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第10-8話「続けられる日々」~夜が静かに降りる

夜の食堂を出ると、宿の中は昼とはまるで別の顔を見せていた。


人の気配は薄れ、足音は木の床に吸い込まれるように静かに響く。

壁に掛けられたランプの灯りが、廊下を淡く照らし、揺れる影がゆっくりと伸び縮みしていた。


カナタは、無意識に腹部に手を当てる。


具だくさんのシチューの余韻が、まだ体内に残っている。

肉の旨味と野菜の甘み、温かさが混ざり合い、身体の芯をじんわりと満たしていた。

満腹感よりも、落ち着きに近い感覚だった。


「……食べ過ぎたかな」

「量は、適切でしたよ」


隣を歩くソラは、歩調を合わせながら静かに答える。


部屋着の裾が揺れ、湯上りの名残を感じさせる柔らかな香りが、かすかに漂っていた。


階段を上り、二階の廊下へ。


この時間帯になると、他の客の姿もほとんどない。

遠くの部屋から、低い話し声が一瞬聞こえたが、それもすぐに途切れた。

部屋の前でソラが鍵を取り出し、音を立てないように扉を開ける。


中に入ると、外気とは遮断された、こもった温もりが迎えた。

昼間に蓄えられた暖かさが、まだ壁や床に残っている。

扉を閉める音が、やけに小さく感じられた。


「……落ち着く」

「はい。この宿は、夜になると特に」


ソラは窓に近づき、外の様子を一度確認してから、冷気が入りすぎないように木枠を調整する。

続いてランプの芯を少し下げ、明かりを柔らかくした。部屋の輪郭が、眠るための色に変わっていく。


カナタはベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。

一日の疲れが、ようやく表に出てきたようだった。

湯の熱はすでに引いているが、身体の奥には、まだ微かな温もりが残っている。


(……ちゃんと、一日を終えた)


何かを成し遂げたわけではない。

大きな出来事があったわけでもない。

それでも、風呂に入り、食事をして、今こうして休もうとしている。

それだけのことが、今のカナタには確かな実感だった。


ソラは椅子に腰を下ろし、視線を落とす。

直接見つめることはしないが、意識は常にこちらに向いている。呼吸の間隔、体温、魂の揺れ。

必要以上に触れず、だが見逃さない距離。


「……ソラ」

「はい」


呼べば、即座に返る。

その事実が、今夜は妙に心に染みた。


「今日さ、いい一日だったね」

「ええ。そうですね」


短いやり取り。

だが、それ以上の言葉は必要なかった。


カナタはベッドに横になり、天井を見上げる。

木目に沿って、ランプの光がゆっくりと揺れている。


「……前はさ」

「はい」

「夜になると、ちょっと怖かった」


自分でも意外なほど、言葉は素直に出てきた。


「目を閉じると、次に開ける保証がない気がしてさ」

「……そうですね」


ソラは否定しない。

その沈黙が、嘘のないものだと分かる。


「でも、今日は……」

「今日は?」

「ちゃんと、寝ていい気がする」


ソラは、ほんのわずかに表情を緩めた。


「それは、とても良いことです」

「そう?」

「はい。休める、というのは、信頼と安心ですから」


誰かに預ける信頼。

場所に身を委ねる信頼。

そして、自分の存在を、今ここにあるものとして受け入れること。


カナタは、ゆっくりと目を閉じた。


「……おやすみ、ソラ」

「おやすみなさい、カナタさん。よく休んでください」


呼吸が、少しずつ規則正しくなっていく。

肩の力が抜け、身体がベッドに沈み込む。


ソラはその様子をしばらく見守ってから、静かに立ち上がった。

毛布を軽く整え、カナタの肩口に掛け直す。

起こさないよう、動きは最小限だった。


自分のベッドに戻り、腰を下ろす。

首元のネックレスに、無意識に指先が触れる。


夜は、まだ深い。

外では風が木々を揺らし、遠くでどこかの扉が軋む音がした。


今日という日は、もう終わる。

だが、失われたものは何もない。

残ったのは、身体に刻まれた温もりと、共有した時間。


そして、静かに続いていく夜。


ソラは目を閉じず、ただそこにいる。

眠る者を起こさないように。

夜が朝へ変わる、その瞬間まで。

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