第44話 競売
女性侍従の案内で、レオンは競売会場へと足を踏み入れた。
中に入った途端、周囲の明るい環境が一気に暗くなり、喧騒が津波のように耳に押し寄せてきた。静かな場所を好むレオンは、思わず眉をひそめた。
競売場は広大だった。
千人以上を収容できる巨大な円形の会場は、すり鉢状に設計されている。中央の競売台に向かって、階段状に座席が並んでいた。
天井には巨大な魔晶のシャンデリアが吊り下げられ、柔らかな光を放っている。壁面には魔法の松明が等間隔で並び、揺らめく炎が会場全体を温かな光で包んでいた。
会場内には、様々な匂いが混ざり合っていた。蜜蝋の香り、高級な香水、汗の匂い、そして金の匂い——欲望と期待が入り混じった、独特の空気だ。
座席は三つの区域に分かれていた。
最も外側は一般席。普通の木製の長椅子が並び、商人や冒険者たちが肩を寄せ合って座っている。彼らは落ち着きなく周囲を見回し、時折隣の者と小声で話し合っていた。入場料は銀貨十枚。
中間の列は貴賓席。革張りの椅子が一人ずつ用意され、小さなテーブルには茶菓子が置かれている。ここに座る者たちは、一般席の者たちより落ち着いた様子だが、それでも目には欲望の光が宿っていた。入場料は金貨五枚。
そして最も内側、競売台に最も近い場所には特等席がある。半透明の魔法障壁で区切られた個室型の席で、外からは中が見えないが、中からは競売台がよく見える。貴族や大商人だけが座ることを許される場所だ。
会場のあちこちで、侍従たちが忙しく動き回っていた。茶を運ぶ者、書類を手渡す者、客の要望に応える者。彼らは黒と金の制服を身に纏い、「アウレウム」競売所の紋章を胸に付けている。
レオンが案内されたのは、貴賓席の端にある目立たない場所だった。
黒いローブを纏ったまま、静かに椅子に腰を下ろす。
侍従が恭しく茶を置いていった。香り高い紅茶だ。湯気が立ち上り、ほのかな香りが鼻をくすぐる。
『ふむ、なかなか立派な会場だな』
オーグリが脳内で呟いた。
『千年前にも似たような場所があったが、ここまで洗練されてはいなかった。時代は進んだものだ』
「静かにしてくれ。目立ちたくない」
『分かっておる』
◆◇◆
競売台の上では、一人の女性が立っていた。
深い紫紺のコルセットドレスを纏い、その上から銀糸で刺繍された黒いケープを羽織っている。ケープの縁には魔法陣の文様が施され、彼女が動くたびに淡い光を放っていた。
豊かな栗色の髪は緩やかなウェーブを描きながら背中に流れ落ち、髪には小さな銀の星飾りが散りばめられている。アメジストの耳飾りが揺れ、同じ宝石が嵌め込まれたチョーカーが白い首筋を飾っていた。
切れ長の紫の瞳、薄い唇に引かれた深紅の紅。その姿は、まるで夜空から降り立った女神のようだった。
彼女が口を開くたびに、会場の温度が上がるような気がした。
「さあ、皆様。次の品は、北の山脈で採れた霊銀鉱石でございます。純度は九十五パーセント以上。魔法の武具を鍛造するには、最高の素材でございますわ」
甘く、それでいて芯のある声が会場に響き渡る。
男たちの目が、彼女に釘付けになっていた。
「アウレウム」競売所の首席競売師、ベアトリス。
カルディアでは知らぬ者のいない美女だ。その妖艶な魅力で、多くの男たちを虜にしてきたという。かつては貴族の令嬢だったが、ある事情で家を出て、今は競売師として名を馳せている——という噂もある。
彼女が霊銀鉱石を手に取ると、会場の照明が微妙に変化した。魔法の光が鉱石に当たり、銀色の輝きが会場全体を照らす。演出も心得ている。
「開始価格は、三百金貨。さあ、どなたから?」
長い手袋に包まれた指が、優雅に会場を指し示す。
「三百五十!」
