第127話 白のローブと千年の問い
「——天才だ」
ゲルハルトの声が審査室に落ちた。
ヨルグが頷いた。
「ああ。正真正銘の——天才だ」
レオンは黙って座っていた。表情は変わらない。ポケットの中のペンダントが、微かに温かい。
沈黙を破ったのはゲルハルトだった。咳払いをし、片眼鏡の位置を直す。
「……では、第二関門——実技審査に移ります」
◆◇◆
実技審査は、一時間で終わった。
ゲルハルトが課題を三つ出した。基礎回復薬ハイルトランクの精製、毒素中和剤アンティドトゥムの調合、そして素材の純度鑑定。いずれも六級の基本技能とされるものだ。
レオンは黙々と作業台に向かった。
オーグリの指示は、筆記の時ほど細かくなかった。手順を一度頭に流し込み、あとはレオン自身の手に委ねた。
『手は教えてやれん。指先の感覚は、お前自身のものだ』
その通りだった。知識は借り物でも、蒸留管を傾ける角度、火力を微調整する指先の繊細さ、薬液の色が変わる一瞬を見極める目——それはレオンの身体でしか成し得ない。
三つの課題すべてを、制限時間の半分以下で完了した。回復薬の純度は規定値の一・五倍。毒素中和剤は規定の三倍の速度で反応した。素材鑑定に至っては、ゲルハルトが用意した十二種の鉱石標本をすべて正確に同定し、うち二つについては教科書に記載のない微量成分まで指摘した。
ゲルハルトは片眼鏡を外した。曇りを拭くふりをして、目尻を拭っていた。
ヨルグは何も言わなかった。ただ、分厚い掌でレオンの肩を一度叩いた。
——六級初級錬金術師。合格。
◆◇◆
受付の娘が白いローブを持ってきた。
真新しい、皺一つない白布。六級の証。
レオンはそれを受け取り、灰色のローブの上から羽織った。
『似合わんな。千年前の一級のローブは、もう少し見栄えがしたものだが』
隅の記録机で、受付の娘がくすりと笑った。——もちろん、オーグリの声は聞こえていない。
◆◇◆
その頃——一階の大広間。
二時間の鐘が鳴った。
筆記審査の部屋から、受験者たちが次々と出てくる。五人のうち、四人は険しい顔をしていた。紙を握りしめ、俯き、足早に廊下を去っていく。
唯一、表情が違ったのはヴェルナー・クライストだった。だがその顔にも余裕はない。眉間に皺を寄せ、唇を引き結んでいる。自信があるのか、不安なのか——本人にもわからない、という顔だった。
廊下に出たヴェルナーは、ふと足を止めた。
受付の近くに、見覚えのある少年の姿があった。——あの生意気な子供だ。だが何かが違う。
灰色のローブの上に、白い布を羽織っている。
白のローブ。
六級初級錬金術師の証。
ヴェルナーの足が止まった。
「——は?」
声が出なかった。二、三秒、少年の姿を凝視して——ようやく、意味を理解した。
自分がまだ筆記審査を受けている間に。あの十五歳の少年は、筆記と実技の両方を突破し、六級に合格していた。
ヴェルナーの顔から血の気が引いた。
他の受験者も気づいた。五十過ぎの白髪の男が足を止め、レオンの白いローブを見た。それから自分の灰色のローブに目を落とした。何も言わなかった。ただ、静かに目を伏せて、大広間を出ていった。
ヴェルナーは何か言おうと口を開きかけた。だが言葉が出てこなかった。十二年の修業。三度目の挑戦。そして隣には、半日で六級を手にした十五歳がいる。
嘲りの言葉は、もう出なかった。
ヴェルナーは黙ってレオンの前を通り過ぎ、正門に向かった。背中が僅かに丸まっていた。
◆◇◆
合格の手続きを済ませたあと、レオンはゲルハルトに尋ねた。
「協会の施設を見せてもらえるか。設備の状態を確認しておきたい」
ゲルハルトは少し驚いた顔をしたが、断る理由もない。
「構いませんが……正直に申しまして、あまりお見せできる状態では」
「構わない」
ゲルハルトが先導し、ヨルグと受付の娘もついてきた。
一階の精製室。二階の素材庫。いずれも設備は古いが、最低限の機能は維持されていた。だが使われている形跡のある作業台は全体の三割にも満たない。埃を被った蒸留器。棚の奥で結晶化した試薬瓶。——衰退の匂いが、どの部屋にも染みついていた。
