第45話 争奪
A級スキル書。
その四文字が出た瞬間、競売会場は水を打ったように静まり返った。
先ほどのエーテル液と比べ、スキル書が引き起こす衝撃は、遥かに大きかった。
エルザ大陸において、スキル書は魔法師にとって最も重要な財産の一つだ。
魔法師の強さは、星級だけでは決まらない。同じ四つ星の魔法師でも、習得しているスキルの質と量によって、実力は天と地ほどの差が生まれる。
スキル書には、D級からS級までの等級がある。
D級スキル書は、最も一般的なものだ。街の書店でも購入でき、価格は数十金貨から百金貨程度。基礎的な攻撃魔法や防御魔法が記されており、一つ星から二つ星の魔法師が学ぶのに適している。
C級スキル書は、やや希少だ。専門の魔法具店や競売でしか手に入らず、価格は五百から数千金貨。中級の魔法が記されており、三つ星から四つ星の魔法師向けだ。
B級スキル書になると、希少性は格段に上がる。年に数回、大規模な競売でしか出品されず、価格は一万から五万金貨。上級の魔法や複合技が記されており、五つ星以上の魔法師でなければ習得できない。
そしてA級スキル書——これは、もはや別格だ。
オルハイム王国全土で、年に一度か二度しか市場に出回らない。価格は十万金貨を軽く超え、時には小国の年間予算に匹敵することさえある。
A級スキル書に記された魔法は、戦場の趨勢を一変させる力を持つと言われている。六つ星以上の大魔法師でなければ扱えず、一つのA級スキルを習得した者は、それだけで「国宝級」と呼ばれる。
千年前の古代においては、A級スキルを持つ魔法師一人で、小国を滅ぼすことも可能だったという。だが、千年の時を経て、国家の規模は遥かに大きくなった。今のオルハイム王国やアルヴァイン帝国のような大国を滅ぼすには、A級スキルを持つ魔法師が数十人は必要だろう。
それでも、A級スキルの価値は変わらない。一人のA級魔法師がいれば、戦争において一つの軍団に匹敵する戦力となる。貴族や王室がA級スキル書を血眼になって求めるのは、そのためだ。
オルハイム王国には、現在A級スキルを習得した魔法師が十人もいないと言われている。その全員が、王宮や大貴族に仕える最高位の魔法師たちだ。
そしてS級——これは伝説の領域だ。百年に一度、現れるかどうか。大陸全土の歴史を紐解いても、S級スキル書が確認された記録は片手で数えられる程度しかない。S級スキルを持つ者は、たった一人で大陸の歴史を塗り替える力を持つと言われている。
今、目の前にあるのは、そのA級スキル書だ。
魔薬は確かに貴重だが、一度使えば終わりだ。だがスキル書は、一生使える。さらには、子孫にも伝承できる。
ある意味では、高等級のスキル書は、魔薬よりも人を狂わせる。
スキル書さえあれば、魔薬の支援がなくとも、いずれは強者になれる。だがスキル書がなければ、たとえ魔薬を豆のように食べ続けても、真の強者にはなれない。
衝撃から我に返った者たちが、次々と顔を上げた。熱のこもった視線が、台上の巻物に釘付けになっている。あの妖艶なベアトリスでさえ、この瞬間は忘れ去られていた。
後方の目立たない席で、レオンは静かに息を吐いた。
「A級スキル書か……」
『エレメンタル・フュージョン——複合属性魔法の極意だな』
オーグリが脳内で呟いた。
『火と氷、風と雷……本来なら相反する属性を融合させる技だ。習得すれば、戦闘の幅が格段に広がる。A級の中でも、上位に位置するスキルだ』
「それほどのものか」
『ああ。千年前でも、A級スキル書は国宝扱いだった。今日ここにいる連中が血眼になるのも、無理はないな』
レオンの視線が、前方の父に向いた。
カッセルリック・セレストームの目は、静かに巻物を見据えている。その瞳の奥には、隠しきれない欲望の炎が揺れていた。
◆◇◆
「皆様、このスキル書は、北方の古代遺跡から発掘されたものでございます。由来は正当であり、王国の魔法省にも届け出済みでございます。安心してお買い求めくださいませ」
ベアトリスが巻物を両手で捧げ持ち、にっこりと微笑んだ。紫紺のドレスの袖が揺れ、銀糸の刺繍が淡い光を放っている。
「ベアトリス嬢、早く価格を言ってくれ!」
会場から、待ちきれない声が上がった。
美しい顔に妖艶な笑みを浮かべたまま、ベアトリスは口を開いた。
「『エレメンタル・フュージョン』、開始価格——十万金貨でございます」
その天文学的な価格が出た瞬間、会場内は一気に静まり返った。
多くの者が、溜息をついて肩を落とした。とても手が出せる金額ではない。
後方の席で、レオンは思わず首を振った。
十万金貨。それはセレストーム侯爵家の年間収入に匹敵する額だ。
「この女、なかなか容赦ないな……」
『ふん、当然だろう。A級スキル書だぞ。むしろ安いくらいだ』
十万金貨という天価の前に、会場はやや冷え込んだ。
だが、ベアトリスは動じなかった。微笑みを絶やさず、余裕の表情を浮かべている。彼女はこのスキル書の魅力をよく分かっていた。たとえ家を傾けてでも、手に入れたい者がいることを。
予想通り、沈黙は長くは続かなかった。
「十一万!」
禿げ上がった頭の中年男が、震える声で叫んだ。
レオンはその声の方向に目を向けた。見覚えがある。カルディアの武器商人だ。武器販売をほぼ独占しており、大貴族には及ばないものの、この街では名の知れた人物だ。
「十三万!」
