第70話 氷の迷宮
「これで終わりだ、レオン」
オースティンの手のひらで、炎が渦を巻いている。だが——彼はまだ攻撃を放っていなかった。
「……一つ聞かせろ」
オースティンは炎を消した。
「なぜ、そこまで足掻く? もう意味がないだろう。お前の魔力は枯渇し、体はボロボロだ。これ以上続けても、結果は変わらない」
オースティンは一歩近づいた。その目には、冷たさの中に僅かな感情が揺れていた。
「降参しろ、レオン。俺は……これ以上、お前を傷つけたくない。お前は俺の弟だ。同じ血が流れている。だから——」
「黙れ」
レオンの声が、低く響いた。
「……何だと?」
「黙れと言った。その上から目線——反吐が出る」
レオンは血に塗れた顔を上げ、オースティンを睨んだ。その目には、怒りと軽蔑が入り混じっていた。五年間、胸の奥に押し込めてきた感情が、今、堰を切ったように溢れ出そうとしていた。
「傷つけたくない? 笑わせるな、兄上。この五年間、エイドリアンが俺を殴っていた時——お前は何をしていた? 何もせず、黙って見て見ぬふり。俺が『出来損ない』と罵られ、使用人以下の扱いを受けていた時も、お前はただ傍観していただけだ。それで今更『傷つけたくない』だと? お前の優しさなんか、ただの自己満足だ。自分の手を汚さず、『優しい兄』でいたいだけだろう。偽善者面するな」
オースティンの表情が、僅かに強張った。レオンの言葉が、確実に彼の心に突き刺さっている。
「……そうか」
長い沈黙の後、オースティンは静かに言った。その声には、否定の色はなかった。
「否定はしない。お前の言う通りかもしれない。俺は何もしなかった。だが——この場では、俺が勝つ。過去がどうあれ、今ここでは、お前は俺に勝てない」
オースティンは再び炎を灯した。その炎は、先ほどよりも激しく燃え上がっている。
◆◇◆
「来い、兄上」
だが、レオンは血に塗れた顔で、不敵に笑った。
「まだ、始まったばかりだ」
オースティンは眉をひそめた。満身創痍のはずだ。蒸気爆発の衝撃を受け、体中に傷を負っている。それなのに、まだあの目には光が宿っている。折れない意志が、銀色の瞳の奥で燃え続けている。
(何を考えている……? あの状態で、まだ戦う気か……?)
「強がりを——」
オースティンが右手を上げた瞬間——レオンが動いた。
「フラッシュ!」
金色の閃光が、オースティンの目を焼いた。突然の眩い光に、オースティンは咄嗟に目を閉じた。わずか一瞬の隙。だが、その一瞬で——レオンの姿が消えていた。
「どこだ……!」
オースティンは目を開き、舞台を見渡した。レオンの姿はどこにもない。代わりに目に入ったのは——林立する氷柱の群れだった。オースティン自身が放ったアイス・ランスや、アイス・フィールドの余波で生まれた氷柱が、舞台のあちこちに突き刺さり、まるで氷の森を作り上げている。その中に、レオンが逃げ込んだのだ。
「隠れたか……小賢しい」
オースティンは舌打ちした。
◆◇◆
氷柱の影に身を潜め、レオンは荒い息を吐いた。全身が悲鳴を上げている。蒸気爆発のダメージは、想像以上に大きかった。ゴールデンフォームは半分剥がれ落ち、魔力も残り少ない。正面からぶつかっても、今の状態では兄には敵わない。
『小僧、大丈夫か? 顔色が悪いぞ』
オーグリの声が脳内に響いた。
(なんとか……でも、このままじゃ勝てない。何か手を考えないと)
『ならば、どうする? 逃げ回っても、いずれ追い詰められるぞ』
レオンは周囲を見渡した。氷柱が林立し、まるで迷宮のようだ。視界が遮られ、オースティンからは自分の姿が見えないはずだ。そして——氷の表面は、鏡のように光を反射している。
(これを使う。兄上の氷を、逆に利用してやる)
『ほう……面白いことを考えるな、小僧』
オーグリの声に、感心の色が混じった。
◆◇◆
「出てこい、レオン! 隠れても無駄だ! 全部溶かしてやる——」
オースティンは右手を上げ、炎を放とうとした。だが、途中で動きを止めた。
(くそっ……魔力が足りない……)
アイス・フィールドと、デュアル・テンペラチャーの連続使用。四つ星の魔力を大量に消費した結果、大範囲の攻撃を放つ余力は、もう残っていなかった。氷の森を一掃するほどの炎を出すには、魔力が足りない。
(レオンはそれを見越して、氷の森に逃げ込んだのか……? いや、考えすぎか。あの状態で、そこまで計算できるはずがない)
どちらにせよ——直接探しに行くしかない。
オースティンは一歩、氷の森に足を踏み入れた。左手には冷気を纏い、いつでも攻撃できる態勢だ。右手の炎は、魔力温存のために消している。周囲には氷柱が林立し、視界が遮られている。皮肉なことに、自分で作った氷の森が、今は自分の邪魔をしている。
(どこだ……どこに隠れている……)
足音を殺し、気配を探りながら進む。だが、レオンの姿はどこにもない。氷の森は、不気味なほど静かだった。自分の足音だけが、凍りついた舞台の上に響く。
その時——
シュッ!
