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錬金系の落ちこぼれ四男、辺境領主として無双する  作者: 穏やかな旅人


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番外 月下の邂逅

満月が近い夜は、体の奥が疼く。


シルはそれを、昔から知っていた。母の形見の玉石が温かくなる夜——胸の奥で何かが呼応するように脈打ち、眠れなくなる夜のことを。


今夜もそうだった。


レオン様は家族魔闘会の準備があるらしく、夕方から部屋に籠もったきりだ。ローシーには「今夜は少し遅くなる」とだけ伝言があった。エヴィルも自室に戻っている。


離れの屋敷は静まり返り、シルは一人だった。


寝台に横になってみたが、体の内側がざわめいて落ち着かない。玉石が鎖骨の下でじんわりと熱を持っている。


——ふと、数日前の会話が蘇った。


あの日、レオン様はシルを庭の木陰に連れ出し、並んで腰を下ろした。それだけで、シルは緊張していた。用事がある時、前のご主人様はいつも立ったまま命令を下した。並んで座るなどということは、一度もなかった。


「シル、少し話がある」


「は、はい……」


「お前はここに来て、しばらく経った。体の調子はどうだ?」


「おかげさまで……傷も、だいぶ……」


「そうか」


レオン様はしばらく黙って空を見上げていた。それから、不思議なことを言った。


「お前は、これからどうしたい?」


シルは意味が分からなかった。


「……どう、とは?」


「そのままの意味だ。何かやりたいことはあるか。学びたいこと、なりたいもの——何でもいい」


シルは目を瞬いた。こんなことを聞かれたのは生まれて初めてだった。奴隷に「やりたいこと」などあるはずがない。与えられた仕事をこなし、殴られないように息を潜め、一日でも長く生き延びる——それだけが全てだった。


「私は……奴隷ですから、ご主人様の命じることを——」


「主人と呼ぶなと言っただろう」


「あ……すみません、レオン様……」


「それと、俺はお前に何も命じない」


レオン様の声は穏やかだったが、揺るぎなかった。


「お前は奴隷だった。だが、これからどう生きるかはお前が決めろ。剣を学びたければ学べばいい。本を読みたければ読めばいい。何もしたくなければ、しばらく何もしなくてもいい。——自分で選べ」


シルは呆然としていた。


自分で選ぶ。その言葉が、頭の中で何度も反響した。まるで、知らない国の言葉を初めて聞いた時のように、音は分かるのに意味が追いつかない。


「……分かりません」


「うん」


「何をしたいか、分かりません。考えたことが、ないので……」


「それでいい」レオン様は立ち上がり、シルの頭にぽんと手を置いた。「分からないなら、ゆっくり探せ。時間はある」


その手の温もりが——シルには、まだ少し怖かった。


でも、嫌ではなかった。


——あの日から、シルはずっと考えていた。


自分は、何がしたいのか。


答えは出ない。出るはずもなかった。十年間、自分の意志など持つことを許されなかった人間に、突然「選べ」と言われても——


でも、一つだけ確かなことがあった。


満月の夜になると、玉石が温かくなる。胸の奥で何かが呼応する。あの夜、レオン様が月光にかざした時に見えた光と文字。頭に流れ込んできた、膨大な情報の断片。


第一刻印・心——生命力を強化し、傷の治癒を早める。


意味は完全には分からない。でも、体が覚えている。これが何なのかを知りたい。お母さんが残してくれたものの意味を、知りたい。


それが「やりたいこと」なのかどうかは分からない。


でも、今夜の月は——呼んでいる。

◆◇◆


シルは部屋を出た。


離れの裏手に小さな庭がある。手入れの行き届かない、雑草が膝まで伸びた庭だ。セレストーム家の本邸の庭とは比べるべくもないが、月光は分け隔てなくそこにも降り注いでいた。


草を踏む感触が裸足に冷たい。


庭の中央まで来て、シルは立ち止まった。月を見上げる。玉石を首から外し、両手で包み込んだ。


——お母さん、私はどうすればいいの?


