第4-3話「狭間の基礎」~満たされる魂、広がる未来
砂の大地を歩き続けていると、ふいにソラが立ち止まった。
「少し休みましょう。ちょうどいい頃合いです」
「頃合い……?」
カナタが首をかしげると、ソラは柔らかな微笑みを浮かべ、ゆっくりと手を差し出した。
「狭間では、砂や光を食べることもできます」
「え……砂を?」
「はい。ただし――」
ソラは指先で、宙をなぞるような仕草をする。
「魂のエネルギーとしては、あくまで応急的なものです。味や食感は、生前の記憶に依存しますから……正直、美味しいと感じにくいでしょう」
カナタは顔をしかめた。
「それ、食事って言っていいんですか……?」
「生き延びるだけなら、です」
ソラはそう前置きしてから、続けた。
「ですが、この世界には“ちゃんとした食べ物”も存在します。魂が必要とするエネルギーを、形として持つ食べ物が」
「形を……?」
その言葉に答える代わりに、ソラは自分の傍らへと手を伸ばした。
何もない空間。
けれど、指先が触れた瞬間、そこに“境目”が生まれたように見えた。
光が、わずかに歪む。
まるで見えない袋の口を開くような、不思議な動き。
「え……? な、何してるんですか?」
カナタが思わず声を上げた、その直後。
ソラの掌が、ゆっくりと引き抜かれる。
そこには――
「……み、かん?」
淡く光を帯びた、一つのみかんが収まっていた。
「これを、食べてみてください」
そう言って、ソラはみかんをカナタの手にそっと置く。
確かな重み。
ざらりとした皮の感触。
ほのかに広がる、懐かしい柑橘の香り。
「え……どうやって……?」
理解が追いつかず、言葉が途切れる。
その瞬間、脳裏に浮かんだのは、病室の天井だった。
点滴の音。
消毒の匂い。
皮を剥かれ、切り分けられた果物。
――自分の手で、果物の皮を剥くことなんて、ほとんどなかった。
「……皮の、剥き方が……わからない……」
小さく呟いた声に、ソラは一瞬だけ目を伏せる。
そして、静かに手を差し出した。
「それなら……私が」
みかんを受け取り、慣れた手つきで皮を剥く。
弾けるような香りが、空気に広がる。
房をひとつ取り、
「あーん」
自然な仕草で、カナタの口元へ運ぶ。
「っ……!?」
顔が一気に熱くなる。
「そ、そんな……恥ずかしい……!」
だが、戸惑う間もなく口に入った果実は――
舌に触れた瞬間――
甘さと酸味が、同時に弾けた。
「……っ」
思わず、喉が鳴る。
噛んだ覚えもないのに、果汁が溢れ、口いっぱいに広がっていく。
――味が、する。
それだけのことなのに、胸の奥が強く揺れた。
生前の記憶が、蘇る。
死期が近づいてからの時間。
胃は受け付けず、固形物は禁止され、口にできるのは水ですら少量だった。
栄養は、腕に繋がれた管から。
透明な液体が、静かに身体に流れ込むだけ。
「食べる」という行為は、いつの間にか許されないものになっていた。
味を想像することすら、苦しくなって。
誰かが果物を食べている匂いだけで、胸が締め付けられた。
――ああ、もう食べられないんだ。
そう理解したまま、
ただ、死を待っていた。
「……」
気づけば、頬を伝うものがあった。
驚いて瞬きをすると、視界が滲む。
涙だと理解するまで、少し時間がかかった。
止めようとしても、止まらない。
理由も分からないまま、ぽろぽろと零れていく。
「……美味しい……」
声が、震えた。
空腹を満たすためじゃない。
生きるための義務でもない。
ただ、“味わっている”という事実が、胸に刺さった。
ソラが差し出してくれた、この一房。
この世界で、初めて口にした味。
――忘れない。
この甘さも、
この酸っぱさも、
涙が勝手に流れた、この瞬間も。
僕は、きっと忘れない。
この世界で、初めて「生きている」と感じた味を。
カナタの肩が、小さく震えているのを、ソラは見逃さなかった。
声をかけるべきか、一瞬だけ迷い――
だが、ソラは何も言わなかった。
代わりに、そっと距離を詰める。
風に揺れる砂の音に紛れるほど、静かな動きで。
驚かせないように、触れるか触れないかの位置に立つ。
「……」
カナタが顔を伏せたまま、涙を拭おうとするのを見て、
ソラは、ためらいがちに手を伸ばした。
