第29話 修行
温かな陽光が窓の隙間から差し込み、細かな光の粒子が部屋を彩っていた。
部屋の中央、レオンは翡翠色の薬湯に身を浸し、目を閉じていた。
両手を胸の前で組み、呼吸を整える。吸って、吐いて。吸って、吐いて。一定のリズムを刻みながら、意識を体の内側に向ける。
薬湯から立ち上る淡い気流が、呼吸に合わせてレオンの体内に染み込んでいく。鼻から、口から、そして全身の毛穴から。エーテル液の薬効が、少しずつ枯れた魔法回路を潤していく。
魔法回路——魔法師の体内に張り巡らされた、魔力を循環させる経路だ。
その回路が枯れた原因は、もう分かっている。星形の吊り飾り——オーグリが封じられていたあの装飾品が、五年間にわたってレオンの魔力を吸い続けていたのだ。
今さら恨んでも仕方がない。原因が分かったおかげで、回復の道が開けた。
修行に集中する。薬湯の力で、詰まっていた回路が少しずつ開いていく。細くなっていた経路が、太さを取り戻していく。
時間が流れた。
窓から差し込む陽光の角度が変わり、昼から夕方へと移っていく。
◆◇◆
エーテル液を使い始めてから、半月が過ぎた。
この半月、レオンは部屋に籠もりきりだった。食事と睡眠以外のほぼすべての時間を、薬湯での修行に費やした。
『ふむ、悪くない』
ある夕方、修行を終えたレオンに、オーグリが言った。
『半月で二つ星まで回復したか。予想通りだ』
「二つ星か……」
レオンは薬湯から上がり、体を拭いた。
二つ星魔法学徒——まだまだ低い水準だ。エイドリアンは四つ星魔法師。その差は、星の数以上に大きい。
一つ星から三つ星までが魔法学徒。四つ星以上が魔法師。その境目にあるのが「魔核」の形成だ。魔核を持つことで、魔力の貯蔵量と出力が飛躍的に向上する。
レオンはまだ魔核を持っていない。二つ星では、魔核の形成には程遠い。
「あと一ヶ月半で、四つ星に届くのか?」
『正直、厳しい。魔法回路を三つ星まで回復させるのは可能だが、魔核の形成は別問題だ』
「どうすればいい?」
『スキルで補え。魔力量で劣っても、技の質で勝てば可能性はある』
レオンは服を着替えながら、窓の外を見た。夕日が傾き始めている。
「出かけてくる」
『どこへ行く?』
「図書館だ。エヴィルと約束がある」
『何の用だ?』
「……ちょっとした調べ物だ」
レオンは詳しく説明しなかった。錬金炉の銘文を解読したいという話は、まだオーグリには伝えていない。あの老人が何か隠している以上、こちらも手の内をすべて見せる必要はないだろう。
『ふん、まあいい。行ってこい』
オーグリはそれ以上追及しなかった。
レオンは部屋を出た。
◆◇◆
夕暮れの光が、屋敷の庭を橙色に染めていた。
レオンは石畳の小道を歩き、図書館へと向かった。半月ぶりの外出だ。体が軽い。魔法回路が回復してきたおかげだろう。
セレストーム家の図書館は、本館の東翼にある。古い石造りの建物で、三階建て。蔦が壁を這い上がり、歴史を感じさせる佇まいだ。一族が代々収集してきた書物が収められており、中には千年以上前の古代典籍もあるという。
図書館の入り口に近づいた時——
声が聞こえてきた。
「ねえ、まだ泣いてるの? いい加減うざいんだけど」
嘲りを含んだ女の声。図書館の裏手、人目につきにくい場所から聞こえてくる。
レオンは足を止め、声のする方へ回り込んだ。
数人の少女が集まっていた。
その中心にいるのは——エリナ・セレストームだった。亜麻色の髪を結い上げ、取り巻きの少女たちを従えている。
エリナの前には、一人の少女が俯いて立っていた。
淡い紫色の髪を肩まで伸ばした、眼鏡をかけた少女だ。質素だが品のある服を着ている。華奢な体つきで、細い肩が震えていた。泣いているようだった。
「リリアのこと、まだ引きずってるわけ? 自分から冒険についてきたいって言ったのはあの子でしょ? 勝手に死んだだけじゃない」
エリナの言葉に、取り巻きたちがくすくすと笑った。
「だいたい、二つ星の魔法学徒が魔獣の森に行くなんて、自殺行為よ。私たちのせいじゃないわ」
紫髪の少女が顔を上げた。眼鏡の奥の瞳は涙で潤んでいたが、そこには怒りの光があった。
「リリアは……あなたたちが誘ったんです……! 危ないから行くなって、私は止めたのに……!」
「はあ?」エリナの目が冷たく細められた。「私たちが殺したとでも言いたいの?」
「魔獣が出た時、あなたたちはリリアを置いて逃げたって……!」
「それがどうしたの? 自分の身は自分で守る。当然でしょ。弱いのが悪いのよ」
「そんな……っ」
少女の声が詰まった。悔しさと悲しみで、言葉が続かないようだった。
エリナが一歩前に出た。紫髪の少女が怯えて後ずさり、背中が図書館の壁にぶつかった。
「大図書館の弟子だからって、偉そうにしないでくれる? ここはセレストーム家の領地よ。身の程を知りなさい」
エリナが手を振り上げた。
「やめろ」
静かな声が響いた。
