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錬金系の落ちこぼれ四男、辺境領主として無双する  作者: 穏やかな旅人


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第77話 冬



【七年前・冬】


夜が更けていた。


セレストーム家の邸宅は静まり返り、ほとんどの部屋の灯りが消えていた。窓という窓から漏れる光はなく、月明かりだけが石畳の庭園を照らしている。冬の夜風が吹き抜け、木々の枝が不気味な音を立てていた。


明日の朝、エリーゼと子供たちは別邸へ発つ予定だった。ティモシー、レオン、エレン——三人はそれぞれの部屋で眠っている。荷造りの準備は既に終わり、馬車も手配されていた。だが、誰も理由を知らされていない。なぜ急に別邸へ行くのか。なぜ父は残るのか。不安が屋敷全体を覆っていた。


◆◇◆


オースティンは自分の部屋で槍の手入れをしていた。


北棟の自室。質素な部屋。机と椅子、ベッドだけの簡素な空間。蝋燭の炎が揺れ、影が壁に踊っている。


レオ・ルガールの刃を布で拭きながら、昨日酒場で出会った老人の言葉を思い出していた。あの白髪の老人。優しい笑顔の裏に、何か恐ろしいものを隠していた男。


『君の弟を、見捨てるなよ』


『封印された魔力は——いつか必ず目覚める』


あの言葉の意味が、まだ分からない。レオンの魔力は封印されたまま、もう一年以上が経っている。父は諦めたようだった。もう、レオンには期待していない。魔力のない子供として、家の片隅で生きていくしかないのだろうと。


オースティンは槍の刃を見つめた。月光を受けて、青白く光っている。この槍で、レオンを守れるだろうか。魔力が使えない弟を、この槍で——


◆◇◆


**コンコン。**


扉を叩く音がした。


乾いた、硬い音。まるで骨が木を叩くような、不吉な響きだった。


こんな夜更けに、誰が——


オースティンは槍を手に取り、扉に近づいた。足音を殺し、呼吸を整える。右手で槍を構え、左手で扉の取っ手に触れる。冷たい金属が、手のひらに張り付くように冷たかった。


心臓が激しく打っている。何か——何かがおかしい。この空気。この静けさ。まるで嵐の前のような、不吉な予感。


扉を開けた。


◆◇◆


その瞬間、目の前に白い影が立っていた。


月光を背に、人の形をした影。


あの老人だった。


白髪。深い皺。だが、その目は——酒場で見た優しい老人の目ではなかった。氷のように冷たく、底知れない闘志が宿っている。まるで狩人が獲物を見る目だった。


そして——老人の背後には、白い外套を纏った者たちが何人も立っていた。月光を受けて、その外套は幽霊のように輝いている。五人——いや、六人。全員が武器を持ち、静かにオースティンを見つめていた。


オースティンの背筋に、冷たいものが走った。


◆◇◆


「久しぶりだな、オースティン」


老人は穏やかに微笑んだ。だが、その目は——酒場で会った時とは全く違っていた。その瞳の奥に、何か恐ろしいものが渦巻いている。まるで深淵を覗き込むような、吸い込まれそうな感覚。


「あんた……どうやってここに……」


オースティンは槍を構えた。だが、手が微かに震えている。恐怖ではない。いや、恐怖もあった。だが、それ以上に——怒りだ。騙された。利用された。この老人は、最初から——


「君が教えてくれただろう? この屋敷の構造を」


老人は一歩、部屋に踏み込んだ。その動きは静かだった。音がしない。まるで影が動いているようだった。背後の白い外套の男たちも、無言のまま続く。


「感謝しているよ。おかげで、警備の目を掻い潜るのは簡単だった。北門の見張りが二人。東門が三人。だが、裏庭の古い井戸の脇には誰もいない——君が話してくれた通りだった」


