第12-5話「狭間の街の小さな衝突」~朝の名残
朝の匂いが漂ってきた。
焼いたパンの香ばしさ。
温かいスープの湯気。
「……朝食、先に取りましょうか」
ソラが、歩調を合わせたまま言う。
「うん。そうしよう」
食べられるかどうか、少し不安だった。
でも、身体を動かす前に、何かを胃に入れておいた方がいいのはわかっている。
「それから、ギルドですね」
「依頼、受ける?」
「軽めのものを。様子を見て」
淡々としたやり取り。
けれど、その「様子を見て」という言葉に、気遣いが滲んでいた。
「……ありがとう」
小さく言うと、ソラは一瞬だけこちらを見て、静かに頷いた。
「行きましょう、カナタさん」
朝は、何事もなかったように進んでいく。
昨夜と今朝を胸の奥に残したまま。
朝のギルドは、相変わらず静かだった。
昨夜の出来事が嘘みたいに、受付のカウンターには淡々とした空気が流れている。
掲示板に貼られた依頼書。
紙の擦れる音。
低く抑えた話し声。
いつもと、何も変わらない。
……変わっているのは、僕だけだ。
「スライムの発生報告が増えています」
受付のミノリが、いつも通りの声で説明する。
郊外の森。
小規模。
危険度は低。
「数は多くないですが、早めに処理してほしいとのことです」
「わかりました。受けます」
返事は、ちゃんと出た。
声も震えていない。
表情も、きっといつも通りだ。
なのに。
頭のどこかが、薄く霞がかかったみたいに冴えなかった。
ソラが、横で依頼書に目を通す。
「無理はなさらないでください。カナタさん」
その一言で、胸の奥がきゅっと縮む。
「大丈夫……」
自信なさげな答え。
自分でも、それが本音だとわかっていた。
森へ向かう道すがら、足取りは軽いはずなのに、意識だけが遅れている。
風の音。
葉の揺れ。
地面の湿り気。
全部、ちゃんと見えているのに、どこか距離がある。
(……集中しろ)
何度も、頭の中で言い聞かせる。
戦闘は慣れている。
相手はスライムだ。
油断するような相手じゃない。
そう、わかっている。
「前方、います」
ソラの声で、ようやく視線を上げた。
森の影。
地面を這うように蠢く、半透明の塊。
スライムが二体。
「僕が前に出る」
剣を構え、一歩踏み出す。
……はずだった。
ほんの一瞬、今朝の事が脳裏をよぎった。
踏み込むタイミングが、ほんのわずかに遅れた。
視界の端。
別の方向から、もう一体。
気づいた瞬間には、もう遅い。
「カナタさん!」
声が聞こえたと同時に、足元が跳ね上がる。
ぬめった衝撃。
冷たい感触が、脛を包み込む。
「━━っ!」
反射的に剣を振るが、体勢が崩れる。
スライムの体が弾け、けれど完全には弾き切れない。
焼けるような痛みが、遅れて走った。
(しまっ━━)
次の瞬間、ソラの術式が発動する。
淡い光が走り、残りのスライムが一気に消し飛ぶ。
森に、静けさが戻った。
「……カナタさん!」
駆け寄ってくる足音。
視線を落とすと、脛のあたりがやけに熱い。
防具の隙間。
スライムの体液が付着した部分が、赤くただれている。
「くそ……」
膝が、わずかに震える。
「動かないでください」
ソラさんは、すぐに状況を確認する。
表情は冷静だけど、声は少しだけ強かった。
「……考え事をしていましたね」
……図星だった。
「……ごめん」
それ以上、言い訳はできない。
ソラさんは腰のポーチから、小瓶を取り出す。
淡い緑色の液体。
回復薬。
「使います」
栓が外され、液体が患部にかかる。
ひやり、とした感覚のあと、じわりと熱が広がる。
痛みが、内側から押し戻されるみたいに薄れていく。
「……っ」
完全に無痛になるわけじゃない。
でも、立っていられる。
「無茶は禁物です」
「……うん」
短く頷く。
自分が情けなかった。
戦闘で怪我をするのは珍しくない。
でも、原因が自分の心の乱れだとわかっているのが、余計に堪える。
ソラさんは、何も責めない。
ただ、いつもより少し距離を詰めて、歩く位置を調整する。
「今日は、これ以上深入りしないほうがいいですね」
「そうだね……」
返事をしながら、視線を落とす。
朝のこと。
あの沈黙。
あの気配。
全部が、まだ身体のどこかに引っかかっている。
(切り替えろ)
そう思うのに、簡単にはいかない。
森を後にしながら、僕は痛みの残る足を一歩ずつ運ぶ。
戦える。
問題ない。
……でも、心は、まだ追いついていなかった。
それを、ソラだけが、たぶん気づいている。
だからこそ、何も言わない。
その優しさが、今は少しだけ、痛かった。
だからこそ、次は失敗できないと思った。




