表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/36

第30話 巻物と屈辱

三階の古代典籍閲覧室は、静寂に包まれていた。


夕日が窓から差し込み、古びた書架を橙色に染めている。埃っぽい紙の匂いと、かすかなインクの香り。


レオンは書架の間を歩きながら、背表紙に刻まれた文字を眺めていた。七年ぶりの図書館だ。かつては毎日のように通っていた場所。


「懐かしいわね」エヴィルが隣を歩きながら言った。「昔、レオン兄さんとよくここで本を読んだの、覚えてる?」


「ああ、覚えている」


あの頃は「天才」と呼ばれていた。魔法の本、スキルの本、錬金術の本——何でも貪るように読んでいた。


「レオン兄さんは、いつも難しい本を読んでいたわ。私には全然分からなくて、隣で絵本を読んでいたの」


「お前は五歳だったからな」


「それでも、レオン兄さんの隣にいるのが好きだった」


エヴィルは微笑んだ。その笑顔は、七年前と変わらない。


二人は閲覧室の奥にある机に向かった。エヴィルは鞄から二枚の刻印巻物を取り出した。


「これを見てほしいの」


刻印巻物——魔法師や錬金術師が術式を巻物に刻み込んだもので、魔力を注げば即座に発動できる便利な道具だ。空白の巻物だけでも数百金貨、青銅級なら数千金貨、銀級ともなれば万金貨を超える。


「二つとも星象系の刻印よ。でも、どちらも発動しないの」


エヴィルは困った顔をした。


「学院の教授にも見せたし、長老にも相談したわ。でも誰も原因が分からなくて……」


レオンは巻物を受け取り、広げた。


『ふむ……』


オーグリの声が脳裏に響いた。


『小僧、そのインクの色をよく見ろ』


レオンは刻印のインクに目を凝らした。淡い銀色——いや、よく見ると、わずかに紫がかっている。


『「星落」の刻印には、本来、成体の星光蛾の血を使う。成体の血は純粋な銀色だ。だが、この巻物に使われているのは幼体の血だ。魔力の含有量が足りず、術式を発動させることができない』


レオンは顔を上げた。


「エヴィル、この巻物は粗悪品だ」


「え?」


「インクの素材が劣っている。本来は成体の星光蛾の血を使うべきところを、幼体の血で代用している」


エヴィルは巻物を覗き込んだ。


「本当だわ……色が少し違う……でも、教授たちも気づかなかったのよ?」


「刻印の構造自体には問題がない。構造ばかり見ていたら、素材の欠陥には気づけない」


エヴィルは悔しそうに唇を噛んだ。


「騙されたのね……」


「次からは、購入前に素材の色を確認するといい」


エヴィルは二枚目の巻物を広げた。


「じゃあ、こっちは?」


『これは別の問題だ』オーグリが言った。『素材は本物だが、刻印の構造自体に欠陥がある。「凛星陣」は古代の刻印だが、戦乱で原典が失われ、後世の復元が不完全だ』


レオンは机の上の白紙と羽根ペンを手に取った。


「紙を借りるぞ」


オーグリの指示に従い、刻印の構造を修正していく。複雑な紋様が、一筆一筆、紙の上に描かれていく。


やがて、完成した。


「これが本来の『凛星陣』だ。元の刻印は三十二の基礎紋様だが、本来は四十八必要だ」


エヴィルは目を見開いた。


「レオン兄さん、どうしてこんなことが……」


「昔から、本を読むのは好きだったからな」


嘘だと、エヴィルには分かった。でも、追及はしなかった。


「ありがとう、レオン兄さん」


エヴィルは微笑んだ。


その時——


「へえ、仲が良いことで」


低い声が響いた。


二人が振り返ると、閲覧室の入り口に一人の少年が立っていた。


金髪に青い目。整った顔立ちだが、今はその顔が怒りで歪んでいた。


レイノルドだった。


「レイノルド……」エヴィルの声が冷たくなった。「何の用?」


「何の用だと?」レイノルドは書架の間を歩いてきた。「エヴィルがこんな出来損ないと二人きりでいるんだ。様子を見に来るのは当然だろう」


「私が誰といようと、あなたには関係ないわ」


「関係ない?」レイノルドの目が鋭くなった。「俺は——」


言いかけて、口を閉じた。


レイノルドはエヴィルに想いを寄せていた。だが、告白したことはない。エヴィルの方は、そんな彼の気持ちに気づいているのか、いないのか——いずれにせよ、応える気配はなかった。