オースティンの顔から、血の気が引いた。


自分が話したのか。酒場で。何気ない会話の中で。屋敷のこと。警備のこと。家族のこと。全て——この老人に、情報を抜き取られていた。


◆◇◆


オースティンは槍を構え直した。全身に力を込める。筋肉が緊張し、心臓が激しく打っている。


「何が目的だ」


「単刀直入に聞こう」


老人の目が、鋭くなった。笑顔が消え、その顔に——冷酷な表情が浮かんだ。


「エリーゼ・アシュモアは、どこにいる?」


「……何?」


「セレリックの妻だ。アシュモア家の血を引く女。星象魔法の継承者。彼女は今、この屋敷にいるのか?」


星象魔法——オースティンはその言葉を聞いたことがあった。古代の魔法。星の力を操る、失われた術。アシュモア家に伝わる、秘密の力。


◆◇◆


オースティンは答えなかった。だが、その沈黙が——答えになっていた。顔が強張る。目が一瞬、無意識に本邸の方向を見てしまう。それだけで十分だった。


「答えないか。まあいい」


老人は背中の包みに手を伸ばした。雪白の絹が解け、中から一振りの槍が現れた。


その瞬間——月光が槍身を照らし、青白い光が放たれた。


まるで凍った星のように、槍が輝いていた。刃は透き通るような青。柄には古い文字が刻まれている。見たこともない文字。だが、その文字から——何か恐ろしい力が滲み出ているのが分かった。


「星霜の槍——氷華」


老人は静かに呟いた。


「君には期待していたんだがな。もう少し賢い子だと思っていた」


老人が動いた。


◆◇◆


その速さは——人間のものではなかった。


一瞬で、老人の姿が消えた。いや、消えたのではない。速すぎて見えないだけだ。


次の瞬間、老人はオースティンの背後にいた。


「遅い」


老人の声が、耳元で響いた。


オースティンは咄嗟に槍を横に振った。だが、空を切る。何も当たらない。老人の姿は、もうそこにはなかった。


「ここだ」


今度は右側から声がする。オースティンは槍を突き出した。だが、また空振り。


「いや、ここだよ」


左側。また外れる。


オースティンは歯を食いしばった。速い。速すぎる。あの老人、酒場で見せた動きとは全く違う。あの時は——手加減していたのか。いや、演技だったのか。


◆◇◆


「外で戦おう」


老人は窓の方を指差した。


「ここでは狭すぎる。君の槍も、私の槍も、満足に振るえない。それに——君の部屋が壊れるのは、可哀想だろう?」


オースティンは何も言わなかった。ただ、槍を構えたまま、窓に向かって跳んだ。ガラスが砕け散る。**ガシャン!** 冷たい夜風が顔を叩く。地面に着地し、すぐに構えを取る。


老人も、ゆっくりと窓から降りてきた。まるで羽毛のように、音もなく着地する。


白い外套の男たちも続く。一人、また一人。無言のまま、庭園を取り囲んでいく。


◆◇◆


**夜の庭園に、金属がぶつかり合う音が響いた。**


部屋の中では狭すぎる。オースティンは老人を庭園に誘い出した——いや、誘い出されたのか? どちらが主導権を握っているのか、もう分からなくなっていた。


月明かりの下、二つの影が激しく交錯する。


オースティンの赤い髪が、風に揺れる。炎のように。


老人の白髪が、月光に輝く。氷のように。


槍と槍がぶつかり合う。**ガキィン!** 金属の悲鳴が夜空に響き渡った。火花が散る。青白い光が、一瞬庭園を照らす。


◆◇◆


「いい突きだ」


老人は片手でオースティンの槍を受け止めながら、穏やかに言った。その声には、まるで授業をしているような、教師の響きがあった。


「教えた甲斐があった。前腕と槍身を一直線に。息を吐く瞬間に全ての力を送り出す。覚えているじゃないか」


「黙れ——!」


オースティンは怒りを込めて突きを放った。裏切られた怒り。騙された屈辱。母と弟を危険に晒してしまった自責。全ての感情を、この一撃に込める。


だが、老人はその全てを読んでいた。


当然だ。


教えたのは、老人自身なのだから。


オースティンの槍の軌道を、老人は完全に理解している。どこに突くか。どう動くか。全ての癖を、全ての習慣を、老人は知っていた。


◆◇◆


「だが——まだ足りない」


老人の槍が動いた。


信じられない速度で。


青白い光が、弧を描く。まるで流星のように、夜空を切り裂いた。


オースティンは咄嗟に身を翻したが——間に合わなかった。


槍の柄が、肩に叩き込まれた。


ゴッ——!