指先が、頬に触れる前で止まる。
一拍、置いてから――
ゆっくりと、そのまま肩に手を置いた。
「……無理に、止めなくていいですよ」
声は低く、柔らかい。
「ここでは、泣いても……誰も、困りません」
肩越しに伝わる、かすかな温もり。
押さえつけるでもなく、抱き寄せるでもない。
ただ、“ここにいる”という合図のような手だった。
「カナタの魂は、ちゃんと……今、満たされています」
そう言って、ほんの少しだけ力を込める。
カナタの涙は、すぐには止まらなかった。
けれど、呼吸は次第に落ち着いていく。
しばらくして、嗚咽が小さくなった頃。
ソラは、そっと手を離した。
「……この世界で、初めての味」
ソラは、空を見上げながら静かに言う。
「それを、大切だと思えたこと自体が……カナタさんが、ここに来た意味の一つです」
慰めるための言葉ではない。
評価でも、同情でもない。
ただ、事実を告げるような声音。
カナタは、赤くなった目を袖で拭い、小さく、でも確かに頷いた。
胸の奥に残る、温かさ。
涙と一緒に流れなかったもの。
それを抱えたまま、カナタは、もう一度みかんを見つめた。
「……魂が満たされる、って」
カナタは小さく呟いた。
「食事だけじゃ、ないんですね」
「はい」
ソラは穏やかに頷いた。
「狭間では、人として抱いていた欲求や感情も、すべて魂の記憶として残ります」
一拍置いて。
「安心すること。触れ合うこと。親密さも……その一部です」
カナタは照れたように視線を逸らした。
しばらくして、ふと疑問が浮かぶ。
「……さっきのみかんって、どうやって出したんですか?」
ソラは立ち上がり、先ほど手を伸ばした空間を示した。
「簡単に言えば、“空間に収納していた”のです」
「……空間収納」
思わず、口に出す。
読んできた物語で、何度も見た言葉。
「その状態を維持するには、常に魂を消費します。便利ですが、長時間使えば消耗が蓄積します」
「じゃあ……」
「はい。だからこそ、食事や睡眠が必要なのです」
魂を回復し、安定させるために。
カナタは、少し考えてから、意を決して聞いた。
「……僕も、そういうの……使えるようになりますか?」
ソラは、すぐには答えなかった。
だが、やがて静かに口を開く。
「今は、まだ難しいでしょう」
胸が、少しだけ沈む。
「ですが」
その一言で、心臓が跳ねた。
「教えていくことはできます。魂の扱い方を学び、少しずつ慣れていけば……いずれ、カナタさん自身でも使えるようになるでしょう」
「……!」
ソラは、そこで少しだけ声を和らげた。
「魂の扱い方。消費と回復。イメージの定着。段階を踏めば、カナタさん自身でも“力”を使えるようになるでしょう」
胸の奥が、熱くなる。
(教えてもらえる……!?)
(使えるようになる……!?)
病室の天井しか知らなかった人生。
読むだけだった物語。
想像するだけだった力。
それが――
“いつか、自分の手で使えるかもしれない”未来。
できない、ではない。
“今はまだ”。
それだけで、十分だった。
「めちゃくちゃ、楽しみです……!」
言った瞬間、顔が熱くなる。
子供みたいだ。
でも、止められなかった
ソラは、一瞬だけ目を瞬かせ――
そして、ほんの少しだけ、柔らかく微笑んだ。
「その気持ちは、大切にしてください」
「……?」
「魂の力は、意志と想像に強く引かれます。ワクワクする気持ちも、立派な“燃料”ですから」
カナタは、胸に手を当てる。
まだ、何もできない。
でも――
(できるようになる未来が、ちゃんとある!)
その事実だけで、心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
ソラは、わずかに微笑んだ。
「まずは、街へ向かいましょう」
ソラは遠くを指さす。
砂の向こうに、かすかに見える影。
「休息と登録が必要です。この世界で生きていくための、最初の一歩ですから」
カナタは、力強く頷いた。
胸の中には、不安もある。
でもそれ以上に――
これから始まる人生への期待が、確かにあった。
荒野の先で、街が待っている。
魂が生きるための世界で、カナタの“本当の物語”は、静かに動き始めていた。




