第10話 婚約解除書
「今日の要求は、三年間延期できます」
リーゼロッテは深呼吸をして言った。
「三年後、あなたがカエルム・アルカナムに来て、私に挑戦してください。もし勝てたら、私は公の場で婚約を解消します。その時にはあなたも成人しているでしょうから、セレストーム侯爵の面目をそれほど傷つけることはないはずです」
彼女は俺を見据えた。
「受けられますか?」
俺は心の中で冷笑した。
三年後に負けても父の名声は今ほど傷つかない、か。だが俺は、おそらく一生この敗北を背負うことになる。この女――本当に容赦ないな!
「リーゼロッテお嬢様」
父が机を叩いて立ち上がった。
「あなたはライアンの状況を知らないわけではないでしょう。彼に何を持ってあなたへ挑ませるというのですか? ここまで彼を侮辱して、何になるというのです?」
暖炉の炎が、広間を赤く照らしていた。壁には、セレストーム家の紋章を掲げた旗が飾られている。
「セレストーム侯爵」
リーゼロッテの声に苛立ちが滲んだ。
「婚約破棄には、必ず誰かが責任を負わなければなりません。侯爵の名誉を守るためでなければ、私は今すぐ婚約を解消し、それを公表します!」
何度も阻まれ、リーゼロッテも限界に達していた。彼女は沈黙する俺に向かって冷たく言い放った。
「侯爵の名誉を守りたいなら、約束を受け入れてください! 三年後か、それとも今か――どちらを選ぶのですか?」
「リーゼロッテ」
俺はついに口を開いた。
「そんなに高圧的にならなくてもいい」
俺は一歩前に出た。
「あなたが婚約を破棄したい理由は分かっている。私ライアンが落ちこぼれで、天才のあなたには相応しくないと思っているからだろう」
広間が静まり返った。
「辛辣なことを言わせてもらうが――」
俺の声が響いた。
「あなたの美貌以外、私にはあなたを評価できるものが何もない!」
リーゼロッテの顔が紅潮した。
「確かにカエルム・アルカナムは強大だ。しかし私はまだ若い。時間ならいくらでもある」
俺は彼女を見据えた。
「私は八歳の時、すでに初級魔法を使いこなし、アルテリア全土から天才と呼ばれた。あなたはどうだ、リーゼロッテ? あなたが八歳の時、何ができた?」
リーゼロッテの顔色が変わった。
「そして十二歳で正式な魔力測定を受けた時――」
俺の声が低くなった。
「確かに私の魔力値は3という最低ランクだった。落ちこぼれと呼ばれるのも当然だ」
広間がざわめいた。
「しかし――」
俺の声が強くなった。
「八歳の時に天才だった私が、なぜ十二歳で突然落ちこぼれになったと思う? 何かが変わったんだ。何かが――」
俺は拳を握りしめた。
「ならば、それを元に戻せばいい。あるいは別の道を見つければいい!」
俺はリーゼロッテを見据えた。
「私が八歳の時に奇跡を起こせたのなら――なぜ十五歳、十八歳で再び奇跡を起こせないと言える?」
普段寡黙な少年の突然の爆発に、広間の全員が呆然とした。
リーゼロッテは唇を震わせた。
俺の言葉に怒りで顔を真っ赤にしたが、反論できなかった。確かに、八歳で初級魔法を使えたのは事実だ。当時のリーゼロッテは、まだ魔法の基礎訓練すら始めていなかった――
「リーゼロッテお嬢様、よく聞いてください」
俺の声が冷たくなった。
「今は魔力値3の落ちこぼれと呼ばれる私でも、必ず這い上がる。そして――その時、あなたは今日のこの瞬間を後悔することになる」
その言葉に、リーゼロッテの身体がわずかに震えた。
「よく言った!」
首座で、父が勢いよく立ち上がった。
「よくぞ言った!」
父の拳が机を激しく叩く。
ドン!