三階に上がった。
ここは理事室と、その隣にある——広い一室だった。
◆◇◆
「質問壁フラーゲンヴァントです」
ゲルハルトが扉を開けた。
部屋の一面——幅五メートル、高さ三メートルほどの壁面が、羊皮紙で覆われていた。数十枚。古いものは紙が黄ばみ、新しいものでも数年は経っていそうだった。
「錬金術師たちが研究中に突き当たった問題を書いて貼り、他の術師に解決を求める場所です。回答が得られた問題は赤い印を付けて別の棚に移します。ここに残っているのは——」
「未解決のもの、か」
「はい。昔は高位の術師が定期的に回答を書いてくださっていたのですが、五級以上の方が減ってからは。理事のマルガレーテ殿がお一人で時折お答えになる程度で……」
レオンは壁の前に歩み寄った。
羊皮紙の一枚一枚に、様々な筆跡で問題が記されていた。
『メルクリウス精油の長期保存時に白濁化が生じる。原因と対策を求む——七年前記載』
『精製器の内壁に付着する青錆の除去法。通常の洗浄では落ちない——十二年前記載——投稿者:ゲルハルト』
『ハイルトランクの精製時、第三工程で薬液が濁る頻度が高い。温度管理以外の原因を求む——四年前記載』
『乾燥ルナ・ヘルバの粉末が三ヶ月で効力を失う。保存期間を延ばす方法はあるか——九年前記載』
レオンは一枚ずつ、目を通していった。
『ふん……』
オーグリの声が、脳内に響いた。呆れたような、哀しいような。
『メルクリウスの白濁化は銀イオンの光反応だ。錫箔で密封して遮光すれば済む話だぞ。青錆は酢酸と塩で落ちる。ハイルトランクの濁りは素材の含水率が原因で、事前に乾燥工程を入れれば解決する。ルナ・ヘルバは蜜蝋で封をすれば一年は持つ。——どれもこれも、千年前なら見習いが答える程度の問題だ』
『……それだけ人が減ったということだろう』
『ああ。知識の断絶だ。答えを知っている人間がいなくなれば、簡単な問題すら解けなくなる。——錬金術の衰退とは、つまりこういうことだ』
レオンは黙って壁面を見ていた。
問題の大半は、オーグリにとっては初歩だった。だが今の錬金術師たちにとっては、何年も解けない壁になっている。知識が受け継がれなかった結果——簡単な問いが、難問に変わっていた。
レオンは壁面の端から端まで、すべての問題を読み終えた。
そして——壁面の最上段に目が止まった。
一枚だけ、他とは明らかに違う紙があった。
紙は完全に黄変し、端が崩れかけている。インクの色も違う。深い紫——今では製法が失われた古代の墨。
『——エリクシル・プリムスの精製における、第七属性転換点の安定化条件を求む。従来の六属性転換理論では、第七点において必ず崩壊が生じる。この壁を超える理論的枠組みを提示せよ——』
記載日付は、四百年前。
『…………』
オーグリが黙った。
先ほどまでの軽い調子が消えていた。沈黙が長く、重い。
『師匠?』
『……この問いを書いたのは、ワシの弟子の弟子の、そのまた弟子だ。名はもう覚えておらんが——筆跡に見覚えがある。あの紫墨は、ワシの工房から受け継がれたものだ』
『答えは?』
さらに長い沈黙。
『……ある。ワシが生涯の最後に辿り着いた。だが書き残す前に、肉体が尽きた』
レオンは壁面を見上げたまま動かなかった。
周囲では、ゲルハルトが説明を続けていた。
「ああ……その問題は、四百年前に当時の三級マイスターが投稿したものです。以来、帝国中の錬金術師が挑みましたが、誰一人として解けていません。理事のマルガレーテ殿も——『生涯をかける価値のある問い』と仰っていましたが」
レオンはその紙から目を離し、壁面全体を振り返った。
数十枚の未解決の問い。そのほとんどが、千年前なら見習いが答えられる程度のもの。そして一枚だけ、四百年間、誰にも解けない問い。
簡単なものと、途方もないもの。その落差が——今の錬金術の姿そのものだった。
「ゲルハルト」
「はい」
「ペンを借りてもいいか」
ゲルハルトは一瞬きょとんとし、腰の道具帯からインク壺と羽根ペンを取り出した。
「どうぞ。……しかし、何を——」
レオンはペンを受け取った。
壁面の前に立った。




