第26話 シル
路地裏の夜風が、四人の髪を軽く揺らしていた。
レオンは壁に背を預け、目の前のエルフの少年を見つめていた。シル——それが少年の名だ。銀白色の髪は汚れて絡まり合い、ボロ布の隙間から覗く肌には古傷と新しい傷が重なっている。さっき転んだ時に擦りむいた膝からは、まだ血が滲んでいた。
「ルオシー、傷薬はあるか?」
「はい、少々お待ちを」
ルオシーは腰の小袋から小瓶を取り出した。傷薬と包帯——侍女として常に携帯している品だ。
レオンは傷薬を受け取り、シルの前にしゃがみ込んだ。少年の体がびくりと震え、怯えた目でこちらを見たが、逃げようとはしなかった。逃げる気力もないのか、それとも逃げても無駄だと諦めているのか。
レオンは何も言わず、少年の膝に傷薬を塗った。シルが小さく息を呑む。薬が傷口に染みたのだろう。だが、声は上げなかった。
「痛かったら痛いと言え。我慢する必要はない」
シルは答えなかった。ただ不思議そうな目でレオンを見つめている。なぜこんなことをするのか——その目がそう問いかけているようだった。
◆◇◆
傷の手当てを終え、四人は路地裏を出て大通りに戻った。坊市の喧騒はだいぶ落ち着いており、レイノルドたちの姿はもうどこにもなかった。馬車を拾い、屋敷への帰路についた。
馬車の中で、シルは隅に小さく縮こまり、膝の上で手を組んだまま俯いていた。エヴィルはそんな少年に何か声をかけようとしたが、言葉が見つからず、視線をレオンに向けた。
レオンは窓の外を眺めていた。夕日の残光が横顔を照らし、表情は穏やかだが、どこか遠くを見ているようでもあった。
「レオン兄さん」
「ん?」
「二ヶ月後の家族魔闘会のこと……本当にエイドリアン兄さんと戦うの?」
レオンの目がわずかに動き、エヴィルの方を向いた。
「どこでそれを?」
「ソフィア従姉さんから聞いたの」エヴィルは俯き、心配そうな声で続けた。「家族中で噂になってるって。レオン兄さんがエイドリアン兄さんに自分から挑戦状を叩きつけて、家族魔闘会で決着をつけるって」
レオンはしばらく黙っていた。
昨日、屋敷の門前での出来事を思い出す。エイドリアンに呼び止められ、あの見下すような目で「お前のためを思って」などと言われた。実際は自分が恥をかくのを見たいだけのくせに。
あの時、確かに受けて立つと言った。
「俺が言ったんだ」レオンは認めた。「向こうがどうしても比べたいと言うから、受けた」
「でも……」エヴィルが唇を噛んだ。「ソフィア従姉さんが言ってた。エイドリアン兄さんは四星魔法師で、レオン兄さんは今……」
言葉を濁したが、意味は明らかだった。
家族中が知っている。レオンは「出来損ない」だ。七年間魔力が衰え続け、今では一星魔法学徒にも及ばない。四星魔法師と戦うなど、卵で岩を打つようなものだ。
「ソフィア従姉さんは他に何か言ってたか?」
エヴィルは少し躊躇った。
「みんなが賭けをしてるって……レオン兄さんが何手持つかって」
「ほう? オッズは?」
「……三手以内に負けると、一倍半。十手以内だと三倍。十手以上持ちこたえたら……」
「いくらだ?」
「二十倍」
レオンは思わず笑った。
「みんな、随分エイドリアンを買ってるんだな」
「レオン兄さん!」エヴィルが声を荒げた。「冗談じゃないのよ! どうして受けたの? いくら挑発されても、無視すればよかったじゃない!」
馬車の中が静まり返った。
ルオシーは俯いたまま黙っていたが、ぎゅっと握りしめた両手を見れば、彼女も同じように心配していることが分かる。昨日、彼女もその場にいた。レオンがエイドリアンの挑戦を受けるのを見て止めようとしたが、レオンの目を見て言葉を飲み込んだのだ。
「エヴィル」
レオンが口を開いた。声は落ち着いていた。
「お前は俺を信じるか?」
「……え?」
「聞いてるんだ。俺を信じるか?」
エヴィルは呆然とした。
レオンの目を見つめる。あの碧い瞳は、昨日までとは全く違っていた。以前は灰色の霧がかかったようで、何の光も見えなかった。でも今は、光がある。自信と決意、そしてわずかな鋭さが宿っている。
「私……」
エヴィルは口を開きかけ、「もちろん信じる」と言おうとしたが、それでは軽すぎる気がした。
この七年間、ずっとレオンのそばにいた。かつての天才少年が、一歩一歩家族の笑い者になっていくのを見てきた。嘲笑され、いじめられ、透明人間のように扱われるのを見てきた。何もできなかった。ただ黙って寄り添うことしかできなかった。
