第61話 七つの舞台
演武場には、七つの舞台が設けられていた。
それぞれが十歩四方ほどの正方形で、白い石材を積み上げた壇の上に、防護結界の魔石が四隅に据えられている。一番舞台は大長老、二番は二長老というように、序列通りに長老が審判席につく。勝利すれば加点、敗北すれば減点。降参か気絶か、あるいは舞台からの落下で決着がつき、最終的な点数で順位が決まる仕組みだ。
七つの舞台のうち、既にいくつかで試合が始まっており、魔術の光や衝撃音が断続的に響いていた。観客席のあちこちから歓声が上がり、侯爵家の紋章旗が振られている。
だが——第一舞台の周囲だけは、異様な空気に包まれていた。
レオンがニコラスを倒した後、第一舞台は静まり返ったままだった。誰も、挑戦しようとしない。三つ星のニコラスが為す術もなく倒された光景は、控室で順番を待つ出場者たちの心に冷水を浴びせていた。書記官が羊皮紙とペンを手にしたまま、所在なげに誰かの名乗りを待っている。
「誰も行かないのか……?」
「行けるわけないだろ。ニコラスが一瞬で沈んだんだぞ」
「点数が欲しいなら他の舞台で稼いだ方がいい。あいつに突っ込むのは自殺行為だ」
大長老が、審判席で眉をひそめた。他の六つの舞台では次々と試合が消化されているというのに、第一舞台だけが凍りついたように動かない。しばらく控室の方を見つめていたが、やがて低い声で告げた。
「——挑戦者が出ないのであれば、くじ引きで対戦相手を決める」
その一言に、控室の空気が一瞬で変わった。
◇
書記官が竹筒を持って控室に入っていくと、中から悲鳴にも似た声が漏れてきた。
「嘘だろ、くじ引きかよ……」
「頼む、頼むから俺以外に当たってくれ……」
「おい、お前先に引けよ」「いやお前が先だろ」
もみ合うような物音がしばらく続いた後、書記官が戻ってきた。その後ろから、一人の少年が仲間に背中を押されるようにして姿を現した。
顔面蒼白だった。
トビー・セレストーム。傍系の少年で、二つ星初期。丸顔に黒い巻き毛、小太りの体型。年は十五。侯爵家では「災厄のトビー」として広く知られた男だ。昇級試験の日に限って腹を壊す。大事な模擬戦の前日に階段から転げ落ちる。演習中に自分の魔法が跳ね返ってきて自滅したこともある。何をやっても裏目に出る——そういう星のもとに生まれた男だった。
そして今日、よりにもよって、レオンとの対戦くじを引き当てた。
「なんで俺なんだよ……」
トビーは半泣きの顔で木札を睨んでいた。周囲の出場者たちの目には、同情と安堵が等分に浮かんでいる。自分じゃなくてよかった——あまりにも露骨な空気だった。
「ほら、行けよトビー。男だろ」
「お前の不運は今に始まったことじゃない。諦めろ」
仲間に背中を叩かれ、押し出されるようにして、トビーがよろよろと舞台の階段を上がってきた。一段登るごとに足が重くなっているのが、傍目にもわかる。
レオンは、その姿を見て思わず苦笑した。
◇
舞台の上で、二人は向かい合った。
トビーは構えを取ろうとしたものの、足の位置を三度ほど変えた挙句、どの構えにするか決まらないまま両手を中途半端に掲げていた。膝が震えている。目はうっすらと潤み、鼻の頭が赤い。
「試合開始! 致命傷を与えることは禁止だ!」
大長老の号令が落ちた。
「レオン、た、頼む……手加減してくれ……」
トビーは構えたまま情けない声を絞り出した。あまりにも率直な懇願に、観客席から小さな笑いが漏れる。
「……善処する」
レオンは溜息をついた。この状況で殺気を保てという方が無理だった。
「じゃ、じゃあ行くぞ! 行くからな!」
トビーは腹を括ったように叫ぶと、拳に淡い茶色の魔力を纏わせた。土系の初歩魔法——拳を硬化させて正面から突っ込む。単純な技だが、二つ星初期の実力で取れる戦術としては妥当だろう。少なくとも、逃げずに正面から向かっていく度胸だけはあった。
「おおおお——!」
雄叫びと共にトビーが突進した。見た目に反して足は意外と速い。丸い体が砲弾のように真っ直ぐ飛んでくる。
だが——レオンの方が、圧倒的に速かった。
一歩。たった一歩の踏み込みで、舞台の端から中央までの距離を瞬時に詰めた。足元の石畳に僅かなひびが走る。七年間鍛え続けた体術が生み出す、爆発的な加速。
「プッシュ・パーム」
金色の光が右掌に凝縮し、トビーの胸に触れた。
ただし——力は大幅に抑えていた。本来のプッシュ・パームなら内臓を揺さぶり一撃で戦闘不能にできる。だがレオンが放ったのは、表面の衝撃だけを伝え、体の内部へのダメージを最小限に留める一打だった。全力で叩くよりも、むしろ遥かに繊細な制御を必要とする打ち方だ。