鈍い音。骨が軋む。


「くっ——!」


オースティンは後退し、体勢を立て直す。肩が——動かない。感覚がない。いや、痺れている。痛みが遅れて襲ってくる。全身に電流が走ったような、鋭い痛み。


だが、構えを崩さなかった。歯を食いしばり、槍を握りしめる。右肩が使えない。なら、左手で——


◆◇◆


「なぜだ」


オースティンは震える声で言った。口の中に血の味がする。舌を噛んだのか。唇から血が滴っていた。


「なぜ、俺に槍を教えた。最初から、これが目的だったのか」


「そうだ」


老人は槍を肩に担いだ。その動作は優雅で、まるで舞を舞っているようだった。


「君のおかげで、この屋敷の構造がよく分かった。警備の配置も、逃げ道も、全て。君は本当に、素直な子だったよ。私が少し褒めれば、すぐに色々なことを話してくれた」


老人は微笑んだ。だが、その目は笑っていなかった。


「だが、本当に感謝しているのは別のことだ」


老人は槍を構え直した。


「君の槍術は、見る価値があった。才能がある。もう少し時間があれば、本当の強者になれただろう」


◆◇◆


二人は再び動いた。


槍と槍がぶつかり合う。


一合——オースティンの突きを、老人が軽く受け流す。


二合——老人の払いを、オースティンがかろうじて防ぐ。


三合——オースティンは全力で攻めた。老人に教わった通り、前腕と槍身を一直線にし、全ての力を一点に集中させた。


だが、差は歴然だった。


老人の槍は、まるで生き物のように動く。オースティンの攻撃は全て読まれ、反撃は全て防げない。


四合——オースティンの突きが空を切る。


五合——老人の反撃がオースティンの脇腹を掠める。


**六合——**槍が手から弾かれそうになる。オースティンは必死に握りしめる。


**七合——**


老人の槍の柄が、オースティンの腹部に叩き込まれた。


◆◇◆


ドスッ——!


「がはっ——!」


オースティンは吹き飛ばされ、地面に転がった。肺の中の空気が全て吐き出される。呼吸ができない。喉が焼けるように痛い。視界が歪む。星が見える——いや、これは本当の星なのか、それとも目がおかしくなったのか。


地面に倒れたまま、オースティンは咳き込んだ。血が口から零れる。内臓が——やられている。


(勝てない——)


(この人には、勝てない——)


