第30話 巻物と屈辱
三階の古代典籍閲覧室は、静寂に包まれていた。
夕日が窓から差し込み、古びた書架を橙色に染めている。埃っぽい紙の匂いと、かすかなインクの香り。
レオンは書架の間を歩きながら、背表紙に刻まれた文字を眺めていた。七年ぶりの図書館だ。かつては毎日のように通っていた場所。
「懐かしいわね」エヴィルが隣を歩きながら言った。「昔、レオン兄さんとよくここで本を読んだの、覚えてる?」
「ああ、覚えている」
あの頃は「天才」と呼ばれていた。魔法の本、スキルの本、錬金術の本——何でも貪るように読んでいた。
「レオン兄さんは、いつも難しい本を読んでいたわ。私には全然分からなくて、隣で絵本を読んでいたの」
「お前は五歳だったからな」
「それでも、レオン兄さんの隣にいるのが好きだった」
エヴィルは微笑んだ。その笑顔は、七年前と変わらない。
二人は閲覧室の奥にある机に向かった。エヴィルは鞄から二枚の刻印巻物を取り出した。
「これを見てほしいの」
刻印巻物——魔法師や錬金術師が術式を巻物に刻み込んだもので、魔力を注げば即座に発動できる便利な道具だ。空白の巻物だけでも数百金貨、青銅級なら数千金貨、銀級ともなれば万金貨を超える。
「二つとも星象系の刻印よ。でも、どちらも発動しないの」
エヴィルは困った顔をした。
「学院の教授にも見せたし、長老にも相談したわ。でも誰も原因が分からなくて……」
レオンは巻物を受け取り、広げた。
『ふむ……』
オーグリの声が脳裏に響いた。
『小僧、そのインクの色をよく見ろ』
レオンは刻印のインクに目を凝らした。淡い銀色——いや、よく見ると、わずかに紫がかっている。
『「星落」の刻印には、本来、成体の星光蛾の血を使う。成体の血は純粋な銀色だ。だが、この巻物に使われているのは幼体の血だ。魔力の含有量が足りず、術式を発動させることができない』
レオンは顔を上げた。
「エヴィル、この巻物は粗悪品だ」
「え?」
「インクの素材が劣っている。本来は成体の星光蛾の血を使うべきところを、幼体の血で代用している」
エヴィルは巻物を覗き込んだ。
「本当だわ……色が少し違う……でも、教授たちも気づかなかったのよ?」
「刻印の構造自体には問題がない。構造ばかり見ていたら、素材の欠陥には気づけない」
エヴィルは悔しそうに唇を噛んだ。
「騙されたのね……」
「次からは、購入前に素材の色を確認するといい」
エヴィルは二枚目の巻物を広げた。
「じゃあ、こっちは?」
『これは別の問題だ』オーグリが言った。『素材は本物だが、刻印の構造自体に欠陥がある。「凛星陣」は古代の刻印だが、戦乱で原典が失われ、後世の復元が不完全だ』
レオンは机の上の白紙と羽根ペンを手に取った。
「紙を借りるぞ」
オーグリの指示に従い、刻印の構造を修正していく。複雑な紋様が、一筆一筆、紙の上に描かれていく。
やがて、完成した。
「これが本来の『凛星陣』だ。元の刻印は三十二の基礎紋様だが、本来は四十八必要だ」
エヴィルは目を見開いた。
「レオン兄さん、どうしてこんなことが……」
「昔から、本を読むのは好きだったからな」
嘘だと、エヴィルには分かった。でも、追及はしなかった。
「ありがとう、レオン兄さん」
エヴィルは微笑んだ。
その時——
「へえ、仲が良いことで」
低い声が響いた。
二人が振り返ると、閲覧室の入り口に一人の少年が立っていた。
金髪に青い目。整った顔立ちだが、今はその顔が怒りで歪んでいた。
レイノルドだった。
「レイノルド……」エヴィルの声が冷たくなった。「何の用?」
「何の用だと?」レイノルドは書架の間を歩いてきた。「エヴィルがこんな出来損ないと二人きりでいるんだ。様子を見に来るのは当然だろう」
「私が誰といようと、あなたには関係ないわ」
「関係ない?」レイノルドの目が鋭くなった。「俺は——」
言いかけて、口を閉じた。
レイノルドはエヴィルに想いを寄せていた。だが、告白したことはない。エヴィルの方は、そんな彼の気持ちに気づいているのか、いないのか——いずれにせよ、応える気配はなかった。