だからこそ、余計に腹が立つのだ。


エヴィルが、こんな出来損ないと親しげにしているのが。


「お前だ」レイノルドはレオンを睨みつけた。「さっきから気に入らないんだよ。エヴィルと二人きりで、楽しそうに話しやがって」


「話をしていただけだ」


「刻印の知識をひけらかして、いい気になってるのか?」レイノルドが一歩近づいた。「お前みたいな出来損ないが、いくら本を読んだところで、何の役にも立たないんだよ」


レオンは無言でレイノルドを見つめた。


「聞いているのか?」レイノルドの声が荒くなった。「お前は出来損ないだ。二つ星にも満たない。俺は三つ星だぞ。身の程を知れ」


「だから何だ」


「何だと?」


「星の数で人の価値が決まるのか?」


レイノルドの顔が怒りで歪んだ。


「生意気な……っ!」


レイノルドが拳を振り上げた。


「レイノルド、やめなさい!」エヴィルが叫んだ。


だが、遅かった。レイノルドの拳がレオンに向かって振り下ろされる——


その瞬間。


レオンの手が動いた。


レイノルドの手首を掴み、ひねる。たったそれだけの動作だった。


「がっ——!?」


レイノルドの体が、くるりと回転した。次の瞬間、彼は床に叩きつけられていた。


「な……何が……」


レイノルドは呆然とした。自分が何をされたのか、理解できなかった。


レオンは二つ星だ。レイノルドは三つ星。魔力量も、身体能力も、レイノルドの方が上のはずだった。なのに、一瞬で組み伏せられた。


「お前の動きは粗い」


レオンは冷たく言った。


「力任せに殴りかかってくる。そんな単純な攻撃、読めないわけがない」


『ほう、やるじゃないか』


オーグリの声が脳裏に響いた。


『あの騎士に習った体術か。なかなか筋がいい』


幼い頃、バートン騎士から教わった護身術だ。


「坊ちゃま、魔法が使えなくても、身を守る術はあります」


あの頃、バートンは毎日のようにレオンに稽古をつけてくれた。


魔力で劣る者が、どうやって強者に勝つか。その答えの一つが、技術だ。


相手の動きを読み、最小限の力で最大の効果を上げる。バートンは長年の戦場経験から、その術を身につけていた。


「く……離せ……!」


レイノルドがもがいた。だが、レオンの関節技は完璧だった。動けば動くほど、痛みが増す。


「大人しくしていろ。骨を折りたくはない」


「この……出来損ないが……!」


レイノルドの目に、屈辱と怒りが渦巻いていた。


三つ星の自分が、二つ星の出来損ないに組み伏せられている。こんな屈辱があるか。


「魔力を使えば、俺なんか一捻りだろう」レオンは淡々と言った。「だが、お前は素手で殴りかかってきた。それが間違いだ」


「……っ!」


レイノルドは歯を食いしばった。確かに、魔法を使えば勝てたはずだ。だが、出来損ない相手に魔法を使うのは、プライドが許さなかった。


その慢心が、この結果を招いた。


「レオン兄さん、もういいわ」


エヴィルが近づいてきた。


「離してあげて。これ以上は……」


レオンは頷き、レイノルドを解放した。


レイノルドは床から起き上がり、手首をさすった。赤く腫れている。


「覚えていろ……」


レイノルドはレオンを睨みつけた。


「次は、こうはいかないからな」


「好きにしろ」


レイノルドは踵を返し、足早に去っていった。その背中は、怒りと屈辱で震えていた。


◆◇◆


「大丈夫、レオン兄さん?」


レイノルドが去った後、エヴィルが心配そうに聞いた。


「ああ、問題ない」


「すごかったわ……あんな動き、どこで覚えたの?」


「……昔、バートンに習った」


「バートン爺やに?」エヴィルは驚いた顔をした。「そうだったの……」


「あの人は、ただの執事じゃない。元は戦場を駆けた騎士だ」


エヴィルは納得したように頷いた。だが、その目には心配の色が浮かんでいた。


「でも、気をつけてね。レイノルドは執念深いから。きっと、このことを根に持つわ」


「分かっている」


レオンは窓の外を見た。夕日が沈み、空は紫から藍へと変わりつつあった。


「だが、いつまでも隠れているつもりはない」


「レオン兄さん……」


「二ヶ月後、すべてが変わる」


レオンの目には、静かな決意が宿っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