その目は——まだ諦めていなかった。
◇◆◇
「やはり、逃げられなかったか」
老人は溜息をついた。
「面倒なことをしてくれたな。これで、お前たちへの扱いも変わる」
老人はイザベラを見つめた。
「霜華の民よ。お前の始末は、後でゆっくりとつける」
そして、レオンに目を向けた。冷たい、爬虫類のような目だった。
「まずは、この子だ。エリーゼへの『見せしめ』が必要だからな」
◇◆◇
レオンは震えた。
(殺される——)
その恐怖が、全身を貫いた。足が竦み、声も出ない。
だが、その時——
イザベラが動いた。
【続く】