その音が広間中に響き渡り、机の上の羊皮紙が跳ね上がった。
燭台の炎が激しく揺れ、広間に不安定な影を落とす。
「私セレストームの息子は、やはり並の者ではない!」
父の声には、揺るぎない誇りと確信が込められていた。
歯を食いしばって俺を睨むリーゼロッテ。長年甘やかされて育った彼女が、同年代にここまで言い返されたことなどなかった。怒りで頭に血が上り、声が上ずった。
「あなたに私を説教する資格なんてない! 確かにあなたは昔天才だったかもしれない、でも今のあなたは魔力値3の落ちこぼれよ!」
彼女は震える声で続けた。
「八歳の栄光に縋っているだけじゃない! 四年も経って、あなたは何も変わっていない!」
「いいわ」
リーゼロッテの瞳に、決意の光が宿った。
「私は待ってあげる。あなたが再び私を超える日を!」
「三年後、私はカエルム・アルカナムで待っています。本当に実力があるなら、私にどこまでやれるか見せてください!」
「その時もしあなたが私に勝てたら――」
彼女は声を張り上げた。
「私リーゼロッテは、生涯あなたに仕えます。何でもあなたの言う通りにします!」
「もちろん――」
彼女の目が冷たくなった。
「三年後もあなたが相変わらず魔力値3の落ちこぼれなら、その時こそ、婚約解除の書類を書いてもらいます!」
「三年後を待つ必要はない」
俺は冷たく言い放った。
リーゼロッテを無視して振り返り、俺は机へと向かった。
机の上には、羊皮紙と羽根ペン、そして銀の燭台が置かれていた。
俺は羽根ペンを取り、力強く書き始めた。
墨が落ち、筆が止まる。
俺の右手が机上の短剣を素早く抜き、鋭い刃が左の掌を切り裂いた。
鮮血が羊皮紙に滴り落ちる。
血に染まった手のひらが、白い羊皮紙に、真紅の手形を残した。
* * *
**婚約解除合意書**
**婚約当事者:**
甲方:ライアン・フォン・セレストーム
乙方:リーゼロッテ・フォン・クラウゼンブルク
**婚約締結日:**
帝国暦1523年3月15日
**解除理由:**
甲方の意思により、婚約関係を一方的に解消する。
**解除条件:**
一、本婚約は、本書署名の日をもって、正式に解除される。
二、甲方ライアン・フォン・セレストームは、乙方リーゼロッテ・フォン・クラウゼンブルクに対し、いかなる補償も求めない。
三、乙方リーゼロッテ・フォン・クラウゼンブルクは、甲方ライアン・フォン・セレストームに対し、いかなる補償も提供する必要がない。
四、本書署名後、双方は婚約関係から完全に解放され、互いに何の義務も負わない。
五、本解除は、甲方セレストーム侯爵家の単独決定であり、乙方クラウゼンブルク公爵家の承認を必要としない。
六、本書は、甲方の血印をもって、不可逆の効力を持つ。
**宣言:**
本人ライアン・フォン・セレストームは、ここに厳粛に宣言する。
リーゼロッテ・フォン・クラウゼンブルクとの婚約は、本日をもって終了した。
今後、彼女と我がセレストーム家の間には、いかなる関係も存在しない。
**署名:**
ライアン・フォン・セレストーム
**血印:**
[真紅の手形]
**日付:**
帝国暦1526年9月27日
* * *
羊皮紙を手に取り、俺は冷笑し、リーゼロッテの前を通り過ぎる時、それを彼女の前の机に叩きつけた。
「勘違いするな」
俺の声が広間に響いた。
「これは婚約解除の嘆願書ではない」
俺はリーゼロッテを見下ろした。
「私があなたを、一方的に婚約から解放する通告書だ」
「今日から、あなたリーゼロッテは、我がセレストーム家と、何の関係もない!」
「あなた……私を……?」
机の上の血の手形が押された羊皮紙を見て、リーゼロッテの目が大きく見開かれた。
彼女の美貌、才能、そして家柄をもってして、小さな辺境貴族の魔力値3の落ちこぼれに、婚約を解除される?
この突然の展開が、現実のものとは思えなかった。
彼女の脳裏に、理解が追いつかなかった。
(私が、捨てられた?)
(魔力値3の落ちこぼれに?)
(カエルム・アルカナムの後継者候補である、この私が?)
