第4-2話「狭間の基礎」~呼吸と食事
砂の大地を踏みしめながら、カナタはふと足を止めた。
風が砂を転がし、淡い光の粒が宙を漂っている。
「……ソラ。この世界では、呼吸って必要なんでしょうか?」
自分でも少し間の抜けた質問だと思った。
けれど、歩いて、話して、考えている今の感覚が、生前とあまりにも近すぎて――逆に、不安になったのだ。
ソラは足を止め、砂煙の向こうからカナタを見つめる。
首をわずかに傾け、空色の髪が光を受けて揺れた。
「必要……と言えば、必要ではありません」
「え?」
「ですが、魂が“そうあるものだ”と覚えているため、自然と再現されているのです」
カナタは思わず、自分の胸に手を当てた。
確かに今も、呼吸をしている感覚はある。
生前、呼吸は生きるために不可欠な行為だった。
息を止めれば苦しくなり、空気がなければ死ぬ。
だが――ここでは違う。
体は動き、声も出る。
それなのに、空気が本当に存在しているのかどうか、確信が持てない。
「じゃあ……」
カナタは少し考えてから言った。
「試しに、息を止めたらどうなりますか?」
ソラは否定も肯定もせず、静かに促す。
「やってみてください。それが一番、分かりやすいでしょう」
カナタは言われるまま、そっと息を止めた。
――数秒。
胸の奥が、じわりと詰まる感覚。
苦しい……ような気がする。
だが、生前のような切迫感はない。
命が脅かされているという実感が、どこにもなかった。
「……苦しい気はする。でも、死にそう、って感じじゃない」
正直な感想が、そのまま口からこぼれた。
ソラは小さくうなずく。
「それが、この世界の自然な状態です。魂が“呼吸を止めると苦しい”と記憶しているため、その感覚だけが再現されています」
「再現……」
「はい。本来、魂そのものに呼吸は必要ありません」
不思議な話のはずなのに、その言葉はすっと胸に落ちた。
「痛みも、同じです」
ソラは続ける。
「狭間では、本来なら肉体の損傷というものは存在しません。血が流れることも、臓器が壊れることもありません」
カナタは無意識に、自分の腕を見下ろした。
「ですが」
ソラは静かに言葉を継ぐ。
「魂が“傷ついた”と認識すれば、その通りの感覚が生じます。痛みも、出血しているように見える現象も、すべて魂の投影です」
「……じゃあ、血は――」
「実体としては存在しません。ただ、魂が必要だと判断すれば、そう見え、そう感じるのです」
カナタはゆっくりとうなずいた。
「生前の感覚を、魂が再生してる……」
「ええ。魂は、とても記憶力がいいのです」
ソラは、わずかに微笑む。
「だから、ここでは“体が壊れる”という概念は、すべて魂の状態に依存します」
砂を踏みしめる音が、やけに大きく響いた。
「じゃあ……」
カナタは、少し間を置いてから尋ねた。
「食事は、どうなんですか?」
その瞬間、ソラの表情がわずかに引き締まった。
今までとは違う、はっきりとした真剣さ。
「食事は、とても重要です」
「体のため、じゃないですよね?」
「はい。魂のためです」
カナタは、黙って続きを待つ。
「狭間において、食事は魂へのエネルギー補給になります。体を維持するためではなく、魂を保つために必要な行為です」
「魂を……保つ」
「食事を怠れば、魂に供給されるエネルギーが不足します。すると、魂は少しずつ摩耗していきます」
背筋に、冷たいものが走った。
「空腹で倒れる、とかじゃなくて……?」
「ええ。ここでは餓死という概念はありません」
ソラは静かに告げる。
「最終的には、魂そのものが崩れ、消えていきます。“魂死”と呼ばれる状態です」
カナタは、言葉を失った。
魂が、死ぬ。
それは、転生も、その先も――何も残らないということだ。
「だからこそ」
ソラは続ける。
「狭間で存在を保つ以上、食事は選択になります。ただ生き延びるためではなく、魂をどう扱うか。その意思が問われるのです」
カナタは、揺れる地平線を見つめた。
「……分かりました」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「ここでは、食べることが……魂を生かすことなんですね」
ソラは、ほんの少しだけ柔らかく微笑んだ。
「はい。形は違いますが、本質は同じです」
二人は、再び歩き出す。
砂煙が揺れ、風が頬を撫でる。
光も、音も、感触も――すべては魂が選び、再現している世界。
呼吸も、痛みも、食事も。
ここでは、体ではなく魂が主役だ。
カナタは、静かに理解していった。
この世界で生きるために必要なのは、肉体の強さじゃない。
自分の魂を、正しく知ること。
ソラの声が、穏やかに背中を押す。
「狭間では、魂の在り方がすべてを決めます。あなた自身を知ること。それが、最初の一歩です」
揺れる地平線の向こうに、まだ見ぬ試練が待っている。
それでも――
カナタの胸にあったのは、混乱ではなく、知りたいという静かな衝動だった。




