第75話 老人
【1年後・秋】
オースティンは静かに槍を抱えた。
最後の数撃が気に入らなかった。手首に巻いた布の下で、鈍い棘が肌に食い込み、全力を出し切れなかったのだ。彼は生まれつき同年代の子供より力が強かったが、十五キログラムのレオ・ルガールは成人にとっても重すぎる。時折、彼はこの恐ろしい槍をかつて使っていた者のことを考える——まるで炎を掌中に収めるような者だったに違いない。
ゆっくりと呼吸を整えていると、ふと——オースティンの目が鋭く光り、淡い茶色の瞳が背後の樫の木立に向かった。
彼には野獣のような鋭敏さがあった。直感的に、何かが自分を圧迫しているのを感じ、不安が胸に広がる。だが、回復の速度は常人よりも遥かに速い。わずかに呼吸を整えただけで、力が両腕に戻ってきた。
四指が槍身を滑り、レオ・ルガールが両腕の中で構えられた。彼の体は張り詰めた硬弓のようで、その弓には森然たる巨大な矢が番えられていた。
オースティンは動かず、低い声で言った。
「……誰だ。木の後ろにいるのは」
レオ・ルガールの穂先が木立の一点を指し、一触即発の態勢。
その言い難い圧力が、心臓の鼓動を速めた。実際にそこに人影が見えたわけではない。だが、背中に針を刺されるような強烈な感覚——誰かの視線が、自分を丸ごと貫いているような。
◆◇◆
低く響いてきたのは——笑い声だった。
穏やかで、深みのある笑い声。
「槍をもっと速くしたいなら、一突きの力をもっと猛烈にしたいなら、ただ力を爆発させるだけでは意味がない」
木立の影から、一つの影が歩み出た。
「重要なのは腕の位置を調整することだ。前腕と槍身を一直線にする。息を吐く瞬間に、全ての力を送り出す。腕の長さを全て使い切った時、槍先はちょうど敵の心臓に届くべきだ。早すぎれば、全ての力を吐き出す前に終わる。遅すぎれば、体が槍の威力を妨げる」
オースティンの手の中にある危険な武器など、まるで気にしていない様子だった。
窺われているという不安感が、一瞬で消えた。その声がもたらすのは、不思議と友好的な感覚だった。
◆◇◆
オースティンは槍の構えを解き、驚きをもってその姿を見た。
それは、普通ではない存在だった。
純白の長衣が全身を包み、銀糸の刺繍が裾に施されている。髪も一色の雪白で、長く背に流れていた。身の丈は二メートルを超え、老人とは思えぬほど真っ直ぐに背筋が伸びている。
まるで月光を纏った精霊のようで、薄暗い木立の中で異様に眩しい存在感を放っていた。
その傍らには、一頭の幻獣が佇んでいた。銀色の鬣を持つ白馬——いや、額にかすかな角の痕跡がある。ユニコーンの血を引く聖獣だろうか。幻獣は静かに老人に寄り添い、その蒼い瞳でオースティンを見つめていた。
「セレストームの子か?」
老人は微笑みながら尋ねた。その声は穏やかだが、どこか底知れぬ深みがあった。
「……オースティン・セレストーム。何故、俺の名を知っている」
「君のことは知らない」
老人の視線が、レオ・ルガールに注がれた。その蒼い瞳が、一瞬だけ——鋭く光った。
「だが、この槍は——一生忘れられない」
◆◇◆
オースティンは戸惑いながら自分の槍を見た。槍の来歴について、彼は何も知らなかった。
「見せてもらえるかな?」
老人が静かに言った。
その声と眼差しを、拒むことはできなかった。オースティンの手が滑り、レオ・ルガールを差し出していた。
老人の手が、槍の上を軽く撫でた。槍刺の背筋から、槍杆に刻まれた古い傷跡まで。その表情は真剣を超え、敬虔で、わずかに悲哀を帯びていた。
まるで——旧友との再会を果たしたかのような。
最後に、老人は槍刺の下にある小さな紋章に触れた。
「この意味を知っているか?」
オースティンは首を振った。
◆◇◆
「この紋章は古代ドワーフのルーン文字だ。三百年前、火山の麓に栄えたドワーフ王国——その王家の鍛冶師だけが使った古代ルーン」