震える手で羊皮紙を取り上げた時、初めて、屈辱という感情が彼女の心を焼いた。
リーゼロッテの呆然とした様子を冷たく見つめ、俺は突然振り返り、父の前に膝をついた。
深く頭を下げ、唇を噛みしめたが、一言も発しなかった。
家族の中では、名目上俺がリーゼロッテを追放したことになる。しかし外に伝われば、誰もそうは思わない。事情を知らない者たちは、リーゼロッテが強大な後ろ盾で、セレストーム家に婚約破棄を強要したと考えるだろう。なぜなら、リーゼロッテの才能と美貌と地位があれば、魔力値3の落ちこぼれ少年など相手にもならないからだ。誰も、俺ライアンが、将来カエルム・アルカナムの院長となる者を離縁する度胸があるとは思わない。そして結果として、父は無数の嘲笑を受けることになる――
跪く俺を見て、その心中を理解した父は、穏やかに微笑んだ。
「私は信じている」
父は静かに言った。
「我が息子が、一生魔力値3のままでいるとは思わない。くだらない噂など、いずれ現実の前に消え去る」
「父上」
目頭が熱くなり、俺は深く頭を下げた。
「三年後――息子は必ずカエルム・アルカナムへ行き、父上のために今日の屈辱を晴らします!」
俺は立ち上がり、迷わず広間の外へと向かった。
リーゼロッテの前を通り過ぎる時、俺の足が止まった。
まだ幼さの残る、しかし冷たい声が響いた。
「三年後――必ず、お前を見つけ出す」
少年の背中が窓から差し込む陽光に照らされ、長い影を作った。
その姿は、孤独で寂しげだった。
リーゼロッテは呆然とその消えゆく背中を見つめた。手にした羊皮紙が、突然とてつもなく重く感じられた――
「三方、もうお引き取りください」
去っていく息子を見送り、父の表情は冷たかったが、袖の中で握りしめた拳は、指が白くなるほどだった。
「リーゼロッテお嬢様」
リーゼロッテは顔色の冷たい父に向かって礼をし、広間を出ようとした。
「セレストーム侯爵、今日のことは――」
「凝核薬もお持ち帰りください」
父が手を振ると、机の上の木箱が冷たく投げ飛ばされた。
レノルドは慌ててそれを掴み、苦笑しながら空間指輪に収めた。
「クラウゼンブルク家のお嬢様」
リーゼロッテたちが出口に差し掛かったその瞬間、澄んだ声が冷たく響いた。
「今日のことを、後悔されませんように」
エヴィルの声だった。
「それと――カエルム・アルカナムを後ろ盾に、好き勝手できると思わないでください」
彼女の声が続いた。
「エーゼル大陸は広い。ステラリアより強い者も、少なくありません」
三人の足が止まり、視線が隅で本を読む紫のドレスの少女に向けられた。
窓から差し込む陽光が少女を包んでいた。まるで俗世に咲く一輪の紫の花のように、清らかで美しく、塵一つ寄せつけない――
三人の視線を感じ取ったように、エヴィルは本から顔を上げた。
透き通った碧の瞳に、突然小さな金色の炎が浮かんだ――
その金色の炎を見た瞬間、レノルドの身体が激しく震えた。恐怖が瞬時に老いた顔を覆った。
震える手でリーゼロッテたちを掴み、逃げるように広間から飛び出していった――
レノルドの異常な行動に、広間の大半の者が戸惑いの表情を浮かべた。
三人の長老は、呆然と扉を見つめていた。
暖炉の炎だけが、静かに燃え続けていた。
* * *
馬車の中は、静寂に包まれていた。
父は窓の外を見ていた。
俺も黙っていた。
やがて、父が口を開いた。
「ライアン」
「はい」
「お前は――本当に勝つつもりか?」
父の声には、不安が滲んでいた。
「リーゼロッテは、カエルム・アルカナムの天才だ。彼女は十五歳で第二核を凝結した」
「お前が彼女を超えるには――」
「分かっています」
俺は静かに言った。
「三年では、足りないかもしれません」
「では、なぜ――」
「でも、父上」
俺は父を見つめた。
「やらなければ、ずっとこのままです」
「ずっと、彼女の婚約者として、彼女の影に隠れたまま」
俺は拳を握った。
「俺は――それが嫌なんです」
父は俺を見つめた。
「お前は――変わったな、ライアン」
「はい」
俺は頷いた。
「あの日から、俺は変わりました」
父は深くため息をついた。
「分かった」
彼は俺の肩に手を置いた。
「ならば、私も全力でお前を支援しよう」
「三年後――お前が彼女の前に立てるように」
俺は父の手を握った。
「ありがとうございます、父上」
馬車は、夕日の中を走り続けた。
車輪が石畳の道を叩く音だけが、規則正しく響いていた。
三年後――
俺は、リーゼロッテ・フォン・クラウゼンブルクの前に立つ。
そして、彼女を超える。
それが、俺の道だ。
【第十章 完】
# 作家留言
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
長い導入部分にお付き合いいただき、感謝しております。
「婚約破棄」という王道展開ですが、できるだけ丁寧にキャラクターの心情を描いてきました。
**鋪墊完成! ここからが本番です!**
次章から修行編スタート。魔力値3の廃物が、どう這い上がるのか?
辺境へ旅立つまでの修業編何話分があります、一緒にレオンの成長を見守っていただけたら幸いです!
楽しんでいただけたら、★5評価をぜひお願いします! m(_ _)m
毎日更新頑張ります!
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