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第2話 二歳の知恵遅れ


実を言うと、レオン・セレストームが生まれた時、誰も彼を知恵遅れだなんて呼ばなかった。


むしろ逆だった――一時期は、セレストーム家百年に一度の天才だと囃し立てられていたのだ。


二年前、侯爵夫人の胎から出てきた時、産婆たちは度肝を抜かれた。


泣かないのだ。


生まれたばかりの赤子が、じっと目を開けたまま、周りの世界を眺めている。その目つきときたら――後に女中たちが囁き合った話によれば――「まるで老人が何か珍妙なものでも見るような目だった」そうだ。


生活のリズムは、どんな赤子よりも規則正しかった。毎日決まった時間に起き、決まった時間に口を開けて乳を飲み、決まった時間に眠る。あやす必要もなければ、抱く必要もない。泣くことすらほとんどなかった。


揺り籠の脇にある鈴を鳴らすことも、すぐに覚えた。


やがて女中たちは、鈴の音が鳴れば、おむつを替えるか授乳の時間だと悟るようになった。


「天才ですわ!」


「坊っちゃまはきっと天才に違いありません!」


「こんなに小さいのにこんなに賢いなんて、将来は必ずや家門の誇りとなられるでしょう!」


館中がそう囃し立てた。


侯爵である父レイモンドは常に政務と軍務で忙しかったが、たまに息子を見に来た時は、その鋭い目に満足の色を浮かべていた。


母エレノアはもっと分かりやすかった。会う人会う人に、四男がいかに賢いかを自慢していた。


だが、残念ながら。


「天才」という二文字は、彼の頭上から半年も経たずに色褪せた。


なぜなら――レオンは喋らなかったからだ。


   ◇


同じ年頃の子供たちがもう片言で「パパ」だの「ママ」だの言い始める頃になっても、侯爵夫人がどれだけ懸命に教えても、レオンの口からは一音節も出てこなかった。


彼はただ黙って、その黒い瞳で周囲を見つめているだけだった。


侯爵夫人は数え切れないほどの医者を呼んだ。


薬草、魔法、光明神殿の祝福――ありとあらゆることを試した。


無駄だった。


「奥方様、坊っちゃまのお身体には何の異常も……」


医師たちは顔を見合わせた。


「もしかしたら……言葉が遅いだけかもしれません」


「多くの子供は話し始めるのが遅いものです、ご心配なさらず……」


だが一歳が過ぎた。一歳半が過ぎた。


それでもレオンは一言も喋らなかった。


やがて、館の空気が変わった。


「残念ね、天才だと思ったのに、唖だったなんて」


「唖の方がまだマシよ。唖なら少なくともうめき声くらい出すもの。坊っちゃまときたら、まるで石ころみたい」


「ああ、侯爵様も奥方様もお可哀想に。三人のご子息があんなに優秀なのに、四男坊だけが……」


女中たちは、レオンが分からないと思って、目の前で平気でそんなことを言った。


だが――


彼は全部聞いていた。


そして、気にしていなかった。


少なくとも、表面上は。


   ◇


**――ここまでが、三ヶ月前の話だ。**


夜が深い。


窓の外には満天の星が煌めいている。天の川が淡い光の帯となって、夜空を横切っていた。


こんな星空、前世で秋田の田舎にいた頃しか見たことがない。


俺の名前は……まあ、前世の名前なんてもうどうでもいい。


今は、レオン・アルドウィン・セレストーム。


セレストーム侯爵家の四男。


今年で、ちょうど二歳になった。


そう――俺は、転生者だ。


前の瞬間まで東京の橋の上でバイクに乗っていた。夜風が襟元に吹き込んで、川面が煌めいていた――


次の瞬間には、生まれたばかりの赤子になっていた。


目を開けると、薄暗い蝋燭の光、石造りの天井、そして中世風の服を着た女中たちの顔。


この現実を受け入れるまで、長い時間がかかった。


さらに長い時間を、あの夜に起きたことを消化するために費やした。


俺は……死んだのか?


あっちの親父と親母は……今頃どうしているんだろう?


病院のベッドで、もう魂の抜けた俺の身体を見守っているのか?


それとも、もう……


そこまで考えると、何も言いたくなくなった。


何を喋る? この連中に、俺が異世界から転生してきたって説明するのか? 秋田の田舎で育って、仙台の大学を出て、東京で五年働いていたサラリーマンだったって話すのか?


