第11-7話「動き出す理由」~憧れが形になる
湿地帯を離れる前、ソラは一度だけ足を止めた。
「帰る前に、少し時間をいただけますか」
「え、なに?」
「今見たスライムをイメージした、戦闘訓練を行いましょう」
カナタは一瞬、目を瞬かせる。
「ここで?」
「はい。実物を前にした直後が、最も理解が定着しやすい状態です」
「……なんか、先生っぽいこと言うね」
「役割ですから」
いつもの調子だ。
けれど、その提案に、カナタは不思議と抵抗を感じなかった。
「本物は相手にしないんだよね?」
「もちろんです。使用するのは、幻影です」
「幻影……?」
ソラは小さく頷き、一歩だけ前に出る。
湿った地面の上、何もない空間に向けて、静かに手を伸ばした。
空気が、わずかに揺れた。
目に見えるほど派手な変化はない。
光も、音も、ほとんどない。
それなのに━━
草むらの一角が、ゆっくりと歪んだ。
「……え」
さっきまで何もなかった場所に、半透明の塊が“現れている”。
半透明の塊を前にして、胸の奥が、かすかに熱を持った。
夢で、何度も見た光景だった。
剣を握り、得体の知れない存在と向き合う場面。
敵は曖昧で、動きは記号みたいで、それでも胸が高鳴っていた。
(……ああ)
それと、同じだ。
眠りの中で思い描いてきた“戦いの入り口”。
現実味のなかった憧れが、今、目の前で形になっている。
怖さよりも先に、感情が動いた。
懐かしいような、胸がくすぐったくなるような感覚。
(これ……本当に、始まるんだ)
「うわ……」
思わず、声が漏れた。
そこにあったのは、間違いなくスライムだった。
さっき見た個体と、ほとんど同じ大きさ。
同じ色合い。
同じ、不定形の揺らぎ。
「これが、幻影?」
「はい。正確には、魂術による知覚投射です」
「……普通に、いるように見えるんだけど」
カナタは一歩、近づきかけて、足を止めた。
怖い、というより。
混乱に近い。
「触ったらどうなるの?」
「接触感覚も再現されます。ただし、魂への負荷は最小限に抑えています」
「……すご」
思わず、感心する。
小説やゲームで見てきた“幻影”とは、明らかに違う。
これは、ただの映像じゃない。
そこに“存在している感覚”そのものが、投影されている。
「感動しているところ申し訳ありませんが」
「うん?」
「訓練を始めます」
ソラは淡々と告げた。
「まず、武器を構えてください」
「……了解」
武器を握った瞬間、胸の奥が、きゅっと鳴った。
重さ。
冷たさ。
手に伝わる、確かな存在感。
夢の中では、いつも曖昧だった。
剣を振っても、手応えはなくて、ただのイメージだった。
でも、これは違う。
(……ちゃんと、持ってる)
理由もなく、口元が緩みそうになるのを、必死で抑えた。
今は訓練だ。
浮かれる場面じゃない。
それでも。
(ずっと、こういうのに憧れてたんだ)
カナタは腰の武器に手を伸ばす。
まだ慣れない感触。
けれど、握った瞬間、少しだけ気持ちが引き締まった。
「相手は、低級魂獣スライムを想定しています」
「さっきのやつだね」
「はい。ですが、これは“動く教材”です」
スライムの幻影が、わずかに揺れた。
こちらを認識したように、体表が歪む。
「最初は、動かずに観察してください」
「攻撃しない?」
「しません。まず、視線です」
カナタは、じっと幻影を見つめた。
中心。
輪郭。
揺れ方。
反応の遅れ。
「……なんか」
「はい」
「本物より、ちょっと分かりやすい気がする」
「意図的に、情報を強調しています」
ソラは一歩引いた位置から、冷静に見ている。
「スライムは、刺激に対して即座に反応します」
「うん」
「ですが、その反応は常に一拍遅れます」
「……あ」
言われてみれば。
揺れが、わずかに遅い。
「その遅れが、攻撃の余地です」
「なるほど」
ソラは頷く。
「では、次。軽く、踏み込みを」
「軽く?」
「はい。本気で当てる必要はありません」
カナタは一歩、前に出る。
武器を振り上げ━━
「止めてください」
「え?」
即座に、ソラの声が飛んだ。
「今の踏み込みでは、核に届きません」
「まだ振ってないんだけど」
「動きの準備段階で分かります」
カナタは、少し気まずそうに肩をすくめた。
「……どこがダメ?」