だからこそ、余計に腹が立つのだ。
エヴィルが、こんな出来損ないと親しげにしているのが。
「お前だ」レイノルドはレオンを睨みつけた。「さっきから気に入らないんだよ。エヴィルと二人きりで、楽しそうに話しやがって」
「話をしていただけだ」
「刻印の知識をひけらかして、いい気になってるのか?」レイノルドが一歩近づいた。「お前みたいな出来損ないが、いくら本を読んだところで、何の役にも立たないんだよ」
レオンは無言でレイノルドを見つめた。
「聞いているのか?」レイノルドの声が荒くなった。「お前は出来損ないだ。二つ星にも満たない。俺は三つ星だぞ。身の程を知れ」
「だから何だ」
「何だと?」
「星の数で人の価値が決まるのか?」
レイノルドの顔が怒りで歪んだ。
「生意気な……っ!」
レイノルドが拳を振り上げた。
「レイノルド、やめなさい!」エヴィルが叫んだ。
だが、遅かった。レイノルドの拳がレオンに向かって振り下ろされる——
その瞬間。
レオンの手が動いた。
レイノルドの手首を掴み、ひねる。たったそれだけの動作だった。
「がっ——!?」
レイノルドの体が、くるりと回転した。次の瞬間、彼は床に叩きつけられていた。
「な……何が……」
レイノルドは呆然とした。自分が何をされたのか、理解できなかった。
レオンは二つ星だ。レイノルドは三つ星。魔力量も、身体能力も、レイノルドの方が上のはずだった。なのに、一瞬で組み伏せられた。
「お前の動きは粗い」
レオンは冷たく言った。
「力任せに殴りかかってくる。そんな単純な攻撃、読めないわけがない」
『ほう、やるじゃないか』
オーグリの声が脳裏に響いた。
『あの騎士に習った体術か。なかなか筋がいい』
幼い頃、バートン騎士から教わった護身術だ。
「坊ちゃま、魔法が使えなくても、身を守る術はあります」
あの頃、バートンは毎日のようにレオンに稽古をつけてくれた。
魔力で劣る者が、どうやって強者に勝つか。その答えの一つが、技術だ。
相手の動きを読み、最小限の力で最大の効果を上げる。バートンは長年の戦場経験から、その術を身につけていた。
「く……離せ……!」
レイノルドがもがいた。だが、レオンの関節技は完璧だった。動けば動くほど、痛みが増す。
「大人しくしていろ。骨を折りたくはない」
「この……出来損ないが……!」
レイノルドの目に、屈辱と怒りが渦巻いていた。
三つ星の自分が、二つ星の出来損ないに組み伏せられている。こんな屈辱があるか。
「魔力を使えば、俺なんか一捻りだろう」レオンは淡々と言った。「だが、お前は素手で殴りかかってきた。それが間違いだ」
「……っ!」
レイノルドは歯を食いしばった。確かに、魔法を使えば勝てたはずだ。だが、出来損ない相手に魔法を使うのは、プライドが許さなかった。
その慢心が、この結果を招いた。
「レオン兄さん、もういいわ」
エヴィルが近づいてきた。
「離してあげて。これ以上は……」
レオンは頷き、レイノルドを解放した。
レイノルドは床から起き上がり、手首をさすった。赤く腫れている。
「覚えていろ……」
レイノルドはレオンを睨みつけた。
「次は、こうはいかないからな」
「好きにしろ」
レイノルドは踵を返し、足早に去っていった。その背中は、怒りと屈辱で震えていた。
◆◇◆
「大丈夫、レオン兄さん?」
レイノルドが去った後、エヴィルが心配そうに聞いた。
「ああ、問題ない」
「すごかったわ……あんな動き、どこで覚えたの?」
「……昔、バートンに習った」
「バートン爺やに?」エヴィルは驚いた顔をした。「そうだったの……」
「あの人は、ただの執事じゃない。元は戦場を駆けた騎士だ」
エヴィルは納得したように頷いた。だが、その目には心配の色が浮かんでいた。
「でも、気をつけてね。レイノルドは執念深いから。きっと、このことを根に持つわ」
「分かっている」
レオンは窓の外を見た。夕日が沈み、空は紫から藍へと変わりつつあった。
「だが、いつまでも隠れているつもりはない」
「レオン兄さん……」
「二ヶ月後、すべてが変わる」
レオンの目には、静かな決意が宿っていた。