◆◇◆


「終わりだ」


老人はゆっくりと近づいてきた。その足音が、地面に響く。一歩、また一歩。まるで死神が近づいてくるような、恐ろしい音。


「大人しくしていれば、殺しはしない。君は目的ではないからな」


オースティンは地面に手をついて立ち上がろうとした。だが、腹部の痛みで体が言うことを聞かない。手足に力が入らない。視界が歪み、地面が揺れているように見える。


**(くそ……動け……動けよ……!)**


立たなければ。


戦わなければ。


この老人たちを——止めなければ——


◆◇◆


その時——


「何の音だ——!」


声がした。屋敷の方から。


子供の声。


その声を聞いた瞬間、オースティンの心臓が止まりそうになった。


オースティンは目を見開いた。


**レオンだった。**


八歳の少年が、寝巻き姿のまま庭園に飛び出してきた。銀色の髪が月光に輝いている。その漆黒の瞳には、恐怖と——それでも逃げない決意が宿っていた。


その小さな体が、夜風に震えている。薄い寝巻きだけで、冬の夜の外に——


手に、小さな木の剣を握っている。訓練用の、ただの玩具。魔力も込められていない、ただの木の棒。


「兄上! 大丈夫か!」


レオンの声は震えていた。だが、足は前に進んでいた。恐怖で体が震えているのに——それでも、兄に駆け寄ろうとしていた。


◆◇◆


「来るな——!」


オースティンは叫んだ。地面に倒れたまま、血を吐きながら、弟に向かって叫んだ。その声は、かすれていた。だが、必死だった。


「レオン、逃げろ!」


「でも——兄上が——」


「聞こえなかったのか!」


オースティンは歯を食いしばった。腹部が痛む。だが、それ以上に——恐怖が込み上げてきた。


レオンがここにいたら、危険だ。


この老人は、エリーゼを狙っている。


レオンはエリーゼの息子だ。


もし老人がそれに気づいたら——


◆◇◆


「お前なんかがいても邪魔なんだよ! 分かるだろ!」


オースティンは叫んだ。その言葉は、心にもないことだった。だが、言わなければならなかった。レオンを、ここから遠ざけなければ。


「この落ちこぼれが——! とっとと消えろ!」


「……」


レオンは、固まった。


その小さな体が、ピクリと震えた。


銀色の髪が、月光の中で揺れている。


顔から、血の気が引いていく。


唇が震え、目に涙が浮かんでいる。


◆◇◆


**落ちこぼれ。**


その言葉を、オースティンから聞いたのは——初めてだった。


他の者からは、何度も言われてきた。


エイドリアンから。「お前は欠陥品だ」と。


使用人たちから。「魔力のない坊っちゃん」と。


時には、父からも。「失敗作だ」と。


だが、オースティンだけは——一度も、その言葉を使わなかった。


あの日、庭園で鍛錬した時も。


魔力を失って落ち込んでいた時も。


誰もが自分を見捨てた時も。


オースティンは決して、レオンをそう呼ばなかった。


それなのに、今——


オースティンの口から、その言葉が——


◆◇◆


レオンの握っていた木の剣が、地面に落ちた。


**カラン——**


乾いた音が、静かな庭園に響いた。


涙が、頬を伝っていた。八歳の少年の、小さな顔を。


「……ごめん、なさい……」


レオンは呟いた。その声は、か細かった。まるで消えてしまいそうな、儚い声。


「ごめんなさい……俺、邪魔、だから……」


レオンは後ずさりした。一歩、また一歩。その足は、フラフラと不安定だった。


◆◇◆


「ほう」


老人が、興味深そうに二人を見ていた。その目が、レオンに向けられる。


老人は一歩、レオンに近づいた。その目が、まるで商品を値踏みするように、レオンの全身を見回す。


「銀の髪……」


老人の目が、鋭くなった。


「お前、エリーゼの息子か?」


レオンは後退した。老人の目が、獲物を見つけた狩人のように光っている。恐怖で体が震える。足が動かない。逃げたいのに、体が言うことを聞かない。


「なるほど。これは面白い」


老人は微笑んだ。その笑みは、ぞっとするほど冷たかった。まるで氷の彫刻のような、感情のない笑顔。


「エリーゼ本人を探す必要はなかったわけだ。この子を連れて行けば、エリーゼは自分から出てくる。母親というのは、そういうものだからな」


◆◇◆


「させるか——!」


オースティンは渾身の力を振り絞り、立ち上がった。槍を拾い、老人に向かって突進する。足がふらつく。視界が歪む。だが、構わない。


「レオンに触れるな——!」


だが、体が言うことを聞かない。さっきの一撃で、内臓がやられている。足がふらつき、突きに力が入らない。槍の先が、大きく揺れている。


老人は軽く身をかわし、オースティンの背中を蹴った。


ドスッ——


「がっ——!」


オースティンは再び地面に叩きつけられた。顔が地面に激突する。鼻から血が流れる。口の中が、血の味でいっぱいになる。


◆◇◆


「兄上!」


レオンが駆け寄ろうとした。その小さな足が、オースティンに向かって走り出す。


だが——


白い外套の男たちが、レオンを取り囲んでいた。


いつの間にか、レオンの周りに五人の男たちが立っている。まるで壁のように、逃げ道を塞いでいる。


「離せ——! 離せよ——!」


レオンは暴れたが、八歳の子供の力では、大人たちに敵わなかった。両腕を掴まれ、身動きが取れなくなる。小さな体が、男たちの腕の中で必死にもがいている。


「兄上——! 兄上——!」


レオンの声が、夜空に響く。泣き叫ぶ声。助けを求める声。


◆◇◆


「レオン——!」


オースティンは地面を這いながら、弟に手を伸ばした。血まみれの手が、空を掴む。


だが、届かない。


遠い。あまりにも遠い。


**(くそ——! くそ——!)**


(俺のせいだ——)


(俺があいつに屋敷のことを教えたから——)


(俺が弱かったから——)


◆◇◆


**その時——**


**冷たい風が、庭園を吹き抜けた。**


いや、風ではない。


**魔力だ。**


氷の魔力が、庭園を包み込んでいく。


空気が凍る。地面に霜が降りる。木々の葉が、瞬く間に氷に覆われていく。


温度が急激に下がる。吐く息が白くなる。オースティンの体が震え始める。寒い。冬の夜だというのに、さらに寒くなった。まるで氷原の真ん中にいるような、骨まで凍りつくような寒さ。