「重心が高いです」
「高い?」
「はい。足先だけで動いています」
ソラは、カナタの足元を指す。
「それでは、反応された瞬間に弾かれます」
「……確かに」
言われると、納得する。
さっき見たスライムは、ただの塊に見えて、実際には弾力があった。
「もう一度。今度は、腰から」
「了解」
意識を変える。
地面を踏みしめる感覚。
沈む土。
草の抵抗。
今度は、少し低く構える。
「その姿勢で、振りを入れてください」
「いくよ」
武器が、幻影のスライムに触れた。
ぶに、とした感触。
思わず顔をしかめる。
「うわ」
「集中してください」
「はい」
刃は、幻影の内部に沈み込む。
だが━━
「止めてください」
「また?」
ソラの声は、変わらず冷静だった。
「今の攻撃は、核を外しています」
「え、どこ?」
「中心から、やや右です」
「……分かるの?」
「はい。揺れ方が違います」
スライムの幻影が、わずかに歪む。
確かに、中心がずれている。
「核は、常に中心にあるとは限りません」
「動くんだ」
「はい。刺激に応じて、位置を変えます」
ソラは続ける。
「ただ“真ん中を狙う”では不十分です」
「……難しいな」
「ですが、観察すれば追えます」
カナタは、武器を引き戻す。
一度、深く息を吐いた。
呼吸は必要ない。
けれど、そうすることで、気持ちが整う。
「もう一回」
「どうぞ」
今度は、スライム全体を見る。
揺れ。
収縮。
内部の光。
「……ここだ」
踏み込む。
低く。
無駄なく。
武器が、再び幻影に触れる。
「……!」
今度は、感触が違った。
中心部に、わずかな抵抗がある。
「止めてください」
ソラが手を上げる。
「今のは?」
「良好です」
「ほんと?」
「はい。核に触れています」
カナタは、思わず笑った。
「やった」
「まだ、破壊はしていません」
「分かってるって」
ソラは、わずかに頷く。
「ただし」
「うん?」
「次に同じ動きができるとは限りません」
「……厳しいね」
「現実です」
指摘されるたびに、動きを止められる。
思うようにいかない。
それなのに━━
胸の奥は、不思議と静かだった。
悔しさよりも、落胆よりも。
(……楽しい)
夢で見ていた戦いは、もっと派手で、もっと簡単だった。
でも、現実は違う。
考えて、観て、修正して。
一歩ずつ、正解に近づいていく。
それが、どうしようもなく面白かった。
(もっと、やりたい)
その気持ちを、言葉にするのはやめた。
言わなくても、きっと伝わっている気がしたから。
幻影のスライムが、再び形を変える。
今度は、さっきよりも速い。
「反応速度を上げます」
「え、ちょ」
「訓練ですから」
カナタは、慌てて構え直す。
動きが、読みにくい。
「焦らないでください」
「言われてもさ」
「視線が近すぎます」
また、指摘。
「全体を見てください」
「全体……!」
一歩、引く。
距離を取る。
スライム全体が、視界に入る。
「あ」
揺れが、見えた。
「今です」
「……!」
踏み込む。
振る。
止める。
「終了です」
ソラの声と同時に、幻影がふっと薄れた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
カナタは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……はぁ」
「お疲れさまでした」
「疲れるんだね、これ」
「魂を使っていますから」
武器を下ろす。
腕が、少し重い。
「でも」
「はい」
「なんか……分かった気がする」
ソラは、静かに頷いた。
「それで十分です」
「え、もう?」
「今日の目的は達成されています」
湿地帯の風が、草を揺らす。
さっきまで感じていた緊張が、少しだけ抜けていく。
「幻影、すごかった」
「必要な技術ですから」
「……あれで練習できるなら、本番も何とかなりそう」
「慢心は禁物です」
「そうだね」
それでも、カナタの表情は明るかった。
初めて見た魂獣。
初めて振るった武器。
初めての訓練。
すべてが、まだ始まったばかりだ。
けれど━━
「帰ろうか」
「はい」
来た道を、二人で引き返す。
今度は、足取りが少しだけ軽かった。
次は、実際に倒す。
その覚悟が、静かに芽生えていた。