一般席から声が上がった。
「四百!」
貴賓席からも声が上がる。
ベアトリスは声が上がるたびに、その方向に流し目を送る。紫の瞳が艶めかしく細められ、薄い唇が微かに弧を描く。それだけで、男たちの財布の紐は緩んでいった。
「四百五十!」
「五百!」
競りの熱気が、会場に満ちていく。声と声がぶつかり合い、金額が跳ね上がっていく。
レオンは静かにその光景を眺めていた。
周囲の貴賓席では、様々な人間模様が繰り広げられていた。
隣の席では、太った商人が汗を拭きながら、競りに参加するかどうか迷っていた。その目は霊銀鉱石に釘付けで、唇を何度も舐めている。
反対側では、若い貴族らしき男が、退屈そうに爪を弄っていた。彼の目当ては、もっと高価な品なのだろう。
後ろの席では、老婆が扇子で顔を仰ぎながら、冷静に競りを見守っていた。その目は鋭く、計算高い光を宿している。
視線を会場内に巡らせる。
特等席には、見覚えのある顔がいくつかあった。
「あれは……」
最前列の特等席に、一人の中年男性が座っていた。
黒髪に鋭い目つき。威厳のある顔立ち。
——カッセルリック・セレストーム。
父だ。
レオンは思わず身を固くした。
なぜ父がここにいる?
『どうした、小僧』
「……父がいる」
『ほう、お前の父親か。なかなか威厳のある男だな』
父の目は競売台には向いていなかった。何かを待っているような、落ち着かない様子だ。
その視線は時折、会場内を彷徨っている。
まるで、何かを——いや、誰かを探しているかのように。
「父上がここに来る理由は……」
レオンは眉をひそめた。
父の隣には、見知らぬ老人が座っていた。白髪の、痩せた老人だ。二人は時折、何かを話し合っている様子だ。
◆◇◆
競売は順調に進んでいった。
霊銀鉱石は八百金貨で落札された。次に出品されたのは、古代の魔導書の断片。これは千二百金貨。その次は、四つ星の魔獣の核。二千金貨。
どれも高額だが、父は動かなかった。
彼は、何かを待っている。
会場の熱気は、競りが進むごとに高まっていった。声は大きくなり、金額は跳ね上がり、人々の目は輝きを増していく。
ある男は、競り負けて悔しそうに椅子を蹴った。別の男は、落札に成功して満面の笑みを浮かべた。喜びと悔しさが入り混じった空気が、会場に満ちている。
「さあ、皆様」
ベアトリスが声を上げた。
彼女のケープが風もないのに揺れ、銀糸の刺繍が淡い光を放った。
「ここで、本日新たに持ち込まれた品を、特別に競売にかけさせていただきます」
会場がざわめいた。
予定外の出品。それは、珍しいことではないが、特別に競売にかけるということは、それだけの価値があるということだ。
女性侍従が、銀の盆を捧げ持って現れた。盆の上には、翠緑色の小瓶が置かれている。
会場の照明が、また微妙に変化した。光が小瓶に集中し、その中の液体が淡く輝いて見える。
「こちらは、B級の魔薬でございます」
ベアトリスが長い指で瓶を摘み上げ、高々と掲げた。紫紺のドレスの袖がするりと落ち、白い腕が露わになる。
「エーテル液」
会場が一瞬、静まり返った。
誰もが息を呑んだ。
そして、爆発するような喧騒が起こった。
「エーテル液だと!?」
「本物か!?」
「馬鹿な、あれは千年前に失われたはずだ!」
「嘘だろう!? あり得ない!」
人々が席から立ち上がり、競売台に身を乗り出した。一般席では、人々が押し合いへし合いしながら、瓶を見ようとしている。
エルシア大陸では、魔薬やスキルの等級は、D級からS級までの五段階で分類されている。
D級は最も一般的なもので、誰でも使用できる。
C級はやや希少で、二つ星から三つ星の魔法師に適している。