答えはない。いつだってそうだ。


でも今夜は、少しだけ違った。


目を閉じた。


あの夜見た光の文字を思い出す。意味は分からなくても、形は覚えている。一画一画が、瞼の裏に浮かぶ。


呼吸を整えた。ゆっくりと、深く。


すると——胸の奥で何かが動いた。


玉石の熱ではない。もっと深い場所。心臓のすぐ傍で、微かな光が点るような感覚。月光が肌から染み込み、血管を通って心臓に集まっていくような——


「あ……」


シルは目を開けた。


両手の中の玉石が、淡く光っていた。同時に、胸の中心にも同じ光が灯っているのが分かった。微かで、頼りなくて、風が吹けば消えてしまいそうな光。でも確かに、そこにある。


第一刻印の、始まりだった。


嬉しくて、怖くて、手が震えた。


もう一度。もう一度、あの感覚を——


目を閉じ、呼吸を深くした。月光を吸い込むように。胸の中の光に意識を集中し——


——その時だった。


背筋に、冷たいものが走った。


野獣が茂みの気配を察するように——いや、それは野獣の感覚ではなく、もっと原始的な、血の奥底に刻まれた本能のようなものだった。


誰かが、見ている。


シルは目を開けた。手の中の光はすでに消えていた。心臓が早鐘を打っている。庭の周囲を見回したが、月明かりの下には雑草の影があるばかりだった。


だが感覚は消えない。針のように鋭い視線が、背中を貫いている。


「……だれ?」


声が震えた。


返ってきたのは——笑い声だった。


低く、静かで、風の中に溶けるような笑い声。嘲りではない。懐かしいものを見つけた時の、そんな響き。


「最初の呼吸で月を招くとは。筋はいい」


声は庭の隅の老木の方から聞こえた。


月光の中を、一つの影が歩み出てきた。


シルは息を呑んだ。


エルフだった。


長い銀髪が腰まで流れ、月の光を受けて霜のように輝いていた。白い外套が全身を包み、その下の肌は磁器のように白い。背は高く、痩身で、年齢は分からなかった。エルフの外見で年を測ることはできないが——目だけが、途方もなく古かった。深い翡翠色の瞳の奥に、何百年という歳月が沈んでいるようだった。


月雪の中から歩み出た純白の影のようだった。見る者を恥じ入らせるほどの、圧倒的な気品。


そしてその手に——小さな手が握られていた。


エルフの女の子だった。


白い衣に身を包み、銀色の髪が肩で揺れている。歳はシルと同じか、少し下だろうか。軽やかな雪の綿毛のような佇まい。だが何よりシルの目を引いたのは、その瞳だった。


澄んだ琥珀色。明るく、温かく、月光の下で宝石のように輝いている。シルが見たことのない色だった。


女の子はシルを見て、小さく首を傾げた。怖がる様子はない。むしろ——興味深げだった。


あの視線の圧迫感は、嘘のように消えていた。代わりにあるのは、不思議な穏やかさだった。波が引いた後の浜辺のような、静けさ。


シルは逃げなかった。逃げられなかったのではなく——逃げる必要がないと、体が判断していた。


「だが、呼吸の入りが浅い」


エルフは続けた。まるで、先ほどの修練を最初から見ていたかのように。


「月光は吸い込むものではない。迎え入れるものだ。扉を開けて、客人を招くように。力めば月は遠ざかる。水面が静かなほど、月影は深く映る」


シルは呆然と立ち尽くしていた。この人は、自分が何をしていたか知っている。《月虹の刻印》のことを。


「あなたは……」


「お前の首のそれを見せてごらん」


エルフが指したのは、シルの手の中の玉石だった。


シルは——レオン様の言葉を思い出した。誰にも見せるな、と。


手を握りしめ、首を横に振った。


「見せられません」


「ほう?」


エルフは驚いたようだったが、怒りはなかった。むしろ、その翡翠の目に浮かんだのは——感心に近いものだった。


「誰に言われた?」


「……大切な人に」


シルは自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。大切な人。あの日、「自分で選べ」と言ってくれた人。まだ怖くて、まだよく分からないけれど——大切な人。そう呼んでいいのだと、今、初めて思った。