トビーの体が後方に吹き飛ばされた。まるで見えない巨人に突き飛ばされたように両足が地面を離れ、宙を舞い——舞台の端で、ちょうど止まった。仰向けに倒れ、大の字になって空を見上げている。
落ちていない。レオンが、飛ばす距離まで計算していたのだ。
「……い、生きてる? 俺生きてるよな……?」
トビーは仰向けのまま、自分の体をぺたぺたと触った。胸は痛いが、骨は折れていない。内臓も無事らしい。
「降参します!」
即座に右手を上げた。その潔さだけは実に見事だった。
「勝者——レオン・セレストーム!」
大長老が勝者を告げると、まばらな拍手が起きた。結果は誰もが予想していた試合だ。だが——その中に、別の種類の感嘆が混じっていた。
「あいつ……手加減したな」
「ああ。舞台から落ちないように、吹き飛ばす距離を調整していた。あの精度で力を抑えるのは、全力で殴るよりずっと難しいぞ」
「出来損ない——いや、もうそうは呼べないな。末恐ろしい男だ」
◇
レオンは、倒れたままのトビーに手を差し伸べた。
「大丈夫か」
「あ、ああ……死ぬかと思った……」
トビーはレオンの手を掴んで立ち上がり、胸をさすりながら涙目のまま言った。
「お前、めちゃくちゃ手加減してくれただろ。わかるよ俺だって。……ありがとな」
「気にするな」
「今度メシ奢る。命の恩人だ。マジで」
トビーは大真面目な顔で言い切ると、よろよろと舞台を降りていった。階段の途中で案の定つまずきかけたが、手すりを掴んでなんとか持ちこたえた。観客席から小さな笑い声が漏れる。
控室に戻ったトビーを、仲間たちが駆け寄って囲んだ。
「おい、大丈夫か!」
「生きてる……生きてるぞ俺は……」
「よかったな。レオンが優しい奴で」
「優しいっていうか怖いんだよあいつ。触られた瞬間、何が起きたかわからなかった。気づいたら空飛んでた」
その言葉に、控室の空気がさらに重くなった。次にくじを引き当てるのは自分かもしれない——その恐怖が、全員の顔に浮かんでいた。
レオンは舞台の中央に戻り、静かに腕を組んだ。風が銀色の髪を揺らす。
◇
一方——第三舞台では、まるで別の世界のような空気が張り詰めていた。
第一舞台の喧騒とは対照的に、第三舞台の周囲には、針を落としても聞こえそうなほどの静寂が漂っている。観客席の一角が不自然なほど静かだ。全員が息を殺して、舞台の上を見つめていた。
オースティン・セレストーム。
本家の三男にして、レオンの異母兄。赤い髪が風に揺れ、青い目は冷たく正面を見据えている。四つ星初期——侯爵家の同世代において、文句なしの最強。魔力値156は、エイドリアンの140を大きく引き離し、他の追随を許さない。
だがオースティンの恐ろしさは、魔力値だけではなかった。この男には、無駄がない。動きにも、言葉にも、表情にも。必要なもの以外の一切を削ぎ落とし、感情を見せず、弱みを晒さず、常に最小限の力で最大限の結果を出す。天才という言葉すら、この男の前では陳腐に聞こえた。
彼の前に立っているのは、傍系の少年だった。二つ星後期の実力者で、短く刈り込んだ黒髪に日焼けした肌。体は鍛えられており、構えもしっかりとしている。傍系の中では上位に食い込む力があった。
だが——相手が悪すぎた。少年の額にはじっとりと汗が浮かび、開始の合図を待つ間も、指先が微かに震えていた。オースティンは、そんな相手の緊張に一切関心を示さない。ただ静かに立ち、前を見つめている。まるで、これから始まるのが試合ではなく、日常の些事であるかのように。
「試合開始!」
三番目の長老が号令をかけた。
◇
傍系の少年は、即座に魔法を放った。先手必勝——格上の相手に対して取れる最善の策だと判断したのだろう。判断そのものは悪くない。
「アイス・アロー!」
少年の両手から青白い光が収束した。冷気が舞台の周囲に広がり、観客席の最前列にいた者たちの息が白くなる。光が凝縮し、硬質化していく——鋭く尖った氷の矢が三本同時に形成され、オースティンに向かって射出された。
氷系魔法としては上等な部類だった。矢の形成速度、飛翔速度、そして三本同時展開という制御力。あの少年が日頃から真剣に鍛錬を積んでいることが窺える。
だが——オースティンは、動かなかった。
構えすら、取らない。
腕を組んだまま、氷の矢が迫るのを見ている。まるで窓の外の雨を眺めるような目で。
氷の矢が迫る。あと三歩。二歩。一歩——
そして——
三本のアイス・アローは、オースティンの目の前で消えた。
融けたのではない。砕けたのでもない。文字通り、消失した。まるで最初から存在しなかったかのように、三本の氷の矢が同時に虚空に溶けた。後に残ったのは、わずかな水蒸気だけだった。舞台の周囲に漂っていた冷気が一瞬で消え去り、代わりに微かな熱の揺らぎが空気中に広がった。
「なっ——!?」
