第74話 約束
【一年後・秋】
庭園に、剣と槍がぶつかる音が響いていた。
秋風が枯れ葉を舞い上げ、黄金色に染まった楓の木々が二人の少年を静かに見守っている。空は高く澄み渡り、どこか物悲しい季節の匂いが漂っていた。
だが、以前とは何かが違っていた。
かつてこの庭園を満たしていた力強い金属音は、今や乾いた、どこか虚ろな響きに変わっていた。
◆◇◆
七歳のレオンが、剣を構えている。
銀色の髪は相変わらず陽光に輝いているが、その漆黒の瞳からは——かつての鋭さが消えていた。目の下には薄い隈が刻まれ、頬はわずかにこけている。騎士服は以前よりも少し緩くなっていた。この一年で、少年の姿は別人のように変わっていた。
「はぁっ……はぁっ……」
息が荒い。足元がふらついている。
たった三合打ち合っただけで、もう限界だった。
かつては十合、二十合と平気で続けられた。魔力が体を巡り、疲労を感じることなど稀だった。剣を振るうたびに体内を駆け巡る温かな力——あの感覚が、もはや遠い夢のように思える。
◆◇◆
一年前、レオンの魔力回路が封印された。
原因は分からない。ある日突然、魔力が使えなくなった。体内の魔力が、まるで凍りついたかのように動かなくなったのだ。
あの朝のことを、レオンは鮮明に覚えている。
目覚めた瞬間、体の中を流れていた温かな流れが消えていた。まるで心臓の半分を失ったような、そんな恐怖だった。慌てて魔力を練ろうとしても、何も起こらない。体の中心にあったはずの光が、完全に消えていた。何度試しても、何度集中しても——そこにはただ、虚無があるだけだった。
規格外と呼ばれた魔力。セレストーム家の誇りと言われた才能。
それが、一夜にして消えた。
◆◇◆
「天才」から「欠陥品」へ。
周囲の目が、一瞬で変わった。
かつてレオンを持ち上げていた使用人たちは、今では目を合わせようともしない。廊下ですれ違えば、哀れむような、あるいは嘲笑うような視線を向けてくる。
「可哀想に」という囁き声が、どこからともなく聞こえてくる。
「やっぱり、あんな才能は長続きしないものよね」
「神童も堕ちたものだわ」
壁の向こうから漏れ聞こえる言葉が、毎日のようにレオンの耳に刺さった。
エリーゼは毎日のように溜息をつき、レオンの顔を見るたびに失望の色を隠さなくなった。かつて「我が家の至宝」と呼んでいた息子を、今では直視することすら避けている。セレリックは忙しさを理由にレオンを避けるようになり、食事の席でも目を合わせることがなくなった。
ティモシーとエレンでさえ、レオンと一緒にいることを恥ずかしがるようになっていた。
「あんまり一緒にいると、僕たちまで馬鹿にされるから」
ある日、ティモシーが小さな声でそう言った。その言葉は、どんな剣で斬られるよりも深くレオンの心を抉った。
◆◇◆
「もう一度だ」
レオンは剣を構え直した。
手が震えている。足に力が入らない。魔力を失ってから、体力も急激に落ちていた。かつて一年かけて鍛え上げた体が、まるで嘘のように衰えていく。
食事も喉を通らない日が続いた。眠れない夜も多かった。天井を見つめながら、失われた魔力のことばかり考えていた。
それでも——剣だけは手放さなかった。
「来いよ、兄上」
対するオースティンは、槍を片手で構えたまま動かない。
九歳になったオースティンは、この一年でさらに背が伸びていた。肩幅も広くなり、少年から青年へと変わりつつある。赤い髪が秋風に揺れ、淡い茶色の瞳は——いつものように、冷たく見える。
だが、その瞳の奥に宿るものに、レオンは気づいていなかった。
◆◇◆
「……俺が攻めればいいのか?」
「ああ。遠慮するな」
「分かった」
オースティンが一歩踏み出した。
槍が動く。
ゆっくりと。信じられないほど、ゆっくりと。
まるで初心者に型を教えるような、優しい動きだった。
◆◇◆
レオンは目を見開いた。
(遅い——)
これは、オースティンの本気じゃない。明らかに手加減されている。
一年前、レオンはオースティンの攻撃を見切ることができた。あの時は魔力で強化された動体視力があった。今は——何もない。
それでも、この遅さは侮辱以外の何物でもなかった。
「舐めるなっ!」
レオンは怒りに任せて剣を振った。
だが、体がついてこない。かつては意のままに動いた手足が、今や重い枷に繋がれているかのようだ。剣は空を切り、バランスを崩したレオンは、そのまま前のめりに倒れた。
「くそっ……」
膝が地面につく。手のひらが石畳に擦れて、血が滲んだ。
枯れ葉が、倒れたレオンの周りに舞い落ちる。まるで哀れむように。
◆◇◆
「……大丈夫か」
オースティンの声が、頭上から降ってきた。
いつもの無表情な声。だが、どこか——心配しているような響きが混じっていた。
「うるさい……」
レオンは顔を上げなかった。顔を上げられなかった。
涙が出そうだった。悔しくて、情けなくて。
「手加減なんか、するなよ……俺はまだ、戦えるんだ……」
「……」
「魔力がなくたって、俺は……俺は……」
声が震える。涙が頬を伝う。
石畳に、小さな水滴が落ちた。一つ、また一つと。