B級は貴重品で、四つ星から五つ星の魔法師向け。
A級は極めて希少で、六つ星以上の魔法師でなければ扱えない。
そしてS級は——伝説級。百年に一度、現れるかどうかという代物だ。
エーテル液はB級。千年前に失われた処方であり、本物なら相当な価値がある。
ベアトリスは微笑みながら、騒ぎが収まるのを待った。
彼女は瓶をゆっくりと回し、会場の全ての者に見せるように掲げた。紫の瞳が、会場を睥睨する。
「ご安心ください。当競売所のハインリヒ様が、直接鑑定されました。正真正銘の本物でございます」
ハインリヒの名前が出ると、会場の声は少し静まった。
四級錬金術師の鑑定なら、信用できる。
「エーテル液は、三つ星以下の方に効果がございます。魔力回路の損傷を修復し、魔力の成長を促進する効果があるとされております」
ベアトリスは瓶を胸元に抱き寄せ、妖艶な笑みを浮かべた。
「お子様やお孫様を天才に育てたい方には、またとない機会でございますわ」
「開始価格は、五百金貨。さあ、どなたから?」
「六百!」
「七百!」
「八百!」
声が次々と上がる。
レオンは静かに椅子に身を預け、競りの様子を眺めていた。
自分が持ち込んだエーテル液が、これほどの反響を呼ぶとは思わなかった。
価格はあっという間に千五百金貨を超えた。
二千。二千五百。三千。
その時——
「四千金貨」
低い声が響いた。
父だ。
カッセルリック・セレストームが、静かに声を上げた。
会場が静まり返った。
レオンは目を見開いた。
父が……エーテル液を?
「四千五百!」
別の声が上がった。太った商人だ。
「五千」
父は表情一つ変えずに言った。
「五千五百!」
「六千」
「……」
商人は唇を噛んだ。これ以上は限界だ。
「六千金貨。他にどなたかいらっしゃいますか?」
ベアトリスが会場を見回した。紫の瞳が、一人一人の顔を舐めるように見つめる。
誰も声を上げない。
「では、カッセルリック・セレストーム侯爵様に落札でございます!」
彼女の手に握られた小槌が、台の上を叩いた。澄んだ音が会場に響き渡る。
レオンは呆然としていた。
父が、六千金貨でエーテル液を……?
何のために?
三つ星以下に効果がある魔薬だ。父自身には意味がない。となると、誰かに与えるつもりなのか。
兄たちは皆、既に三つ星を超えている。
では、誰に……?
「……まさか」
レオンの脳裏に、一つの可能性が浮かんだ。
自分のため?
いや、そんなはずはない。父は自分を見捨てたはずだ。出来損ないの四男など、とうに諦めているはず。
だが——
父の顔を見つめる。
その表情は、どこか切なげだった。
『どうした、小僧。急に黙り込んで』
「……何でもない」
レオンは首を振った。
今は考えるな。後で確かめればいい。
それよりも——六千金貨だ。手数料を引いても、五千七百金貨が手に入る。これだけあれば、しばらくは材料に困らない。
『ふむ、悪くない結果だな。お前の父親のおかげで、思った以上の値がついた』
「ああ……」
レオンは複雑な思いで、父の姿を見つめていた。
◆◇◆
「さあ、皆様」
ベアトリスが声を上げた。
「お待たせいたしました。本日の目玉、最後の品でございます」
会場の空気が、一気に張り詰めた。
父も、身を乗り出した。
どうやら、これが本命らしい。
ベアトリスが手を振ると、競売台の照明が暗くなった。彼女のケープの銀糸だけが、ぼんやりと光を放っている。
そして——
銀の盆の上に、一巻の古びた巻物が現れた。
巻物は淡い光を放っており、複数の色——青と赤と緑——が混ざり合って、神秘的に輝いている。
「A級スキル書——『エレメンタル・フュージョン』でございます」
会場が、また騒然となった。
【続く】