金色の光線が、左から飛んできた。
「——!」
オースティンは咄嗟に身を捻った。光線が頬を掠め、赤い血が飛び散る。
「くそっ——!」
オースティンは光線が飛んできた方向を見た。そして即座に、左手を突き出した。
「アイス・ランス!」
氷の槍が、光線の発射点に向かって飛んでいった。
ガシャン!
氷の槍が氷柱を砕いた。だが——そこには誰もいなかった。
「……何だと?」
オースティンは眉をひそめた。確かに、あの方向から光線が飛んできた。なのに、誰もいない。
(どういうことだ……?)
◆◇◆
その時——また金色の光線が、今度は右から飛んできた。
「っ——!」
オースティンは咄嗟に身を捻った。光線が肩を掠め、服が焼け焦げる。
「どこから——!」
オースティンは光線が飛んできた方向を見た。やはり、誰もいない。氷柱があるだけだ。
シュッ!
また光線。今度は後ろから。
「くっ——!」
オースティンは横に飛んで避けた。
シュッ!
また光線。今度は斜め前から。
「がっ——!」
避けきれなかった。光線がオースティンの腕を掠め、赤い血が飛び散る。四方八方から、次々と光線が飛んでくる。だが、どこを見ても、レオンの姿はない。まるで幽霊と戦っているようだ。
「くそっ……何がどうなっている……!」
オースティンは周囲を見渡した。そして——氷柱の表面に目が止まった。透明な氷の表面が、周囲の光景を映している。鏡のように。
——反射だ。
オースティンは悟った。
(レオンは、氷を鏡にしてゴールデン・レイを反射させているのか……! 一箇所に隠れたまま、氷の反射を利用して、あらゆる方向から攻撃を仕掛けている。だから姿が見えない。だから攻撃がどこから来るか分からない。俺の氷を利用するとは……!)
「小細工を……!」
オースティンは歯を食いしばった。
◆◇◆
オースティンは深呼吸した。
(落ち着け……冷静に考えろ……)
(反射を利用しているなら、光線の軌道を逆に辿れば、レオンの位置が分かるはずだ。光は直進する。反射角度を計算すれば、発射点を特定できる)
オースティンは氷柱の配置を確認した。光線は左から来た。その前は右から。そして後ろから。それぞれの軌道を頭の中で描き、反射点を逆算していく。
(あのあたりか……)
オースティンは静かに移動を始めた。足音を殺し、気配を消す。氷柱の影に身を隠しながら、計算した位置に近づいていく。
そして——氷柱の向こうに、影が見えた。人の形をした、黒い影が。
(いた……!)
オースティンは左手に冷気を凝集させた。
「見つけた——!」
オースティンは氷柱を回り込み、影に向かってアイス・ランスを放った。
ガシャン!
氷の槍が、影を貫いた。だが——手応えがない。砕けた氷の向こうには、誰もいなかった。そこにはただの氷柱があるだけだ。
「……何だと?」
オースティンは目を見開いた。確かに影が見えた。人の形をした影が。
(まさか——影も反射……!?)
ゴールデン・レイだけでなく、自分の影すらも氷に反射させていたのか。光線で注意を引き、偽の影で誘い込む。二重の欺瞞。
その瞬間——背後から、風を切る音が聞こえた。
◆◇◆
オースティンは咄嗟に振り向いた。
レオンが、すぐ背後に迫っていた。いつの間に接近していたのか。その右拳には、残された魔力の全てを注ぎ込んだゴールデンフォームが纏われている。黄金の光が、拳を包み込むように輝いていた。
——最後の一撃。
レオンに残された、最後の切り札だ。
「いつの間に——!」
「ゴールデン——」
レオンは拳を振りかぶった。全身の力を込め、オースティンの顔面目掛けて打ち込む。
「——パンチ!」
黄金の拳が、オースティンに向かって放たれた。至近距離。外しようがない。この一撃が当たれば、勝負は決まる。
——当たる!