◆◇◆
オースティンは黙って槍を地面に置いた。
金属が石畳にぶつかる乾いた音が、静かな庭園に響く。
そして、レオンの隣にしゃがみ込んだ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。秋風が二人の間を通り抜け、枯れ葉を遠くへ運んでいく。
「……なあ」
「……何だよ」
「魔力のことだけどさ」
オースティンは、いつもの冷たい声で言った。だが、その声には普段感じられない柔らかさが滲んでいた。
「戻ってくるんじゃないか? そのうち」
◆◇◆
レオンは顔を上げた。
涙で滲んだ視界に、兄の横顔が映る。
「……何で、そう思うんだよ」
「別に。根拠なんてないけどさ」
オースティンは肩をすくめた。視線を遠くの木々に向けながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「お前、元々魔力が規格外だったんだろ? そういうやつの魔力が、そう簡単に消えるわけないだろ。きっと、どこかに隠れてるだけだ」
「……」
「今は使えなくても、いつか戻ってくるさ。焦ることないよ」
オースティンの声は、まるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。
◆◇◆
レオンは目を瞬いた。
オースティンが、自分を慰めている。
あの冷たい兄が。いつも無口で、何を考えているか分からない兄が。
この一年、家族の誰もがレオンを避けた。誰もが失望し、誰もが見放した。
でも——この兄だけは違った。
思い返せば、オースティンは毎日この庭園に来てくれていた。何も言わず、ただ槍を構えて待っていた。レオンが来なければ、一人で黙々と素振りをしていた。レオンが来れば、何度でも相手をしてくれた。雨の日も、風の日も。
そのことの意味に、今更ながら気づいた。
「……兄上」
「何だよ」
「お前、そういうこと言うんだな」
「……別に。言いたくなっただけだ」
オースティンは顔を背けた。その耳が、微かに赤くなっているように見えた。
◆◇◆
「それにさ」
オースティンは立ち上がりながら言った。その声には、珍しく熱がこもっていた。
「魔力がなくても、剣術は鍛えられるだろ。俺だって、魔力なんてほとんどないけど、槍は使えるし」
「……」
「体を鍛えろよ。走り込みとか、素振りとか。魔力に頼らない戦い方を覚えればいい」
オースティンは振り返り、真っ直ぐにレオンを見た。
「魔力が戻ってきた時、体も強くなってれば、もっと強くなれるだろ。今の時間は、無駄じゃない」
「……兄上」
「何だよ」
「お前、意外といいやつだな」
「……うるさい。早く立てよ、続きやるぞ」
オースティンは照れ隠しのように背を向けた。だが、その声には確かな温もりがあった。
◆◇◆
レオンは手の甲で涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
膝が痛む。手のひらがひりひりする。体中が悲鳴を上げている。
それでも——剣を拾い、構え直す。
まだ手は震えている。まだ足は覚束ない。
でも——
「来いよ、兄上」
その声には、さっきまでなかった力があった。
「……いくぞ」
オースティンが槍を構えた。
今度は、手加減なしの本気で。その瞳には、弟への敬意が宿っていた。
◆◇◆
剣と槍がぶつかる音が、再び庭園に響いた。
レオンは何度も倒され、何度も立ち上がった。
体中が傷だらけになっても、剣を離さなかった。膝をつくたびに歯を食いしばり、また立ち上がった。
オースティンは何も言わず、何度でも槍を振るった。
容赦なく、でも——どこか優しく。
弟が立ち上がるたびに、オースティンの瞳にはかすかな光が宿った。それは——期待だった。
◆◇◆
日が暮れる頃、二人は並んで庭園の石畳に座っていた。
西の空が茜色に染まり、長い影が二人の足元に伸びている。体中傷だらけのレオンと、息一つ乱していないオースティン。だが、二人の間には不思議な穏やかさがあった。
「……なあ、レオン」
「何だよ」
「約束しろよ」
「約束?」
「魔力が戻ってきたら、また俺と戦え」
オースティンは、夕焼けに染まる空を見上げながら言った。その声には、珍しく感情がこもっていた。
「その時は、俺も本気を出す。今みたいな手加減なしでさ」
◆◇◆
レオンは兄の横顔を見た。
夕日に照らされた赤い髪が、炎のように輝いている。いつもは冷たく見える瞳が、今は少しだけ柔らかく——いや、どこか寂しげにも見えた。
この兄は、ずっと待っていたのだ。
対等に戦える相手を。本気を出せる相手を。
「……ああ、約束する」
レオンは答えた。声には、確かな決意が込められていた。
「必ず戻ってくる。魔力も、強さも。全部取り戻して——兄上に勝ってやる」
「……言ったな」
「言ったさ」
「楽しみにしてるよ」
オースティンの口元が、微かに緩んだ。
それは、レオンが初めて見る——兄の笑顔だった。
夕日に照らされたその笑顔を、レオンは生涯忘れないだろうと思った。
【続く】




