第99話 金と敵
二時間後。
マルガレーテは精製台の前で、固まっていた。
目の前には、完成したばかりの回復薬剤が二本並んでいた。左が通常の配合で作ったもの。右がシュテルンモースの抽出液——星素を触媒として加えたもの。
通常の回復薬剤は、いつも通りの淡い白濁色だった。
星素を加えたほうは——透き通った碧色に輝いていた。見たことのない色だった。
マルガレーテは両方の薬剤を精密測定用の魔法器具にかけた。有効成分の純度、安定性、持続時間。数値が浮かび上がるたびに、彼女の目が大きくなっていった。
「……嘘でしょう」
有効成分の純度——通常品の三倍以上。
精製の成功率——通常の手順では十本に四本が失敗するが、星素を加えた場合、十本中九本が成功している計算になる。
持続時間——通常品の二倍。
マルガレーテは椅子の背にもたれかかった。指先が微かに震えていた。
この研究成果の意味は、錬金術師であれば誰でもわかる。回復薬剤が普及しない最大の理由は、精製の成功率が低すぎることと、効果に対して価格が高すぎることだった。星素がこの二つの問題を同時に解決する。——回復薬剤が、一般の騎士や冒険者にも手が届くものになる。
「……明らかに誰かがシュテルンモースを買い占めてから、この論考を送ってきている。私の手でシュテルンモースの価値を公認させて、価格を吊り上げるつもりでしょうね」
マルガレーテは腕を組んだ。
「——でも、効果は本物。王都の錬金術にとって、これは間違いなく大きな進歩よ。悔しいけれど、この論考を送ってきた人物には先見の明があった。——一杯食わされた気分だけど、まあいいわ。この発見は本物だもの」
マルガレーテはすぐにシュテルンモースの応用法を冊子にまとめ、全会員に配布する準備を始めた。冊子には注記を添えた——「第一項および第二項の効能は理事が直接検証済み。残りの応用法については、シュテルンモースの在庫不足により未検証」。
◆◇◆
冊子が配布されると、錬金術師協会は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
錬金術師たちは先を争ってシュテルンモースを探し回った。薬材店にはもうない。一般家庭の庭先に飾ってあったシュテルンモースまで買い漁り、わずかに手に入った分で、次々と検証を行った。
百を超える応用法。一つ一つ検証するたびに——一つの例外もなく、効果が確認された。
この知らせは、錬金術師の世界に留まらなかった。
◆◇◆
シュテルンモースの価格が動き始めた。
最初の三日間で、銅貨数枚だったシュテルンモースの価格は銀貨数枚にまで跳ね上がった。十倍の値上がりだ。
そこからさらに加速した。
星素を使った高純度の回復薬剤——これまでの三倍の効果を持つ——が実際に市場に出回り始めると、薬剤師や医師たちもシュテルンモースを求め始めた。需要は爆発的に増えた。だが供給はゼロに等しい。王都中のシュテルンモースは、すでに一粒残らず買い占められていた。
一週間後——シュテルンモースの価格は銀貨数枚から金貨数枚にまで暴騰していた。百倍以上の値上がりだ。
それでも買えない。市場に在庫がないのだから。
一部の貴族は金貨十枚、二十枚という値段を提示してシュテルンモースを探し求めた。特に貴族の夫人たちの間で、星素を含む入浴剤の美容効果が噂になってからは、値段は天井知らずになった。
シュテルンモースの成長期は三年。つまり、向こう三年間、王都のシュテルンモースは極度の品薄が続く。
そしてその三年間——王都のシュテルンモースのほぼ全量を握っているのは、たった一人の十四歳の少年だった。
◆◇◆
ヴァルトシュタイン伯爵邸。
セレーネは寝台の上で、侍女から報告を受けていた。
「お嬢様、大変なことになっております」
侍女の声が、いつになく興奮を帯びていた。