これは——


霜華の術。


母の、魔法。


◆◇◆


「その子たちから、離れなさい」


凛とした声が、夜空に響いた。


その声は、静かだった。だが、力強かった。まるで氷の刃のように、鋭く、冷たく、そして——美しかった。


老人が振り返る。オースティンも、レオンも、その方向を見た。白い外套の男たちも、一斉にその方向を向く。


屋敷の入り口に——淡い水色の髪の女性が立っていた。


月光を受けて、その髪は銀色に輝いている。まるで凍った滝のように、長い髪が風に舞っていた。


**イザベラ。**


**オースティンとエイドリアンの母。**


◆◇◆


「母上——」


オースティンは呟いた。その声は、かすれていた。血が口から零れる。


イザベラは静かに庭園に歩み出た。その足取りは、優雅だった。まるで氷の上を滑るように、音もなく、滑らかに。


その周囲に、氷の結晶が舞い始めている。


青白い光を放つ、小さな結晶。まるで蛍のように、彼女の周りを舞っている。それは美しく——そして、恐ろしかった。


霜華の術——彼女の一族に伝わる魔法。北方の氷原に住む、霜華の民の秘術。


淡い水色の髪が風に舞い、同じ色の瞳が月光に輝いている。その姿は、まるで氷の女王のようだった。


イザベラは簡素な灰色のドレスを着ていた。宝石も、装飾も何もない。だが、今この瞬間——彼女は、誰よりも気高く、誰よりも美しく見えた。


◆◇◆


「あなたが星淵の隼ね」


イザベラは老人を見据えた。その目には、恐れはなかった。ただ、静かな決意だけがあった。


水色の瞳が、月光の中で輝いている。その目は、氷のように冷たく——そして、どこか悲しげだった。


「私の息子と、この子に、何の用?」


「私の息子と、この子」——イザベラはレオンを、「この子」と呼んだ。自分の息子ではない。だが、守るべき子。


◆◇◆


「これは驚いた」


老人は興味深そうにイザベラを見た。その目に、初めて——驚きの色が浮かんだ。


「霜華の民か。珍しいな、こんなところで会えるとは。北方の氷原を離れた霜華の民など、百年ぶりだろう」


老人は槍を構え直した。その動作に、初めて——緊張が混じった。


「質問に答えなさい」


イザベラの声は、静かだった。だが、その中には——拒絶できない力があった。


「エリーゼ・アシュモアを探している」


老人は真っ直ぐにイザベラを見つめた。


「だが、今はその必要がなくなった」


老人はレオンを指差した。レオンは男たちに囲まれ、両腕を掴まれたまま、恐怖で震えている。


「その子を連れて行けば、エリーゼは自分から出てくる。母親というのは、子供のためなら何でもするものだからな」


◆◇◆


イザベラは一瞬、オースティンとレオンを見た。


オースティンは地面に倒れ、血まみれで、起き上がれない。


レオンは男たちに取り囲まれ、両腕を掴まれ、身動きが取れない。


その目には、涙が浮かんでいる。


イザベラの目が、一瞬揺らいだ。だが、すぐに——決意の色に変わった。


「……そう」


イザベラは静かに言った。その声は、穏やかだった。だが、その中には——揺るぎない決意があった。


「なら、私も一緒に連れて行きなさい」


◆◇◆


「母上!?」


オースティンは叫んだ。その声は、かすれていた。だが、驚きと恐怖で震えていた。


「何を言っている——」


「この子を一人にはさせない」


イザベラはレオンを見つめた。その目には、揺るぎない決意があった。優しさと——母の強さがあった。


「私が一緒にいれば、この子を守れる。少なくとも、あなたたちが乱暴なことをしないように、見張ることはできる」


老人は微笑んだ。その笑顔は、まるで何かを面白がっているようだった。


「面白い女だ。自分も人質になると? 子供を守るために?」


「ええ」


イザベラは頷いた。その動作は、優雅だった。まるで女王が宣言するように。


◆◇◆


「母上、駄目だ——!」


オースティンは地面に手をついて立ち上がろうとした。だが、体が言うことを聞かない。腹部が痛む。視界が歪む。血が口から零れる。


「オースティン」


イザベラはオースティンを見た。その水色の目が、月光の中で輝いている。


「お父様に伝えて。私とレオンは、この人たちと一緒に行くと。エリーゼ様を連れて、助けに来てと」


「そんな——」