老人の声には畏敬が満ちていた。
「『獅子の牙は卑怯者の魂を引き裂く』——それがこの槍の銘だ」
老人は頬を槍鋒に寄せた。声は低く沈んだ詠唱のようだった。
「再び会えたな、古い友よ。まだ呼吸が聞こえる。意志を感じる」
老人は目を細め、懐かしそうに呟いた。
「この槍を鍛えた者は——私の古い友人だった。ドワーフ王国最後の王鍛冶師。彼の作品を再び手にする日が来るとは……」
老人は槍をオースティンに返した。
◆◇◆
「……あんたは、この槍の鍛冶師を知っているのか」
「ああ。共に戦った仲間だった」
老人は遠くを見るように目を細めた。
「三百年前のことだ。彼は——最高の鍛冶師であり、最高の戦士でもあった」
「三百年前……?」
オースティンは目を見開いた。それほどの歳月を生きているというのか、この老人は。
「そして、この槍の最初の持ち主も知っている。人間の騎士でな」
老人はオースティンを真っ直ぐに見つめた。
「お前と——同じ目をしていた」
「同じ目?」
「何かを守りたいが、守る術を知らない——そういう目だ」
オースティンは言葉を失った。
◆◇◆
老人の背には細長い包みがあった。銀色の絹で包まれ、二・五メートルを超える長さ。老人のすでに驚くべき二メートルの身長をも超えていた。
オースティンの目が、その包みに釘付けになった。
「それも、槍か?」
老人は少し驚いた様子だった。
「何故分かる?」
「あんたがその背丈なら、その長さが最も適した槍の長さだ。それに、あんたの言っていることは正しかった。なら、あんたは槍を使う武人だろう。槍を持たないはずがない」
「ほう」
老人は微笑んだ。その笑みには、純粋な感心が込められていた。
「聡明な若い騎士だ」
◆◇◆
騎士と呼ばれたことに、オースティンは驚いた。
「……俺は騎士じゃない。側室の子だ」
「それがどうした」
老人は首を傾げた。
「槍を握る者に、生まれは関係ない。重要なのは——何を守りたいか、だ」
「……」
「お前には、守りたい者がいるのだろう?」
◆◇◆
オースティンは拳を握りしめた。
「……弟だ。今は、皆に見捨てられている」
「ほう」
老人の蒼い瞳が、わずかに光った。
「見捨てられた弟、か」
「魔力が封印されて、使えなくなった。それから——欠陥品と呼ばれている」
「……そうか」
老人は何かを考えるように、しばし黙った。
◆◇◆
「少年よ」
老人が再び口を開いた。
「明日から、夜明け前にこの場所へ来い」
「……何?」
「私が鍛えてやる。その槍に相応しい使い手になれるように」
オースティンは目を見開いた。
「何故、俺にそんなことを……」
「気まぐれかもしれない」
老人は肩をすくめた。
「あるいは——お前の目が、昔の誰かに似ていたからかもしれない」
◆◇◆
老人は踵を返し、幻獣の傍らに歩み寄った。銀色の鬣が風に揺れ、聖獣は主人を迎えるように首を垂れた。
「待ってくれ」
オースティンが声を上げた。
「あんた、名前は」
老人は振り返らなかった。だが、その声だけが木立の間に響いた。
「ヴァルター。そう呼んでくれ」
「ヴァルター……また会えるか」
「明日、ここで待っている」
老人は聖獣に跨った。
「それと、一つだけ覚えておけ」
「何だ」
「お前の弟——魔力が封印されたと言ったな」
「……ああ」
「封印された魔力は、いつか必ず目覚める。その時、お前の弟には味方が必要だ」
老人の声が、風に乗って響いた。
「お前がその味方になれるかどうかは——お前次第だ」
◆◇◆
老人と聖獣の姿が、木立の奥に消えていった。
まるで月光が森に溶けるように、その純白の影は静かに薄れていった。
オースティンは一人、その場に残された。
槍を握りしめる。レオ・ルガール——獅子の咆哮。
三百年前、誰かがこの槍を振るっていた。誰かを守るために。
そして今、その槍は自分の手の中にある。
【続く】