中年男に続いて、黄色い衣を纏った老人が声を上げた。
カルディアの大薬商だ。数軒の薬草店を経営しており、財力はそれなりにある。
禿頭の中年男は、老人を睨みつけた。
「十四万!」
会場には、ぽつぽつと競りの声が響いていた。だが十万金貨という高値は、多くの者を尻込みさせていた。
「二十万」
その時、冷たい声が響いた。
特等席に座る、白髪の老人だ。
レオンは目を細めた。あの老人——競売が始まる前から、父の隣に座っていた人物だ。
「ガルシア・ヴェルムンド……」
誰かが囁いた。
「ヴェルムンド子爵家の当主だ」
ヴェルムンド子爵家。カルディア近郊に領地を持つ貴族だ。セレストーム侯爵家ほどの力はないが、それなりの財力を誇っている。
ガルシアの声が響いた瞬間、禿頭の中年男と黄衣の老人は、がっくりと肩を落とした。子爵家と競り合う力など、彼らにはない。
「二十二万」
別の声が上がった。
恰幅の良い、赤ら顔の男だ。
「オルバ・メルカトール……!」
会場がざわめいた。
メルカトール商会の会長。カルディア最大の商人であり、その財力は貴族にも匹敵すると言われている。
ガルシアは冷たい目でオルバを睨んだ。
「二十五万」
「二十七万!」
オルバが即座に返した。
「二十八万」
「三十万!」
二人の間で、火花が散っていた。
会場の誰もが、固唾を呑んでその様子を見守っている。
価格が三十三万に達した時、ガルシアは苦々しげに口を閉ざした。これ以上は、ヴェルムンド家の財政が傾きかねない。
「三十五万」
その時、静かな声が響いた。
カッセルリック・セレストームだ。
レオンの父が、ついに動いた。
オルバの目が細くなった。
「セレストーム侯爵……あなたもこのスキル書を狙っていたのか」
「ああ」
カッセルリックは淡々と答えた。
「我が家の者に、必要なのでな」
「ほう、誰に使わせるおつもりで? ティモシー殿か、エイドリアン殿か?」
「それは私の家の問題だ」
カッセルリックの声は冷たかった。
オルバは薄く笑った。
「三十八万」
「四十万」
カッセルリックは表情一つ変えずに言った。
「四十二万!」
オルバの額に、汗が滲んでいた。
「四十五万」
「……っ」
オルバは歯を食いしばった。これ以上は、商会の運営に支障が出る。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。このスキル書があれば、息子を一流の魔法師に育てられる。商会の未来がかかっているのだ。
「五十万!」
オルバは叫んだ。
会場が、どよめいた。
五十万金貨。とてつもない金額だ。
カッセルリックの眉が、わずかに動いた。
「五十五万」
「……!」
オルバの顔が、蒼白になった。
五十五万。もはや、彼の限界を超えていた。
「六十万」
新たな声が響いた。
全員の視線が、声の主に向けられた。
特等席の奥——半透明の魔法障壁の向こうに、一人の男が座っていた。
黒いローブを纏い、フードを深く被っている。顔は見えない。
「誰だ……?」
会場がざわめいた。
ベアトリスも、わずかに眉をひそめた。あの席の客は、今日になって突然現れた。身元は不明だが、莫大な保証金を払って特等席を確保した人物だ。
「六十五万」
カッセルリックが言った。その声には、わずかな焦りが滲んでいる。
「七十万」
黒ローブの男は、涼しい声で答えた。
「七十五万!」
「八十万」
会場が、息を呑んだ。
八十万金貨。もはや、狂気じみた金額だ。
カッセルリックの拳が、震えていた。
セレストーム侯爵家の全財産を投げ打っても、この金額には届かない。
「八十五万」
カッセルリックは、絞り出すように言った。
「九十万」
黒ローブの男は、即座に返した。その声には、余裕すら感じられる。
「……」
カッセルリックは唇を噛んだ。
これ以上は、無理だ。家を破産させるわけにはいかない。
「……降りる」
その言葉を絞り出すのに、どれほどの苦痛が伴ったか。
レオンには、痛いほど分かった。
「九十万金貨。他にどなたかいらっしゃいますか?」
ベアトリスが会場を見回した。紫の瞳が、一人一人の顔を舐めるように見つめる。
誰も声を上げない。
「では、そちらのお客様に落札でございます」
彼女の手に握られた小槌が、台の上を叩いた。澄んだ音が会場に響き渡る。
会場に、ため息が漏れた。
九十万金貨。
本日の競売の最高額——そして、「アウレウム」競売所の歴史に残る金額だ。
◆◇◆
黒ローブの男は、静かに席を立った。
侍従に案内されて、奥の部屋へと消えていく。
その背中を、カッセルリックは悔しげに見つめていた。
「くそ……あと少しだったのに……」
隣のガルシアが、小声で言った。
「セレストーム侯爵、あの男は何者だ?」
「分からん。だが、あれだけの金を出せるということは、相当な後ろ盾がいるはずだ」
◆◇◆
レオンは静かに席を立った。
競売は終わった。自分のエーテル液は六千金貨で父に落札された。手数料を引いても、五千金貨以上が手に入る。
だが、胸の奥には複雑な感情が渦巻いていた。
父は、自分のためにあのスキル書を手に入れようとしていた。
八十五万金貨を超える金額を、躊躇なく叫んでいた。
家を傾けてでも、自分を救おうとしていたのだ。
「……父上」
レオンは呟いた。
『どうした、小僧。感傷に浸っている場合か?』
「いや……何でもない」
【続く】




