第11-8話「動き出す理由」~最初の循環
宿に戻る頃には、空が少しだけ橙色に染まり始めていた。
湿地帯の空気が抜け、街の匂いが戻ってくる。
人の声。
鍋をかき混ぜる音。
それだけで、肩の力が少し抜けた。
ブレンダの夕食は、肉と野菜の煮込みだった。
香草の匂いが強く、湯気が立ちのぼる。
「今日は外だったんだろ?」
皿を置きながら、ブレンダが言う。
「はい」
「湿地帯です」
「へえ……無事そうで何よりだね」
それだけ言って、深くは聞いてこない。
その距離感が、ありがたかった。
カナタはスプーンを取り、ひと口すくう。
熱い。
ちゃんと、熱いと感じる。
「……おいしい」
「でしょ」
ブレンダは満足そうに頷いた。
食べながら、カナタはふとソラを見る。
「ねえ」
「はい」
「今日さ」
言葉を選ぶように、一瞬だけ間を置く。
「魔物に会った、っていうより」
「ええ」
「魂獣に、会ったんだなって感じだった」
ソラは、静かにスプーンを止めた。
「違いが、分かりましたか」
「うん」
胸の奥に残っている感覚を、探る。
「小説で読んでた魔物じゃなかった」
「はい」
「倒す対象、っていうより……処理する存在、っていうか」
ソラは、小さく頷いた。
「正しい認識です」
「それでさ」
カナタは、少しだけ笑う。
「初めての戦闘訓練もやって」
「はい」
「……最高の一日だった」
その言葉は、思ったよりも自然に出てきた。
怖くなかったわけじゃない。
緊張もしなかったわけじゃない。
でも、それ以上に。
「ずっと、憧れてたんだと思う」
「何に、でしょうか?」
「戦うこと、かな」
ソラは否定しなかった。
「ただし」
「うん」
「憧れと実戦は、別物です」
「分かってるよ」
カナタは、もう一口食べる。
「でもさ」
「はい」
「今日の訓練があったから……明日、行ける気がする」
それは、根拠のない自信じゃなかった。
今日見たもの。
今日感じたこと。
今日、何度も止められた動き。
全部が、ちゃんと残っている。
「問題ありません」
ソラは、そう言って頷いた。
食事を終え、風呂に入る。
湯に浸かると、昼間の感覚が少しずつ溶けていく。
湿った土の感触。
幻影の感触。
核に触れた、あの一瞬。
(……明日だ)
布団に入ると、意識はすぐに沈んだ。
夢は、見なかった。
ただ、深く、静かに眠った。
次の日も、朝は静かに始まった。
門を抜け、再び湿地帯へ向かう。
昨日と同じ道。
昨日と同じ空気。
違うのは、心の中だけだった。
「今日は、実戦です」
「うん」
草むらが揺れる。
昨日と同じように。
けれど、今度は幻影じゃない。
スライムが、そこにいた。
「……行くよ」
「はい」
踏み出す。
昨日より、少し低い姿勢。
視線は、全体。
武器を振る。
触れた瞬間━━
「……っ!」
弾かれた。
思ったよりも、強い反発。
足が滑り、体勢が崩れる。
「っ、く……!」
想定よりも、速い。
核の位置も、見失った。
(……やっぱり、違う!)
