第59話 姉の矜持
舞台の上で、ニコラスは仰向けに倒れたまま動けなかった。
胸が焼けるように痛い。内側から押し潰されているような、鈍く重い痛みだ。息を吸うたびに肋骨が軋み、吐くたびに喉の奥から錆びた血の味が込み上げてくる。
何度も起き上がろうとした。だが、そのたびに胸の中央で鋭い痛みが走り、体が崩れ落ちた。
——俺は、負けたのか。あの「デキソコナイ」に。たった二撃で。
屈辱が、痛みよりも深く、胸を抉った。
◆
高台の上で、二長老は枯れた手のひらを高く掲げ、試合終了を宣告しようとした——が、その手が中途半端な位置で止まった。
白い眉の下で、皺だらけの目が見開かれていた。
(……二撃だと?)
三十年以上にわたり、この演武場で数え切れぬほどの試合を見てきた。才能ある者同士の激突も、格上が格下を圧倒する一方的な展開も、何度も見てきた。
だが——これほどの力の差を、この少年に見せつけられるとは。
二長老の目が、舞台の中央に立つ黒髪の少年を射抜いた。
(ニコラスは、若い世代の中でも上位に位置する実力者だ。薫儿を除けば、同世代で彼に勝てる者はほとんどいない。それを、たった二撃で……)
掲げた手が、かすかに震えていた。
(この少年——七年前に魔力を失い、「デキソコナイ」と呼ばれ続けていた者が、これほどの力を秘めていたとは……一体、この七年の間に何があった?)
二長老は深く息を吐き、震える手をようやく振り下ろした。
「——試合終了! 勝者、レオン・セレストーム!」
その声が演武場に響き渡った瞬間——一つの影が、軽やかに舞台に飛び上がった。
◆
足が石畳に触れた時、ほとんど音がしなかった。
ソフィア・セレストーム。十六歳。セレストーム家の嫡流の長女であり、女子の部では三年連続優勝を誇る天才だ。栗色のツインテールが風に揺れ、琥珀色の瞳には怒りと呆れが入り混じっていた。
彼女は倒れている弟を見下ろし、深い溜息をついた。
「まったく……何をやっているの、このバカ」
「姉……上……すまな——」
「黙りなさい」
ソフィアは冷たく言い放ち、弟の襟を掴んで強引に引き起こした。ニコラスの体重は彼女より重いはずだが、眉一つ動かさない。さすがは女子の部の三連覇——その細い体には、見た目以上の力が宿っている。
弟を肩に担ぎ上げながら、琥珀色の瞳がゆっくりとレオンを捉えた。
◆
レオンは、舞台の中央に静かに立っていた。両手は自然に体の横に下ろされ、呼吸も乱れていない。まるで散歩の途中で足を止めただけのような自然体だった。
淡々とした碧い目には、嘲笑も軽蔑も勝者の驕りもない。ただ——静かな無関心だけがあった。
それが、ソフィアには余計に腹立たしかった。
「ふん、レオン。まさかお前がここまで復活できるとはね。七年間も『デキソコナイ』と呼ばれていた者が、ニコラスを二撃で倒すとは——驚いたわ」
褒めているようで、過去の屈辱を突きつける言葉だった。
だが、レオンは鼻を軽く掻きながら穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、ソフィア姉上。お褒めの言葉、光栄だ」
「……何ですって?」
皮肉を言ったつもりだった。少しでも動揺させるつもりだった。なのに——礼を言った?
ソフィアはしばらくレオンを睨みつけた。琥珀色の瞳が碧い瞳とぶつかる。だが、レオンの目は動じない。まるで何も聞こえていないかのように、穏やかに微笑んでいる。
背筋に、ぞわりとしたものが走った。この小僧の心が、全く読めない。
「……いいわ。口先だけなら誰でも余裕を装える」
ソフィアは一歩前に出た。琥珀色の瞳が、獲物を見定める猛禽のように鋭く光る。
「レオン。私と戦いなさい」
観客席がざわめいた。女子の部三連覇の天才が、直接挑戦を申し込んだ。
レオンは少しだけ目を瞬かせた。そして——肩をすくめた。
「ソフィア姉上。確か、この大会は男女別々だったと思うが?」
淡々とした声。だが、どこかに揶揄うような色があった。
「対戦表を見れば分かるだろう? 俺たちが戦う枠は、残念ながら用意されていない」
ソフィアの眉が、ぎゅっと寄った。正論だ。だが、その正論が——挑発のように聞こえた。
「分かっているわよ、そんなこと。なら——大会が終わった後よ。全ての試合が終わった後、改めてお前に挑む。逃げないでしょうね?」
レオンはその視線を正面から受け止め、数秒の沈黙の後、穏やかに微笑んだ。
「いいだろう。受けて立つよ。ただし——まずは四連覇を決めてからにしてくれ。姉上が大会で負けて、その憂さ晴らしに俺と戦いたいなんて言われたら、少し困る」
沈黙。観客席が息を呑んだ。穏やかな声で包んではいるが、意味は明白だ——『まさか四連覇もできないんじゃないだろうな?』
ソフィアの顔が紅潮した。プライドを真正面から突かれた衝撃。
「……言ってくれるじゃない。四連覇した後、その生意気な口を叩けなくしてあげる」
踵を返し、弟を担いだまま舞台を降りていく。その背中は怒りに燃えていた。
◆
舞台の上で、レオンは静かに立っていた。去っていくソフィアの背中を、碧い瞳が見つめている。
『なかなかの切れ者だな、あの女』
オーグリの声が脳裏に響いた。
『お前の本心を探ろうとしていた。気づいていたか?』
「分かっている。だから、何も見せなかった」
『ふむ……で、あの姉の方はどうする?』
「ソフィア姉上は、ニコラスやエイドリアンとは違う。俺を虐めたわけじゃない。ただ無視していただけだ。だから敵に回す必要はない。だが——向こうから来るなら、受けて立つだけだ」
『悪くない判断だ。だが、油断するな。あの女、お前を警戒し始めたぞ』
「分かっている」
観客席の隅で、エヴィルが銀色の長髪を風に揺らしながらレオンを見つめていた。翡翠色の瞳が僅かに潤んでいる。
(レオン兄さん……あの余裕で、ニコラスを倒したのね)
七年前の兄さんは、こんな目をしていなかった。嬉しい時は笑い、悲しい時は泣いた。だが今の兄さんの瞳は、古い井戸のように深くて底が見えない。
(でも——それでもレオン兄さんは、レオン兄さんだから)
細い手首で、淡い緑色の手鏈が揺れた。
◆
大長老が咳払いをした。
「……次の挑戦者は、いるか?」
沈黙。誰一人として挑戦しようとしなかった。ニコラスがたった二撃で倒されたという事実が、彼らの戦意を完全に打ち砕いていた。
「……では、レオン・セレストームは次の挑戦を待つこととする」
夕暮れ時の陽光に照らされ、レオンは舞台の上に一人で立っていた。長い影が伸びている。
七年間、蔑まれてきた。「デキソコナイ」と呼ばれ、嘲笑われ、無視され続けてきた。
だが今——誰も挑戦できない。誰も近づけない。
孤独ではなく、孤高。
その違いを、演武場の全員が痛いほど感じていた。
【続く】




