第12-4話「狭間の街の小さな衝突」~湯の名残、朝の沈黙
宿へ戻る道は、湯上がりの身体には少しだけ夜気が冷たかった。
石畳に落ちる灯りが柔らかく、街の喧騒はもう遠い。
部屋に入ると、昼間の空気とはまるで違う静けさが広がっていた。
扉を閉めた瞬間、外の音が遮断され、代わりに近くにある“気配”だけがはっきりと浮かび上がる。
ソラの髪は、まだ完全には乾いていなかった。
肩口にかかる銀色の髪が、灯りを受けてわずかに艶を帯び、濡れた名残を残している。
「少し、冷えますね」
ソラが言う声は、昼よりも低く、ゆっくりだった。
湯で緩んだ感覚が、まだ身体の奥に残っている。
「……そうだね」
カナタは頷きながら、無意識に視線を逸らした。
けれど、目を離したはずなのに、意識だけは追いかけてしまう。
濡れた髪の先。
首筋に触れる数本の細い線。
耳元に残る、かすかな湯の香り。
━━っ。
意識瞬間、自分の呼吸がわずかに乱れていることに気づいた。
ソラがテーブルに簡単なお茶と夜食を並べる。
湯気の立つ湯飲みを挟んで向かい合うだけなのに、距離がやけに近く感じられた。
「お風呂、気持ちよかったですね」
ソラさんはそう言って、湯飲みに口をつける。
その仕草ひとつひとつが、いつもよりもゆったりしている。
「うん……すごく」
短く返した声が、自分でも驚くほど落ち着かない。
身体は緩んでいるはずなのに、別のところが妙に張り詰めている。
沈黙が落ちる。
気まずいわけじゃない。ただ、音が少なすぎる。
布が擦れる微かな音。
湯飲みを置く音。
互いの呼吸が、同じ空間に溶けていく。
「寒くありませんか?」
ソラさんが立ち上がり、棚から毛布を取る。
その動きに合わせて、濡れた髪が静かに揺れた。
毛布が肩に掛けられる。
その一瞬、距離が一気に縮まる。
近い。
思っていたより、ずっと。
ソラさんの体温が、布越しに伝わる。
湯の名残の熱と、微かな香りが、胸の奥に落ちてくる。
「……ありがとう」
そう言うのが精一杯だった。
喉が少し乾いている。
「無理しないでください。カナタさん」
耳元で、囁くような声。
優しいのに、近すぎて、心臓が一段強く脈打った。
ソラさんはすぐに離れる。
それなのに、さっきまであった距離の感覚だけが、残像みたいに残ってしまう。
毛布に包まれながら、僕は天井を見上げた。
触れていない。
何も起きていない。
それでも、確かに意識している。
ソラも少しだけ視線を落とし、静かに息を整えているように見えた。
湯で緩んだ身体と、夜の静けさが、距離感をほんの少しだけ甘くしている。
灯りを落とすと、部屋は一層静かになる。
その夜、眠りは浅かった。
夢と現実の境目で、何度もソラの気配を探してしまった。
暗闇の中で、互いの存在だけがはっきりとわかる。
呼吸。
体温。
気配。
何も起きない夜。
それなのに、確実に一歩、踏み込んでしまった夜。
僕は目を閉じながら、そう思っていた。
朝の光は、思ったよりも早く差し込んできた。
薄いカーテン越しの白が、瞼の裏に滲む。
目を覚ました瞬間、カナタはまず━━身体の内側に残る、妙な熱に気づいた。
夢の断片が、まだ頭の奥に絡みついている。
触れていないはずなのに、近くて。
声も、匂いも、体温も。
現実より曖昧で、だからこそ逃げ場のない感覚。
「……」
喉が、乾いていた。
身じろぎをしようとして、ふと違和感に気づく。
布の感触。
下半身に伝わる、はっきりした重みと湿り。
一瞬、思考が止まった。
理解が追いつく前に、胸の奥がひゅっと縮む。
熱が、顔まで一気に上がった。
(━━やってしまった!)
動揺で呼吸が浅くなる。
慌てて布団を引き寄せ、身体を小さく丸める。
(なんで、よりにもよって……)
昨夜のことが、嫌でも脳裏に浮かぶ。
湯上がりの空気。
乾ききっていない髪。
距離が、近くて――何も起きなかったはずなのに。
「……最悪だ……」
小さく呟いた、その声が━━
「カナタさん?」
すぐ隣から、柔らかい声がした。
心臓が跳ねる。
ゆっくりと顔を上げると、ソラがもう起きていた。
身支度を整える途中なのか、肩にタオルを掛けたまま、こちらを見ている。
その視線が、ほんの一瞬だけ。
布団の端に、落ちる。
カナタは反射的に、布団を掴み直した。
沈黙。
ほんの数秒。
けれど、その間に━━全部、伝わってしまった気がした。
ソラの視線は、責めるでも驚くでもない。
ただ、静かに受け止めているように見えた。
それが余計に、逃げ場をなくす。
ソラは、何も言わない。
視線を逸らし、そっと息を整える。
「……顔、洗いに行きましょうか?」
その声は、いつも通り穏やかで。
だからこそ、余計に胸が締めつけられた。
「い、今行く……」
声が、少し裏返る。
ソラは何も指摘しない。
ただ、タオルを一枚、そっと差し出してくる。
「急ぎませんから」
その一言が、静かに刺さった。
カナタは、受け取るときに指先が触れそうになって、慌てて引っ込めた。
触れたら━━何かが、決定的になってしまいそうで。
洗面へ向かう短い距離が、やけに長く感じる。
背中に残る、ソラの気配。
見られていないはずなのに、全部知られているような感覚。
(……どうかしてる)
水で顔を洗っても、熱は引かなかった。
むしろ、身体の奥でじんわりと残り続ける。
鏡に映る自分の顔は、情けないほど赤い。
生前、こんなこと考えたこともなかった。
恋だなんて、縁のないものだと思っていた。
なのに今は。
何もしていないのに、勝手に身体が反応して。
後ろで、衣擦れの音がする。
ソラが、距離を保ったまま、同じように顔を洗っている。
視線は、合わない。
それでも━━
同じ空間にいるだけで、胸の奥がざわつく。
(……これが、恋、なのか)
答えは出ない。
ただ、確実に一線を越えてしまった自覚だけが、静かに残っていた。
何事もなかったように、朝は始まる。
けれど、もう元には戻れない。
カナタは、そう思いながら、濡れた手をぎゅっと握りしめた。
この世界で。
この人の隣で。
自分の心が、どこへ向かおうとしているのか━━
それだけが、はっきりと分かってしまった朝だった。