意味がない。


俺はただ静かに過ごして、この世界がどういうものか見極めたかっただけだ。


だから、俺は喋らなかった。


   ◇


そう思っていた――あの雨の夜まで。


三ヶ月前。


嵐が街を襲った。


雷鳴が轟き、豪雨が叩きつける。


俺は女中の目を盗んで、部屋から這い出た。


中庭の真ん中に立って、夜空を裂く稲妻を見上げた。


雨が容赦なく降り注いで、この小さな身体を叩きつける。冷たくて、震えが止まらなかった。


それでも外に出たかった。


息が詰まっていたんだ。


この雨で、心の中のごちゃごちゃしたものを全部洗い流してほしかった。


秋田の実家の夏を思い出した。


台風が来ると、親父が俺を抱いて家の中に入れてくれた。親母がきりたんぽ鍋を作ってくれて、家族で囲んで食べた。外は風雨が荒れ狂っているのに、家の中は暖かかった。


卒業して東京に出た年のことも思い出した。親母が車を追いかけて走ってきた。手にはいぶりがっこの袋を掲げて、「道中で食べなさい」って叫んでいた。


深夜まで残業したアパートのこと、バイクの後ろに誰も乗せたことがないこと、居酒屋の生ビール、あの橋で最後に見た煌めく川面――


「ああああああああっ――!」


悲しいのか怒っているのか分からない。俺は空に向かって叫んだ。


二年だ。


この身体が生まれて二年、俺は黙り続けた。


思慕も、悔しさも、困惑も、怒りも、全部がその瞬間に爆発した。


雷鳴が轟いた。


まるで俺の叫びに応えるように。


女中たちが俺を見つけた時には、もう全身が冷え切って、唇が紫色になって、意識を失っていた。


   ◇


目が覚めてから、女中たちが教えてくれた。


母上が駆けつけて、その場で気を失ったこと。


医者が慌てて薬を飲ませ、魔法使いが次々と治癒術をかけたが、どれも効かなかったこと。


俺の身体がどんどん冷たくなっていったこと。


母上が発狂したように光明神殿へ走り、祭司を連れてきて祝福術をかけてもらったこと。そして母上自身は神像の前で一晩中跪いて、ずっと俺のために祈り続けたこと。


一晩中。


膝は青紫に腫れ上がり、喉は嗄れるまで泣いた。


翌日、ようやく俺の身体が温かさを取り戻した。


でもそれからまた二日二晩、意識が戻らなかった。


その間、母上はほとんど食べも寝もせず、ただ俺を抱いたまま、一歩も離れなかった。


   ◇


目を覚ました時、見たのは憔悴しきった顔だった。


かつて気品に満ちていた侯爵夫人は、目が窪み、顔色は蝋のようになっていた。それでも俺に笑いかけていた。


「レオン、やっと目を覚ましてくれたのね……」


声は嗄れて、紙やすりみたいだった。


「お母様、怖かったわ……」


その瞬間、秋田の実家の親母を思い出した。


俺が病気の時も、こうだった。


徹夜で看病して、薬を煎じて、タオルで額を冷やして、体温を測って、目を真っ赤にしても休もうとしなかった。


俺が出ていく時、車を追いかけて走った。


俺が残業してる時、電話してきて「ちゃんと食べてる?」って聞いた。


俺は「忙しいから、また今度」って言った。


親母は「そうね、仕事が大事よね、身体に気をつけてね」って言った。


それから……


それからはもう、ない。


鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなった。


転生してから初めて、涙が出た。


自分のためじゃない。


もう会えない人を思い出したから。


そして目の前のこの女性――見ず知らずなのに、俺のために一晩中跪いてくれたこの女性のためだ。


「かあ……さま……」


口を開いた。


声は嗄れて、不明瞭で、途切れ途切れだった。


でも確かに、一音節出た。


母上の身体が硬直した。


「今……何て……?」


「母様……」


今度は、少しはっきりした。


彼女の涙が一気に溢れ出て、俺を抱きしめて号泣した。


「喋った! レオンが喋ったわ!」


「早く! 早く侯爵様にお知らせして! 坊っちゃまが喋られましたわ!」


館中が沸き立った。


   ◇


あの日から、俺は黙るのをやめた。


もう、前世には戻れない。ならば、この世界で生きていくしかない。


前世の俺はもういないだろうが、この世界の母上は、俺が生きる価値のある人だ。


喋り始めた。学び始めた。この家のことを知り始めた。


もちろん、加減はした。


二歳の子供が急に賢くなりすぎたら、面倒なことになる。だから「ゆっくり」学んで、「不器用」に振る舞って、時々わざと間違えた。