少年の顔が驚愕に歪んだ。目が見開かれ、口が半開きになる。自分の魔法が相手に届く前に消滅した——そんなことがあり得るのか。
観客席でも動揺の波紋が広がった。
「今の……何だ……?」
「アイス・アローが消えた……? 防いだんじゃなく、消えたぞ……」
「防御魔法を展開した様子もなかったのに……」
オースティンは、淡々と一歩踏み出した。
「無駄だ」
その声は冷たかった。感情がないのではない。相手に向ける感情そのものが、必要ないと判断しているのだ。
◇
少年は慌てて後退しながら、再び魔法を放った。顔には焦りが浮かんでいる。汗が顎を伝い、石畳に落ちた。
「アイス・ウォール!」
両手を地面に叩きつけると、轟音と共に、分厚い氷の壁が彼の前に現れた。高さは二メートル以上、厚さは拳三つ分。先ほどのアイス・アローよりも遥かに多くの魔力を注ぎ込んでいる。守りに徹する覚悟だった。攻撃が通じないなら、せめて時間を稼ぎ、隙を窺う——そういう判断だろう。
悪くない。少なくとも、パニックに陥らず次の手を打とうとしている。
だが——オースティンは止まらなかった。歩調を変えず、一定のリズムで、氷壁に向かって歩いていく。まるで壁など存在しないかのように。
アイス・ウォールが——同じように、消えた。
オースティンが壁に触れる前に、氷の表面に無数のひびが走った。ひびから白い蒸気が噴き出し、壁全体が内側から崩壊していく。分厚い氷が、紙のように脆く崩れ去った。
水蒸気の霧が舞台を覆い、一瞬、視界が白くなった。
だが、霧が晴れた時——オースティンの姿が、少年の目の前にあった。いつの間に距離を詰めたのか。霧の中を、音もなく、正確に、相手の位置へ一直線に踏み込んでいた。
手刀が、少年の首筋に叩き込まれた。鋭く、正確に、急所を打つ。必要最小限の力で、必要最小限の箇所を——一切の無駄がない、完璧な一撃だった。
短い呻き声と共に少年の目が白くなり、膝から力が抜けた。糸の切れた人形のように、そのまま石畳に崩れ落ちる。
気絶していた。
オースティンは倒れた少年を一瞥し、すぐに視線を外した。そこに勝者としての高揚も、相手への侮蔑もない。ただ——終わった。それだけだ。
◇
「勝者——オースティン・セレストーム!」
三番目の長老が勝者を告げた。
試合時間——わずか数秒。アイス・アローを放ち、消され、アイス・ウォールを築き、消され、気絶するまで。その全てが、瞬き数回分の時間に収まっていた。
観客席がざわめいた。第一舞台でのレオンの勝利とは種類の違う、畏怖に近い震えが場内を包んでいく。
「やはり、四つ星初期は格が違う……」
「格が違うとか、そういう次元の話じゃないだろ。あのアイス・アローもアイス・ウォールも、傍系の中じゃ十分な威力だった。それが触れもせずに消えたんだぞ……」
「しかも最後は体術だ。手刀一発で気絶させるなんて、魔法だけじゃなく身体能力もおかしい……」
「さすが本家の三男だ……。あれと同じ舞台に立つ奴は、地獄だな」
「エイドリアンが怪我していなくても、あいつには勝てなかったんじゃないか……?」
その最後の言葉に、誰も反論しなかった。
貴賓席で、エイドリアンの拳が白くなるほど握りしめられていた。だがそれに気づく者はいない。全員の視線が、第三舞台に釘付けだった。
◇
オースティンは表情一つ変えずに舞台を降りた。階段を下りる足取りも平時と変わらず、息一つ乱れていない。あの戦いが、この男にとっては日常の延長でしかないことを、その姿が雄弁に語っていた。
その目が、ふと——第一舞台の方を向いた。
レオンが、静かに立っている。銀色の髪が風に揺れ、金色の光の残滓がまだ僅かに掌の周囲に漂っていた。
二人の視線が、交差した。
オースティンの目には、怒りも敵意も嘲りも浮かんでいなかった。ただ——僅かな興味だけが、その青い瞳の奥に潜んでいるように見えた。それは、エイドリアンに対して向けていた「無関心」とは、明確に異なるものだった。
オースティンは、レオンを——見ていた。
視線はすぐに外された。オースティンは何事もなかったかのように歩き出し、控室の方向へ消えていった。
◇
レオンは、オースティンの背中を見送った。
アイス・アローの消滅。アイス・ウォールの崩壊。音もなく距離を詰める足運び。手刀の正確さ。そのすべてが、目に焼きついている。
あれが——侯爵家最強の同世代。魔力値156の、本物の天才。
レオンの現在の魔力値は125。数字だけで見れば、31の差がある。だが数字の差以上に、あの男の戦い方には隙がなかった。
第一舞台の周囲で、書記官が再び竹筒を手にする気配があった。次の対戦者を決めるくじ引きだ。
レオンは意識を切り替え、正面を向いた。
家族魔闘会は、まだ始まったばかりだ。
【続く】