オースティンの目が見開かれた。避ける時間はない。この距離では、どう足掻いても回避不可能だ。
だが——オースティンの体が、本能的に反応した。考えるよりも先に、体が動いていた。
ゴォッ!
全身から、凄まじい熱波が放たれた。
「ヒート・ウェーブ!」
「——!?」
レオンは目を見開いた。予想外の反撃だった。
黄金の拳が、熱波に阻まれた。ゴールデンフォームと灼熱の波動がぶつかり合い、一瞬拮抗する。レオンは歯を食いしばり、拳を押し込もうとした。だが——四つ星の魔力が込められた熱波が、二つ星のゴールデンフォームを押し切った。
拳を包んでいた黄金の光が、熱波に吹き飛ばされる。そして——
「がはっ——!」
熱波がレオンの体を直撃した。至近距離だった。避ける隙間もなかった。灼熱の衝撃がレオンの全身を焼き、その体を後方へと吹き飛ばした。レオンの体が、氷柱を何本もなぎ倒しながら、弧を描いて飛んでいく。
ドガァッ!
レオンは舞台の床に叩きつけられ、そのまま転がった。
◆◇◆
「がっ……はっ……」
レオンは地面に倒れたまま、咳き込んだ。口から血が溢れ、白い石畳を赤く染めていく。全身が焼けるように熱い。熱波の直撃で、最後のゴールデンフォームが完全に消え去っていた。もう、魔力は一滴も残っていない。
「……危なかった」
オースティンの声が聞こえた。足音が近づいてくる。レオンは顔を上げた。オースティンが、荒い息を吐きながら立っていた。彼もまた、消耗が激しいようだ。頬と腕には、ゴールデン・レイで負った傷がある。完全な無傷ではない。
「反射でゴールデン・レイを撃ち、俺の注意を引く。そして影も反射させ、俺を欺く。本体は背後から接近し、最後の一撃を狙う……二重の佯攻か」
オースティンは肩で息をしながら、感心したように言った。
「見事な策だった。正直、焦った。あの拳がまともに当たっていたら、俺も無事では済まなかっただろう」
「……」
「だが、詰めが甘かった。俺に近づきすぎた。至近距離なら、お前も俺の反撃から逃れられない」
オースティンは左手に冷気を集め始めた。白い霧が、その掌から立ち上る。
「終わりだ、レオン」
レオンは立ち上がろうとした。だが、体が言うことを聞かない。魔力は枯渇し、全身は傷だらけだ。指一本動かすのも辛い。
(くそっ……動け……動け……!)
「アイス・スピア」
オースティンが静かに呟いた。その瞬間、地面から無数の氷の槍が突き出した。
「がっ——!」
氷の槍が、レオンの体を次々と貫いた。肩。太腿。脇腹。鋭い氷が肉を裂き、鮮血が噴き出す。
「あ……ぐっ……!」
レオンは血を吐き、地面に崩れ落ちた。体のあちこちに氷の槍が突き刺さり、まるで針山に刺された人形のようだ。
◆◇◆
「レオン様!」
観客席から、ロキシーの悲鳴が響いた。
「レオン!」
エマも叫んだ。彼女の顔は蒼白で、今にも舞台に飛び出しそうだ。
闘技場は静まり返った。誰もが息を呑み、舞台の上の惨状を見つめていた。レオンは地面に倒れていた。全身から血が流れ、白い石畳を赤く染めていく。氷の槍が体のあちこちに突き刺さり、もはや立ち上がることすら不可能に見えた。
貴賓席で、セレリックは静かに舞台を見つめていた。その表情は動かないが、拳が白くなるほど握りしめられていた。クロード叔父も、唇を噛みしめている。
「これで終わりだ、レオン」
オースティンは冷たく言った。その声には、勝者の余裕があった。だが、どこか——空虚な響きも混じっていた。
オースティンは右手を掲げた。その掌に、炎が灯る。赤々と燃える炎が、氷の世界を照らし出した。
「お前は良く戦った。だが——所詮、二つ星は二つ星だ。四つ星には勝てない」
炎が、さらに膨れ上がる。
【続く】