それでも三ヶ月経つ頃には、俺の成長は驚異的だった。


館の空気がまた変わった。


「天才だわ! やっぱり天才だったのね!」


「最初から坊っちゃまは並じゃないと思っていましたわ!」


女中たちは競って褒め始めた。まるであんな酷いことを言ったことなんてなかったかのように。


俺は気にしなかった。


   ◇


ある日の午後、俺は中庭で日向ぼっこをしていた。


女中ロッティが俺の隣に座って、絵本を読んでくれている。『勇者と竜の物語』――この世界の子供向けの定番らしい。


「――そして勇者様は、竜の弱点を見抜いて、見事に退治なさいましたとさ」


ロッティが本を閉じる。


「レオン様、どうでしたか?」


俺は少し考えてから、首を傾げた。


「ロッティ」


「はい?」


「竜って、本当にいるの?」


「ええ、もちろんですわ。北の山脈には今でもいるそうですよ」


「そっか」


俺は空を見上げた。雲がゆっくりと流れていく。


「じゃあ……魔法も本当にあるんだよね」


「当然ですわ。レオン様だって、いずれ魔法を使えるようになりますわよ」


「いつ?」


「普通は七歳か八歳で魔力が目覚めますの。でもレオン様は天才ですから、もっと早いかもしれませんわね」


俺は黙った。


魔法、か。


前世にはなかったものだ。


この世界には、俺の知らないことだらけだ。


「ねえ、ロッティ」


「はい」


「この世界のこと、もっと教えて」


「え? 絵本じゃなくて?」


「うん」


俺は彼女を見上げた。


「この国のこと、魔法のこと、外の世界のこと……全部」


ロッティは困ったような顔をした。


「でも、レオン様にはまだ難しいかと……」


「試してみたい」


俺はそう言って、膝の上で両手を組んだ。


「分からなかったら、また聞くから」


ロッティはしばらく俺を見つめた後、優しく微笑んだ。


「……分かりましたわ。では、まずこの国――ベリネト王国のことからお話ししましょうか」


彼女が話し始めた。


王国の成り立ち、貴族の階級、魔法の種類、隣国との関係――


俺は一言も聞き逃さないように、じっと耳を傾けた。


時々質問をする。


「貴族って、何家族くらいいるの?」


「魔法使いは、どこで修行するの?」


「隣の国とは、仲がいいの?」


ロッティは最初は戸惑っていたが、やがて楽しそうに答えてくれた。


二歳の子供にしては、あまりにも的を射た質問ばかりだったからだろう。


やがて夕暮れが近づいた頃。


「レオン様」


「ん?」


「あの……本当に、全部理解できているんですか?」


ロッティが不思議そうに首を傾げた。


「うん。分かるよ」


「……」


彼女はしばらく俺を見つめた後、小さく呟いた。


「やっぱり……レオン様は天才ですわ……」


   ◇


それから数日後の朝。


館全体が慌ただしくなった。


「侯爵様がお戻りになる!」


「急いで準備を!」


「玄関を掃除して! 花を飾って!」


女中たちが走り回っている。


母上も普段着ではなく、華やかなドレスに着替えて、化粧を整えていた。


「父上が……帰ってくるの?」


俺がロッティに聞くと、彼女は嬉しそうに頷いた。


「はい! 侯爵様は三年間、北方の反乱鎮圧に出ておられましたの。やっと凱旋なさるんです!」


三年。


つまり、俺が生まれる前から出征していたのか。


父上は、まだ一度も俺を見たことがない。


そして俺も――


この世界の「父親」に、まだ会ったことがないんだ。


「レオン様も、きちんとした服に着替えましょうね」


ロッティが俺の手を引いて、部屋へ連れて行った。


小さな貴族服を着せられ、髪を整えられ、靴を履かされる。


鏡に映った自分は――


相変わらず、やせっぽちで、色白で、頼りなさそうだった。


「大丈夫ですわ、レオン様。侯爵様はきっとお喜びになりますわ」


ロッティは励ますように言ったが、その声には少し不安が混じっていた。


俺も分かっている。


セレストーム家は武勲貴族だ。


代々、屈強な体格と強大な魔力で戦場を駆けてきた一族。


そんな家に生まれた男子が――


こんな虚弱体質では。


玄関に向かう途中、廊下の鏡に映った自分をもう一度見た。


「……まあ、どうにかなるだろ」


俺は呟いた。


前世でも散々ダメ出しされてきたんだ。


今更、父親に失望されたところで――


驚きはしない。


---



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