でも、彼を信じることを諦めたことは一度もなかった。
世界中が彼を出来損ないと言っても、自分だけは信じている——レオン兄さんは出来損ないなんかじゃない、と。
「信じてる」
エヴィルは真剣に言った。
「みんなが何を言っても、私はレオン兄さんを信じてる」
「それだけで十分だ」
レオンは微かに笑った。
「二ヶ月後、分かるさ」
エヴィルは彼の笑顔を見て、胸の奥で不思議な感覚が湧き上がるのを感じた。何かが、本当に変わったのかもしれない。
『小僧、自信があるのはいいことだ』
オーグリの声が脳裏に響いた。
『老いぼれからも太鼓判を押してやろう。二ヶ月あれば、十分だ』
『本当か?』
『ふん、お前の体内に何があるか忘れたか? 清露薬は第一歩に過ぎん。材料さえ揃えば、その後には集魔精髄、凝元秘薬が控えている。これらの薬剤と修練を組み合わせれば、四星魔法師どころか、五星相手でも戦えるようになる』
『なら、なぜ最初から上級の薬剤を作らない?』
『焦るな。錬金術は段階を踏むものだ。今のお前の体では、上級薬剤の薬効に耐えられん。無理に服用すれば逆効果だ。まずは清露薬で枯れかけた魔力の源泉を甦らせ、土台を固めてから次に進む』
オーグリは一拍置いて、重みのある声で続けた。
『二ヶ月後の家族魔闘会、安心して臨め。この老いぼれがついている。たかが四星魔法師一人、どうにでもなる』
レオンは答えなかったが、口元がわずかに上がった。
このじいさんがいれば、確かに心配することはない。
◆◇◆
馬車は夜の中を進み、車内は静寂に包まれていた。
エヴィルは座席にもたれ、向かいのエルフの少年をそっと窺った。シルは相変わらず隅に縮こまっていたが、さっきほど緊張していないようだった。レオンが傷の手当てをしてくれたからか、馬車の中の温かな雰囲気のせいか——とにかく、肩の強張りが少し解けていた。
「あの……」
シルが突然口を開いた。蚊の鳴くような声だった。
「どうした?」レオンが尋ねた。
「私は……どこに連れて行かれるのですか?」
「俺の家だ」
「それから……?」
「それから?」レオンは少し考えて、「まず風呂に入って、飯を食って、寝ろ。その後のことは、その後だ」
シルは顔を上げ、淡い金色の瞳で困惑したようにレオンを見た。
「でも……私は奴隷です。ご主人様は、私に何の仕事をさせるか、お教えになるべきでは……」
「十歳で何の仕事ができる?」
「十歳はもう小さくありません」シルは俯いた。「前のご主人様は、私のような魔力の才能もない役立たずは、鉱山で石を掘るか、それとも……」
その先は言わなかったが、わずかに震える肩を見れば、「それとも」の後に続く言葉がろくなものではないことは分かった。
「それは前の主人の話だ」
レオンは淡々と言った。
「俺はお前を鉱山に送らないし、そんなくだらないこともさせない。俺のところでは、一つのことだけやればいい」
「何を……すればいいのですか?」
「生きろ」
シルは呆然とした。
「ちゃんと生きて、ちゃんと食べて、ちゃんと眠れ。体を治して、傷を癒せ。他のことは、大きくなってからでいい」
「……どうして?」
シルの声が震えていた。
「どうして……こんなに優しくしてくれるのですか? 私はただの役立たずの奴隷で、魔力の才能もなくて、何の役にも立たないのに……」
「誰がお前を役立たずと言った?」
「前のご主人様が……」
「だから、それは前の主人だと言っただろう」レオンが遮った。「あいつの言葉は、無効だ」
シルは口を開きかけたが、何を言えばいいか分からなかった。物心ついた時から、自分は役立たずだと言われてきた。価値のない物、いつでも捨てられる道具だと。その認識に慣れ、その運命を受け入れてさえいた。
なのに目の前のこの人は、そんな言葉は「無効だ」と言う。
「……分かりません」
シルは小さく呟いた。
「分からなくてもいい」
レオンは椅子にもたれ、窓の外を見た。
「いつか分かる日が来る」
その声は軽く、シルに言っているようでもあり、自分自身に言っているようでもあった。
「どんな出自でも、誰にどう見られても——自分を諦めなければ、まだ希望はある」
馬車は進み続け、車輪が石畳を踏む音が夜の中に響いていた。
シルは俯いたまま、何を考えているのか分からなかった。だがエヴィルは気づいていた。少年が服の裾を握りしめていた手が、少しだけ緩んでいることを。
◆◇◆
馬車がセレストーム家の離れの門前で止まった。