「お嬢様が先日お買い求めになったシュテルンモース——五千ポンド——あれの市場価格が、この一週間で百倍以上に跳ね上がっております。今朝の時点で、一ポンドあたり金貨十枚を超えたと」
セレーネは一瞬、目を瞬いた。
五千ポンド。一ポンドあたり金貨十枚。
「……金貨五万枚以上」
「はい。しかも価格はまだ上がり続けております。一部の貴族は金貨二十枚で買いたいと言っているそうで……」
セレーネは帳の中で、静かに目を閉じた。
(……あの人の仕業ね)
買い占めも、錬金術師協会への論考も、すべてレオンが仕組んだことだろう。シュテルンモースを二束三文で買い集め、その真の価値を公にして、価格を百倍以上に吊り上げた。——しかもセレーネが出した資金は、微々たるものだった。銅貨数枚の苔を数千ポンド買っただけ。それが今、金貨五万枚以上の資産に化けている。
帳の向こうで、セレーネの唇がかすかに動いた。
「……あのシュテルンモースは、レオン殿に届けたもの。利益はあの方のもの」
「お嬢様! ですが、あれはお嬢様のお金で——」
「構わないわ」
セレーネの声は静かだったが、迷いはなかった。
(……あの人は私の病を見抜いて、誰にも治せなかったものを動かしてくれた。それに比べたら、シュテルンモースの代金など)
それに——セレーネの体は、確かに良くなり始めていた。処方箋の薬草を飲み、骨のスープを飲み、レオンが残したポーションの余韻がまだ体の中に残っている。足の痛みは半分になった。手首の痣は薄くなった。
あの少年が言ったことは、一つも間違っていなかった。
夕暮れ。
王都の帝国図書院。
レオンは薬材店での取引を終えた帰り、図書院に立ち寄った。遺跡の地質構造に関する古文書を確認するためだ。
一階の閲覧室に入った時——視界の端に、見覚えのある姿があった。
エヴィゥだった。
白い長裙を纏い、窓際の席で本を広げている。だが何となく心ここにあらずの様子で、ページを捲る手が止まっていた。夕日が横顔を金色に染め、精緻な面立ちはまるで一枚の絵画のようだった。
エヴィゥ・フォン・ヴァイセンブルク。十五歳。ヴァイセンブルク公爵家の令嬢。三つ星後期。——王都でも指折りの実力者であり、誰もが認める才媛だった。
レオンとは幼い頃からの知り合いだった。貴族の子弟が集まる場で何度も顔を合わせるうちに、自然と言葉を交わすようになった。エヴィゥはレオンが「デキソコナイ」と呼ばれていた頃から、レオンの知識の深さには気づいていた。レオンもまた、エヴィゥの明晰さを認めている。——友人だった。レオンにとっては、ただそれだけの関係だった。
レオンはそのまま歩いていった。
エヴィゥは本から顔を上げ、レオンに気づいた。——表情が僅かに明るくなった。
「……レオン」
「久しぶりだな。何を読んでる」
レオンは何気なく向かいの席に腰を下ろした。
◆◇◆
図書院の二階回廊。
影があった。
レイノルドだった。
手すりに手をかけ、一階の閲覧室を見下ろしている。——レオンがエヴィゥの向かいに座り、何か話している。エヴィゥが小さく笑った。レオンと話す時だけ見せる、あの柔らかい表情。
レイノルドの背後に、取り巻きの青年が三人控えていた。いずれも三つ星の武闘派で、レイノルドに月々の金をもらう代わりに従っている連中だ。
「レイノルド様。あの小僧、エヴィゥ嬢と随分親しそうですね。——まるで、待ち合わせでもしていたかのようだ」
取り巻きの一人が囁いた。
レイノルドの拳が白くなるまで握りしめられた。
——家柄で劣っているわけではない。実力で劣っているわけでもない。少なくとも、そう思っていた。レイノルドがエヴィゥに近づこうとした時、エヴィゥはいつも素っ気なかった。目すら合わせてくれないことがあった。
なのに——あの出来損ないには、あんな顔で笑う。
◆◇◆
魔闘会の記憶が蘇った。
あの日のことを、レイノルドは何度も反芻していた。