エルフはしばらくシルを見つめていた。それから、微かに目を細めた。笑ったのかもしれない。


「ならば、見せずともよい」


あっさりと引き下がった。だが、その目は玉石を握りしめたシルの手をじっと見つめていた。見えないはずなのに、すべて見透かしているような目だった。


「私はお前のことを知らない」エルフは穏やかに言った。「だが、その石のことは知っている。一生忘れることのできない光だ」


シルの手が震えた。


「それを……知っているのですか?」


「遠い昔、あの光のそばにいたことがある」


エルフの声が変わった。真剣さを超えて、敬虔で——そしてかすかに悲しげだった。老木の幹に手を触れるような、慈しみと喪失が入り混じった声。


「月虹が最後に架かった夜のことを、私はまだ覚えている」


エルフは目を閉じた。


「あれはまさに——世界がもう少しだけ美しかった頃のことだ」


傍らの女の子が、黙ってエルフの外套の裾を握った。小さな手が、まるで老人を慰めるように。


その言葉の意味を、シルは理解できなかった。


でも、胸が痛んだ。この人の声が纏う悲しみが、自分の知らない何かを悼んでいることだけは分かった。


「あの……」


「一つだけ教えておこう」エルフはシルの目を見た。翡翠の瞳が月光を受けて、一瞬だけ金色に見えた。「第一刻印は心に刻む。だが、心とは臓腑のことではない」


シルは瞬きをした。


「お前がいま守ろうとしたもの——『大切な人』との約束を守ろうとしたその気持ち。それこそが心だ。刻印が求めているのは、それなのだよ」


シルは言葉を失った。


「今夜のことは誰にも言う必要はない」エルフは踵を返した。「お前の『大切な人』にも、な」


白い外套が翻った。傍らの女の子がついていこうとして——ふと立ち止まり、振り返った。


琥珀色の瞳がシルを見た。


笑った。


ただそれだけだった。言葉はなかった。だがその笑顔は、宝石が光を弾くように鮮やかで、シルの目に焼きついた。見たことのない色。見たことのない笑顔。


女の子は小さく手を振ると、エルフの後を追って歩き出した。


「待ってください!」


シルは思わず声を上げた。こんなに大きな声を出したのは、いつ以来だろう。


「あなたの名前は……!」


エルフは足を止めなかった。だが振り返らないまま、風に紛れるような声で答えた。


「名前など、とうに月に返した」


一歩、また一歩。二つの白い影は老木の影に差しかかり——気がつくと、そこには誰もいなかった。最初からいなかったかのように、庭には月光と雑草の影だけが残されていた。


シルは立ち尽くしていた。


夢だったのかもしれない。月の光に当てられて見た幻かもしれない。


だが——胸の奥の光は、さっきよりも確かに灯っていた。


そして、あの琥珀色の瞳が——まだ、瞼の裏から消えなかった。


玉石を胸に抱きしめる。母の温もりに似た、柔らかな熱。


——心とは、臓腑のことではない。


その言葉だけが、月明かりのように、消えずに残っていた。


◆◇◆


シルは裸足のまま部屋に戻り、寝台に潜り込んだ。目を閉じると、翡翠色の瞳と、琥珀色の瞳が、交互に浮かんだ。


あの人は、お母さんを知っていたのだろうか。


あの女の子は、何者だったのだろう。


答えの出ない問いを抱えたまま、いつの間にか眠りに落ちた。


翌朝、レオン様が戻ってきた時——シルの顔色が昨日よりほんの少しだけ良くなっていることに、ローシーだけが気づいた。

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