レオンはシルを連れて降り、ルオシーとエヴィルが後に続いた。離れの門番は、レオンの傍らに薄汚れたエルフの少年がいるのを見て驚いた様子だったが、何も言わずに通した。
「レオン兄さん」エヴィルが心配そうに口を開いた。「伯父様には……」
「俺から話す」レオンは落ち着いて答えた。「明日の朝一番に父上に説明しに行く。この件はお前が心配することじゃない」
「でも……」
「でももなにもない」レオンはエヴィルを見た。穏やかだが揺るぎない眼差しだった。「これは俺が決めたことだ。俺が責任を取る」
エヴィルはその目を見て、残りの言葉を飲み込んだ。
このレオン兄さんは、本当に前と違う。以前は何からも逃げていた。誰とも向き合おうとしなかった。でも今は、自分から向き合おうとしている——あの厳格な伯父様とでさえ。
「ルオシー、湯と着替えを用意してくれ」レオンは指示を出した。「俺が子供の頃の服で、まだ着られそうなのがあるはずだ」
「かしこまりました」
ルオシーは一礼して去っていった。
レオンはシルを自分の部屋に連れて行った。小さな部屋で、調度品は質素だ。ベッドと机と椅子が数脚、それに本棚がいくつか。セレストーム家の嫡子の部屋としては貧相すぎるが、「出来損ない」にはこれでも恩恵だった。
シルは戸口に立ったまま、入ろうとしなかった。
「入れ」
「……はい」
少年は恐る恐る部屋に足を踏み入れ、辺りを見回した。目が驚きに見開かれている。奴隷にとっては、この質素な部屋でさえ想像もつかない贅沢なのだろう。
「湯が用意できたら、まず風呂に入れ」レオンは言った。「洗ったら着替えて、ルオシーに何か食べるものを用意させる」
「あ……ありがとう……ご主人様」
「主人と呼ぶな」レオンは眉をひそめた。「何と呼んでもいい。主人以外なら」
シルは困惑した目で彼を見た。主人と呼ばないなら、何と呼べばいいのか。こんな人には会ったことがなかった。
やがて、ルオシーが湯と着替えを持って戻ってきた。シルは風呂に入り、レオンは椅子に座って窓の外の夜空を眺めていた。
半刻ほど経って、シルが風呂から出てきた。
エヴィルは彼を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
銀白色の髪は洗い清められ、燭台の光の下で柔らかく輝いていた。月光が絹になったようだ。白い肌は透き通り、顔立ちは人形のように精緻だった。レオンが子供の頃に着ていた服——白いシャツと紺色のズボン——に身を包んだ少年は、まるで別人のようだった。
体つきはまだ痩せ細っていたが、その俗世離れした気品は隠しようがなかった。
「きれい……」エヴィルは思わず呟いた。
シルはそれを聞いて頬をわずかに赤らめ、俯いた。
「これでいい」レオンは満足そうに頷いた。「これでようやく子供らしく見える」
だが、彼の視線はすぐにシルの首元に移った。白いシャツの襟から、古い傷痕がいくつも覗いている。
「シル、背中の傷は自分で洗えたか?」
少年は一瞬びくりとして、小さく首を横に振った。
「……手が、届かなくて……」
レオンは眉をひそめた。坊市で見たあの傷だらけの肌を思い出す。新しい傷も古い傷もあった。放っておけば化膿するかもしれない。
「ルオシー、傷薬と包帯を」
「はい」
ルオシーが道具を用意する間、レオンは椅子を引いてシルの前に置いた。
「座れ。背中を見せろ」
シルは戸惑った様子で従った。椅子に腰かけ、言われるままにシャツの背中側をたくし上げる。
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
エヴィルが小さく悲鳴を上げた。ルオシーでさえ、息を呑んで立ち尽くした。
シルの背中は——傷だらけだった。
鞭の痕、火傷の痕、刃物で切られた痕。古いものから新しいものまで、幾重にも重なり合っている。白い肌の上に刻まれた無数の傷痕は、この少年がどれほど過酷な扱いを受けてきたかを雄弁に物語っていた。
レオンは何も言わなかった。ただ静かに傷薬を手に取り、一つ一つ丁寧に塗り始めた。
「っ……」
シルが小さく身を震わせた。薬が傷に染みるのだろう。だが、声は上げなかった。きっと、痛みに声を上げることすら許されなかったのだ。
「痛かったら言え」
「……大丈夫、です」
レオンは黙って手を動かし続けた。傷薬を塗り、清潔な布で拭き、包帯を巻く。淡々とした作業だったが、その手つきは驚くほど優しかった。
背中の中ほどまで来た時——レオンの手が止まった。
「これは……」