三つ星の自分が、二つ星のレオンと対戦することになった。——楽勝のはずだった。格が違う。星の数が違う。魔力量が違う。周囲の誰もが、レイノルドの圧勝を予想していた。
レイノルドも、そう思っていた。
だが——蓋を開けてみれば、結果は真逆だった。
レオンの動きは、魔闘会の常識から完全に外れていた。正面から魔力をぶつけ合うのではなく、レイノルドの攻撃を最小限の動きでかわし、魔力の隙間を縫うようにサーキットの弱点を突いてきた。
何が起きているのか理解する前に、レイノルドの足元が崩れた。膝をついた。立ち上がろうとしたが——サーキットの要所を的確に打たれていて、魔力が上手く通らなかった。
審判が試合を止めた時、レイノルドは膝をついたまま、会場の沈黙の中にいた。
——三つ星が、二つ星に負けた。
観客席で、エヴィゥが目を見開いていたのを、レイノルドは見た。驚いた顔。だがそこに浮かんでいたのは、レイノルドへの同情ではなかった。レオンへの——何か別の感情だった。
あの瞬間から、レイノルドの中で何かが壊れた。
◆◇◆
図書館での屈辱は、その傷口に塩を擦り込んだ。
魔闘会では「魔法の相性が悪かった」と自分に言い聞かせることができた。だが図書館では——素手だった。魔法の言い訳すらできない。純粋な体術で、二つ星に組み伏せられた。
しかもその直後、エヴィゥは心配そうにレオンの方を見た。レイノルドの方ではなく。
(……なぜだ)
レイノルドは歯を噛みしめた。
(俺は三つ星だ。家柄だって悪くない。顔だって——エヴィゥにふさわしい男のはずだ。なのに、なぜあの出来損ないばかり——)
そして最近の噂が、さらに怒りを煽った。
レオンがヴァルトシュタイン伯爵家のセレーネの治療に関わっていること。シュテルンモースの買い占めと暴騰の裏にレオンがいるらしいこと。遺跡探索に参加する予定であること。
あの出来損ないが。どこまで調子に乗るつもりだ。
目の下の一階では、レオンがまだエヴィゥと話していた。エヴィゥが何かを指差し、レオンが短く答える。二人の間に流れている空気は自然で、気安くて——レイノルドが何度求めても得られなかったものだ。
「……潰す」
◆◇◆
取り巻きの一人が、低い声で言った。
「レイノルド様、俺たちであの小僧を——」
「駄目だ」
レイノルドは即座に遮った。目は一階のレオンから離さない。
「お前たちが手を出せば足がつく。——エヴィゥに知られるわけにはいかない」
取り巻きたちは黙った。
レイノルドの目に、冷たい光が灯った。
「……内傷を負わせる。外からは見えないように。誰にも気づかれない方法で——あいつのサーキットを壊す」
「しかし、そんなことが——」
「方法はある」
レイノルドは二階の回廊を離れた。取り巻きたちを残して、一人で図書院を出た。
◆◇◆
レイノルドの自室。
机の引き出しから、一枚の黒い名刺を取り出した。
裏に何も書かれていない。表には、蛇が自らの尾を噛む紋章——ウロボロスの印だけが刻まれている。
闇ギルド
王都の裏社会に根を張る闇の組織だ。暗殺、密偵、脅迫、破壊工作——金さえ払えば、大抵のことはやってくれる。貴族の子弟が、表沙汰にできない私怨を処理するために利用することも珍しくない。
レイノルドの家は上級貴族ではないが、それなりの資産はあった。——正確には、レイノルドは親の金を湯水のように使う才能だけは一流だった。
名刺の裏に、短い文を書いた。
——対象:セレリック侯爵家四男、レオン。十四歳。
——依頼内容:サーキットへの内部損傷。外傷は残さないこと。魔闘会の古傷が悪化したように見せること。
——期限:三日以内。遺跡探索の出発前夜までに実行。
——報酬:金貨百枚。成功後に支払う。
ペンを置いた。
金貨百枚。小さな額ではない。だが、あの二度の屈辱を——魔闘会と図書館の、二度の屈辱を晴らすためなら。
安いものだ。
レイノルドは名刺を封筒に入れ、蝋で封をした。