幻影よりも、反応が読みにくい。
地面も、足を取る。
一瞬、焦りが走る。
「下がってください」
ソラの声。
「距離を取って」
「……!」
言われた通り、一歩引く。
呼吸を整える。
(違う。幻影と、同じじゃない)
でも━━
「……それでも」
揺れが見えた。
昨日、何度も見た動き。
(反応は、一拍遅れる)
踏み込む。
腰から。
無駄なく。
武器が、中心に吸い込まれる。
「……!」
感触。
昨日と、同じ。
スライムが、大きく歪み、崩れ落ちる。
中心に残る、淡い光。
「核、確認」
「……できた」
カナタは、息を吐いた。
完璧じゃない。
危なかった。
想定外もあった。
それでも。
(ちゃんと、効いてる)
昨日の訓練が。
昨日の指摘が。
昨日の失敗が。
「初実戦としては、十分です」
「……厳しいね」
「現実です」
でも、ソラの声は、どこか柔らかかった。
カナタは、湿地帯を見渡す。
「……でもさ」
「はい」
「やっぱり、楽しい」
その言葉は、もう迷いなく出ていた。
最初の実戦。
最初の失敗。
最初の成功。
冒険は、もう始まっている。
スライムの崩れた跡には、淡い光だけが残っていた。
湿った地面の上で、ほんの小さな光が、脈打つように明滅している。
大きさは、飴玉ほど。
親指と人差し指でつまめるくらいの、丸みを帯びた塊だ。
形はほぼ球体。
色は無色に近いが、よく見ると、内側に淡い青白さが滲んでいる。
「……あれが」
カナタは、無意識に一歩近づいていた。
「魂核です」
ソラは先に膝をつき、視線を落とす。
「思ったより……小さい」
「はい。低級魂獣ですから」
それでも、存在感ははっきりしていた。
落とせば見失いそうなのに、目を離すと不安になる、不思議な光。
「近づきすぎないでください」
「……でも」
「初回ですから」
カナタは足を止める。
胸の奥が、まだ少し騒がしい。
(……倒した)
実感が、遅れて追いついてくる。
剣を振った感触。
弾かれた衝撃。
踏み直した足。
そして、最後の一撃。
幻影じゃない。
想像でもない。
(本当に……やったんだ)
ソラは、ゆっくりと手袋を嵌め、魂核に指先を伸ばす。
触れた瞬間、飴玉ほどの光が、きらりと一度だけ強く瞬いた。
「……生きてるみたい」
「生きてはいません」
ソラは、淡々と答える。
「ですが、魂の情報は保持されています」
「情報……」
「記憶の残滓、感情の痕跡、存在の履歴です」
指先でつまみ上げられた魂核は、やはり小さい。
それでも、軽いとは言い切れない。
「重……」
「見た目より、密度が高いです」
「へえ……」
カナタは、恐る恐る手を伸ばす。
「触ってもいい?」
「はい。ただし、優しく」
指先が、魂核に触れた。
冷たいと思っていた。
あるいは、熱いか。
けれど、どちらでもない。
(……なんだ、これ)
感触は、ほとんどない。
それなのに、確かに“そこにある”と分かる。
指先の奥、もっと内側で触れているような感覚。
「……変な感じ」
「魂に直接触れているからです」
「そっか……」
思わず、指を引っ込める。
「これが……買取対象になるんだよね」
「はい。状態も良好です」
「……状態、って」
ソラは頷いた。
「核に亀裂はありません」
「ってことは」
「循環へ戻せます」
その言葉に、カナタはもう一度、魂核を見る。
飴玉ほどの大きさ。
淡く、静かに光る存在。
「……ちゃんと、終われるんだ」
「はい」
ソラは、静かに続けた。
「この魂は、役目を終えます」
「……そっか」
それは、どこか救われる言葉だった。
「じゃあ」
「はい」
「倒した、っていうより……送った、のかな」
「近い表現です」
ソラは、ほんのわずかに声を和らげた。
「初討伐、おめでとうございます」
「……え」
一拍遅れて、胸の奥が跳ねた。
「え、今それ言う?」
「適切なタイミングです」
「……」
否定しようとして、やめた。
(……嬉しい)
「……ありがと」
声が、少しだけ掠れた。
ソラは何も言わず、魂核を小さな収納具に納める。
「魂核回収、完了です」
「これで……終わり?」
「本日の目的は達成されています」
湿地帯の風が、草を揺らす。
さっきまであった魂獣の気配は、もうない。
「……静かだね」
「はい」
「昨日と、同じ場所なのに」
「処理が完了しましたから」
カナタは、剣を見下ろす。
刃先に汚れはない。
けれど、確かに“使った”感覚だけが残っている。
(これが……最初の一本)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。




