第50話 ムーンウェル
月が高く昇り、星が輝いている。
レオンとアレンは、クロード叔父の部屋を出て、離れへと戻る道を歩いていた。
夜風が冷たく、二人の吐く息が白く染まる。アレンの聖都への出発まで、あと二週間。家族魔闘会を見届けてから旅立つことになった。
「アレン、ありがとうな」
しばらく黙って歩いた後、レオンが口を開いた。
「……何がですか、兄上?」
「大祭司様に、俺も一緒に弟子にしてほしいと頼んでくれただろう。あれは本当に俺が望んでいたことではなかったが、お前のあの気持ちは嬉しかった」
アレンは軽やかな足取りで歩きながら、嬉しそうに笑った。まだ十歳の幼い体だが、その目には不思議な聡明さが宿っている。
「俺は何もしてませんよ。大祭司様は最初から、兄上のことも気にかけていたんです」
「ああ? どうしてそう思う?」
アレンは振り返り、不思議そうな顔でレオンを見た。
「兄上、気づかなかったんですか? クロード叔父上の秘籍、最初から二つ用意されていましたよね」
そうだ! なぜ気づかなかった!
レオンは目を見開いた。確かに、クロード叔父は最初から二つの巻物を持っていた。つまり、アレンが頼む前から、自分にも何かを授けるつもりだったのだ。
レオンは弟を上から下まで見つめた。この子、見た目より鋭いのか?
アレンは兄に見つめられて少し落ち着かない様子になり、首を縮めて言った。
「兄上、俺、兄上のお菓子を盗み食いしてませんよ」
は?
レオンは目を細めた。そういえば、この前、ローシーが準備してくれた干し果物が減っていたような……気のせいだと思っていたが。
——こいつ、本当に正直だな。
アレンが数歩後退したのを見て、レオンはため息をついた。
「まあいい。お前は今、魔力回路を開く大事な時期だ。栄養が必要だろう」
「うん!」
アレンは遠慮なく素直に頷いた。
話している間に、二人は離れの近くまで戻ってきた。振り返ると、いくつかの部屋にはまだ明かりが灯っており、軒先の氷柱が月明かりを受けて輝き、透き通っていながらも、どこか寒々としていた。
◆◇◆
「叔父上、俺をどこへ連れて行くのですか?」
翌日の早朝、レオンはクロード叔父に連れられて館の裏手へと向かった。
クロードのマントが風に軽くなびき、前方を見据えながら言った。
「お前に見せたい場所がある。『閃光』の修行に最適な場所だ」
「はい、叔父上」
「昨夜、『閃光』の秘籍は熟読したか?」
「はい、三回通読し、試し始めました」
レオンは正直に答えた。
クロードは軽く頷いた。
「よし。ついてこい」
そう言うと、クロードは突然しゃがみ込んだ。
「乗れ」
「え?」
「道のりは遠い。お前の足では時間がかかりすぎる」
レオンは少し戸惑ったが、言われるままにクロードの背中に乗った。
次の瞬間——
ヒュンッ!
景色が一気に流れ始めた。
「っ……!」
レオンは思わず目を見開いた。
速い。恐ろしく速い。
木々が後方へ飛んでいく。風が顔を打つ。まるで矢のように、クロードは山道を駆け抜けていた。
「これが……騎士の脚力……!」
レオンは驚愕した。
十二年間、セレストーム家で暮らしてきたが、こんな速度で走る人間を見たことがなかった。父カッセルリックは魔法師であり、身体能力はそこまで高くない。だが、クロード叔父は違う。王国騎士団に所属する戦士だ。
『ふむ、なかなかの脚力だ。少なくとも五つ星級の身体強化を施している』
オーグリが脳内で呟いた。
『騎士というのは、魔法師とは違う道を歩む者だ。魔力を外に放出するのではなく、己の肉体に宿らせ、身体能力を極限まで高める。このクロードという男、かなりの使い手だな』
十分ほど走っただろうか。
クロードは山の奥深くで足を止めた。
「着いたぞ」
レオンは背中から降り、周囲を見渡した。
目の前には、岩に囲まれた小さな洞窟の入り口があった。苔むした岩肌に、かすかに光る紋様が刻まれている。
「ここは……」
「アシュモア家に代々伝わる秘密の修行場だ」
クロードは淡々と言った。
「『グロット・オブ・フロスト』——霜の洞窟。その奥に、『ムーンウェル』と呼ばれる泉がある」
「ムーンウェル……」
「姉上——お前の母上も、かつてここで修行した」
レオンは息を呑んだ。
母上が……?