エリナたちが振り返った。レオンが小道に立っていた。
「あら」エリナは手を下ろし、目を細めた。「出来損ないの従兄様。こんなところで何してるの?」
「図書館に用がある。そこをどけ」
「へえ? 出来損ないが図書館? 読める本があるの?」
取り巻きたちが笑った。
レオンは無視して、紫髪の少女の方を見た。
「大丈夫か?」
少女は驚いた目でレオンを見つめた。涙の跡が頬に残っている。
「あ……はい……」
「おい、無視しないでくれる?」エリナの声に苛立ちが混じった。「話してるんだけど」
「話す気はない」
レオンはエリナの横を通り過ぎようとした。
「待ちなさい」
エリナがレオンの腕を掴んだ。
「何よ、その態度。出来損ないのくせに、生意気なのよ、さっきから」
「……離せ」
「嫌よ。跪いて謝りなさい。そうしたら許してあげる」
「断る」
エリナの顔が怒りで赤くなった。
「この……っ!」
魔力が膨れ上がった。エリナの手に、淡い光が集まり始める。取り巻きたちも、レオンを囲むように動いた。五人。
今のレオンは二つ星。エリナは三つ星。数でも囲まれている。厳しい状況だ。
その時——
「エリナ従姉さん」
凛とした声が響いた。
全員が振り返った。
図書館の入り口に、一人の少女が立っていた。
黒髪を夕日に輝かせ、碧い瞳でこちらを見つめている。その表情は穏やかだが、目には揺るぎない光があった。
エヴィルだった。
「エヴィル……」エリナの顔が強張った。「何の用?」
「レオン兄さんと約束があるの」
エヴィルはゆっくりと歩み寄ってきた。
「五人がかりで囲んで、何をしているの?」
「別に、何も。ちょっと話をしていただけよ」
「跪いて謝れ、と言っていたように聞こえたけれど」
エヴィルの声は穏やかだったが、その目は笑っていなかった。
「盗み聞き? 趣味が悪いわね」
「大声で話しているのが聞こえただけよ」
二人の視線がぶつかった。空気が張り詰めた。
エリナは三つ星魔法学徒。エヴィルも三つ星だ。星の数だけなら同格——だが、実力は違う。
エヴィルは「星象系」の属性を持っていた。
魔法師の属性には、火、水、風、土といった基本属性の他に、希少な特殊属性が存在する。星象系はその中でも特に珍しく、百人に一人も現れないと言われている。星の力を操り、通常の魔法とは次元の異なる術を使える。
三つ星でありながら、エヴィルは四つ星にも匹敵する実力を持っている。エリナもそれは分かっているはずだ。
「それと」エヴィルが付け加えた。「その子を泣かせていたのも見えたわ。大図書館の弟子に手を出すなんて、問題になるわよ」
「……ふん」
エリナの拳が震えた。だが、これ以上は分が悪いと判断したのだろう。
「行くわよ、みんな」
取り巻きたちを連れ、エリナは足早に去っていった。去り際、レオンを睨みつけ、低く呟いた。
「覚えてなさいよ」
足音が遠ざかり、静寂が戻った。
「大丈夫、レオン兄さん?」
「ああ、助かった」
レオンは紫髪の少女の方を向いた。少女は壁に背をつけたまま、呆然としていた。
「怪我はないか?」
「あ……はい……」少女は我に返り、深く頭を下げた。「助けていただいて、ありがとうございます」
少女は眼鏡を外し、袖で涙を拭った。紫色の髪が夕日を受けて、淡く輝いている。
「私、そろそろ行かなければ……」
「もう大丈夫か?」
「はい」少女は小さく頷いた。「ご迷惑をおかけしました」
少女はもう一度頭を下げ、足早に去っていった。その背中は細く、どこか危うげだった。
「……名前も聞けなかったな」
「あの子、ミラっていうの」
エヴィルが言った。
「知っているのか?」
「ええ。大図書館の弟子よ。王都にある大図書館から、研修でこの地方に来ているの。古代語と錬金術の文献を専門にしているって聞いたわ」
「大図書館の弟子……」
大図書館——大陸最大の知識の殿堂だ。そこの弟子ともなれば、相当な学識を持っているはず。なぜそんな人物が、この地方の図書館に?
「リリアっていうのは?」
「ミラの友人だったみたい。同じく大図書館から来ていた研修生で、先月の事故で亡くなったの」
エヴィルの表情が曇った。
「エリナ従姉さんたちが魔獣の森に連れて行って……魔獣が出た時、置き去りにしたって噂よ」
「そうか……」
レオンは、ミラが去っていった方向を見た。
あの少女の目には、悲しみだけでなく、何か別のものがあった。決意、あるいは——復讐心のようなもの。
「さて、中に入りましょう」エヴィルが言った。「古代典籍の閲覧室は三階よ。銘文の解読、始めましょう」
「ああ」
二人は図書館の中に入っていった。
夕日が窓から差し込み、古い書架を橙色に染めている。埃っぽい紙の匂いと、かすかなインクの香り。
三階への階段を上りながら、レオンは考えていた。
大図書館の弟子。古代語と錬金術の専門家。亡くなった友人。エリナへの怒り。
あの少女と、また会うことになるかもしれない——そんな予感があった。
【続く】