「お願い」


イザベラは微笑んだ。いつもの、優しい笑顔だった。


だが、その目には——涙が浮かんでいた。透明な涙。だが、その涙は——凍っていた。頬を伝う前に、氷の粒になって、キラキラと光りながら地面に落ちていく。


「あなたは、私の太陽よ。だから——必ず、助けに来て」


◆◇◆


「面白い女だ」


老人は笑った。その笑い声が、夜空に響く。


「いいだろう。一緒に来るがいい。人質が二人になれば、エリーゼもより早く出てくるだろう」


老人は部下たちに目配せした。白い外套の男たちが、一斉に動く。


「この二人を連れて行け。丁重にな。傷つけるなよ。人質に傷があっては、価値が下がる」


「はっ」


男たちが応える。その声は、低く、冷たかった。


◆◇◆


イザベラはレオンの隣に歩み寄り、その手を握った。


「大丈夫よ、レオン。怖くない」


イザベラの手は、冷たかった。氷のように冷たい。だが——どこか、温かかった。


「イザベラ様……」


レオンの目に、涙が溢れていた。八歳の少年が、必死に涙を堪えようとしていた。


「ごめんなさい……俺が出てこなければ……俺が魔力を持っていれば……」


「謝らないで」


イザベラはレオンの頭を撫でた。その手は優しく、まるで本当の母親のように。


「あなたは何も悪くない。誰も悪くない。ただ——運が悪かっただけ」


イザベラは微笑んだ。


「さあ、行きましょう」


◆◇◆


オースティンは地面に這いつくばったまま、手を伸ばした。血まみれの手が、空を掴む。


「母上——! レオン——!」


だが、届かない。


遠い。あまりにも遠い。


白い外套の男たちが、イザベラとレオンを連れて行く。イザベラはレオンの手を握ったまま、静かに歩いている。レオンは何度も振り返り、オースティンを見ていた。その目には、涙が光っていた。


二人の姿が、夜の闇に消えていく。


「待て——! 待ってくれ——!」


オースティンは叫んだ。だが、体が動かない。立ち上がれない。這うことしかできない。


「母上——!」


◆◇◆


老人は去り際に、オースティンを見下ろした。その目は、冷たかった。だが——どこか、同情のようなものが混じっていた。


「君の父親に伝えろ」


老人の声が、静かに響く。


「エリーゼ・アシュモアを、三日以内に『星霜の塔』に連れてこい。さもなければ——」


老人は微笑んだ。その笑顔は、氷のように冷たかった。


「人質の命は保証しない」


そう言い残し、老人も夜の闇に消えていった。白い外套が、月光の中で揺れる。そして——消える。


◆◇◆


庭園には、オースティンだけが残された。


月明かりの下、倒れたまま、動けない。


血まみれの顔。折れそうな体。震える手。


「母上……レオン……」


涙が、頬を伝っていた。血と涙が混じって、地面に落ちる。


「くそ……くそ……くそ……!」


オースティンは地面を殴った。何度も、何度も。


**ドン! ドン! ドン!**


「俺のせいだ……俺があいつに屋敷のことを教えたから……俺が弱かったから……」


拳から血が滲む。皮膚が裂ける。骨が軋む。だが、痛みなど感じなかった。


心の痛みに比べれば、こんなものは何でもなかった。


◆◇◆


やがて、屋敷から人が駆けつけてきた。


足音が響く。複数の人間が、こちらに走ってくる音。


父のセレリック。兄のエイドリアン。使用人たち。


松明の光が、庭園を照らす。


「オースティン! 何があった!」


セレリックがオースティンを抱き起こした。その声は、震えていた。恐怖と——怒りが混じっていた。


オースティンは震える声で答えた。血が口から零れる。


「母上が……レオンが……連れて行かれた……」


「何だと——!?」


セレリックの顔が、蒼白になった。その目が、信じられないという色になる。


「星淵の隼……エリーゼ様を……三日以内に……星霜の塔に……」


オースティンの意識が、薄れていった。


視界が暗くなる。音が遠くなる。体の感覚が消えていく。


最後に見たのは——エイドリアンの、蒼白な顔だった。


その顔には、恐怖と——何か、複雑な感情が浮かんでいた。


そして——


暗闇。


◆◇◆


【続く】

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