◆◇◆
洞窟の中に入ると、気温が急激に下がった。
吐く息が白くなる。
「寒い……」
レオンは思わず身震いした。
壁には無数の光苔が張り付いており、淡い青白い光を放っている。まるで、洞窟の中に星空が広がっているかのようだった。
「綺麗だ……」
レオンは思わず呟いた。
さらに奥へ進むと、やがて大きな空間に出た。
そこには——
「これは……」
レオンは息を呑んだ。
巨大な泉があった。
水面は鏡のように静かで、深い藍色に輝いている。まるで夜空を映し出しているかのようだ。泉の底から、淡い銀色の光が揺らめいていた。
「これがムーンウェルだ」
クロードは言った。
「この泉の水は、他のどこよりも冷たい。だが、不思議な力を秘めている」
レオンは泉を見つめた。確かに、ただの冷たい水とは違う気配がある。
「姉上は幼い頃、偶然この場所を見つけた。以来、ここで修行を重ねた。この泉に浸かった後は、不思議と精神が研ぎ澄まされ、集中力が増すと言っていた」
クロードは続けた。
「もっとも、泉の水だけでは、目に見える効果は薄い。だが——」
クロードは懐から、小さな瓶を取り出した。
「これと組み合わせれば、話は別だ」
レオンは瓶を受け取った。
淡い緑色の液体が入っている。
「これは……!」
レオンは目を見開いた。
見覚えがある。いや、見覚えどころではない。
——エーテル液!
あの競売の時、自分が出品した品だ。結局、高値がつきすぎて、誰かに落札された。その時は、誰が買ったのか分からなかった。
だが、今——
「父上から預かった」
クロードは言った。
「お前に渡してくれと」
——やはり、そうだったのか。
レオンは瓶を握りしめた。
あの時、エーテル液を落札したのは父だったのだ。自分が出品した品を、父が買い戻し、そして今、自分の手に戻ってきた。
父上は、ずっと自分のことを見ていてくれたのだ。
『ふむ、なかなか面白い巡り合わせだな』
オーグリが脳内で呟いた。
『お前が出品し、父親が買い戻し、そして今、修行のためにお前の手に戻る。まるで運命のようだ』
「このエーテル液をムーンウェルに注げ」
クロードは説明した。
「エーテル液の成分が泉の水に溶け込み、お前が水に浸かっている間、肌から直接魔力回路に吸収される。ムーンウェルの冷気で回路を活性化させながら、エーテル液で損傷した回路を修復する。通常の修行の倍以上の効果が得られるはずだ」
『なるほど、理にかなっている』
オーグリが感心したように呟いた。
『ムーンウェルの冷気とエーテル液の相乗効果か。この場所を知っているとは、アシュモア家もなかなか侮れんな』
クロードはムーンウェルを見つめながら、ふと呟いた。
「正直に言おう。姉上がなぜ、カッセルリックと結婚したのか……俺には未だに分からない」
「……」
レオンは黙った。
「姉上は、アシュモア家の誇りだった。美しく、聡明で、魔法の才能にも恵まれていた。なのに、選んだのはセレストーム家の三男坊だった」
クロードは苦々しげに言った。
「家督を継ぐ見込みもない、平凡な男だ。俺もエドワードも、反対した」
「……」
「だが、姉上は聞かなかった。結局、俺たちは折れた。姉上の幸せを願ってな」
クロードはため息をついた。
「まあ、今となっては詮無いことだ。それより——」
クロードはレオンの肩に手を置いた。
「お前は姉上によく似ている。その蒼銀の髪、その目、そして——諦めない心」
「叔父上……」
「二週間後の家族魔闘会、必ず勝て。姉上の息子が、『出来損ない』などと呼ばれたままでいることは許さん」
レオンは深く頷いた。
「はい、叔父上」
◆◇◆
クロードが去った後、レオンは一人、ムーンウェルの前に立った。
「さて……」
エーテル液の瓶を開け、泉に注ぎ込む。
淡い緑色の液体が、藍色の水面に広がっていく。一瞬、水面が淡く輝いた。
「よし」
上着を脱ぎ、ゆっくりとムーンウェルに入る。
「っ……!」
思わず声が漏れた。
冷たい。だが、ただの冷たさではない。エーテル液が溶け込んだ水が、肌を通して体内に染み込んでくるような感覚がある。魔力回路が、じんわりと温かくなっていく。
『これは……なかなかの霊地だな』
オーグリが感心したように言った。
『ムーンウェルの冷気とエーテル液が混ざり合い、お前の体に直接作用している。この環境で修行すれば、確かに効率は大幅に上がるだろう』
レオンは泉の中央まで進み、腰まで水に浸かった状態で座り込んだ。
不思議な感覚だった。
体は冷たいのに、内側から温かさが広がっていく。精神が研ぎ澄まされ、意識が鮮明になる。まるで、世界の全てが鮮やかに見えるような——
——これが、ムーンウェルの力か。
『よし、始めるぞ。閃光の心法を運転しろ』
「分かった」
レオンは目を閉じ、意識を集中させた。
ムーンウェルの冷気が体を包む。
エーテル液の成分が、皮膚から魔力回路に染み込んでいく。
二つの力が、体内で融合していく。
『いい感じだ。その調子で、光を練り上げろ』
オーグリの声が導く。
レオンは手のひらに意識を集中させた。
魔力が集まる。
光が——
パァッ!
淡い光が、手のひらの上に浮かび上がった。
まだ弱々しいが、確かに——閃光の原型だ。
『初日でここまでできれば上出来だ。この調子なら、二週間で実戦レベルに到達できるかもしれん』
レオンは目を開け、手のひらの光を見つめた。
【続く】




