第10-7話「続けられる日々」~湯が冷めたあとで
廊下を進むにつれて、身体に残っていた湯の熱が、少しずつ引いていくのが分かった。
それでも完全には消えない。
肌の奥に、まだ微かな温もりが残っている。
カナタは歩きながら、自分の呼吸を意識していた。
深く、ゆっくり。
さっきまでのふわつきは治まっているが、頭の奥にだけ、ぼんやりとした余韻がある。
(……湯あたり、だったんだよな)
そう結論づけようとする。
けれど、胸元に顔を埋めた瞬間の感触と、匂いが、どうしても脳裏に浮かぶ。
石鹸と湯が混じった、やわらかな香り。
近すぎる距離。
触れてはいけないはずなのに、確かに心地よかった記憶。
「……」
何も言わずにいると、ソラが隣を歩く。
足音は静かで、歩幅も合わせてくれている。
先ほどと変わらない様子に見えるが、視線は前を向いたままだ。
(……気にして、ないのかな)
そう思う一方で、少しだけ寂しさのようなものも湧く。
気にしなくていい出来事だった、と割り切られるのが、正しいはずなのに。
部屋の前に着き、ソラが鍵を開ける。
扉が閉まると、宿の静けさが、よりはっきりとした。
「少し、横になりますか?」
ソラが先に口を開いた。
「うん……少しだけ」
カナタはベッドに腰を下ろし、そのまま仰向けになる。
天井を見上げると、昼下がりの光は、もうだいぶ傾いていた。
「無理しないでくださいね。今日は、初めての湯でしたから」 「分かってる。ありがとう」
短い言葉。
それだけで十分だった。
ソラは椅子に腰掛け、タオルを畳みながら、さりげなくこちらの様子を確認している。
視線は直接向けないが、気配は常に届いていた。
(……守られてる、って感じだな)
そう思って、少しだけ安心する。
湯に浸かったことで、身体だけでなく、意識まで緩んだのかもしれない。
「……ソラ」
「はい」
すぐに返る声。
「さっきのこと、さ」
言いかけて、言葉を探す。
どう言えばいいのか、分からなかった。
「……ごめん。変なことになって」
「変、ではありません」
即答だった。
ソラはタオルを置き、こちらを見る。
表情は穏やかで、困った様子もない。
「湯あたりは、誰にでもあります。特に、慣れていない方は」 「……そっか」
それ以上、責める気配もない。
むしろ、こちらを安心させようとしているのが分かる。
「それに」
一拍置いてから、ソラは続けた。
「支えられる距離にいられたので、問題ありませんでした」
「……ありがとう」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
沈黙。
だが、気まずさはなかった。
カナタは、目を閉じる。
まぶたの裏に、湯の白さが蘇る。
熱、浮力、水音。
(……また、入りたいな)
次は、もっと落ち着いて。
ちゃんと順序を覚えて、余裕を持って。
「次も、一緒に行ってくれる?」
思わず、そんな言葉が口をついた。
ソラは、少しだけ目を瞬かせる。
「ええ。もちろんです」
「よかった」
それだけで、十分だった。
時間が、ゆっくりと流れる。
外からは、遠くで人の声がする。
宿の中は、相変わらず静かだ。
「……カナタさん」
呼ばれて、目を開ける。
「今日のこと、覚えていてください」
「え?」
少し意外な言葉だった。
「身体が温まった感覚。呼吸が楽になったこと。重さが抜けたこと」
「……うん」
「それは、今のカナタさんが、ちゃんと“ここにいる”証です」
魂でも、記憶でもない。
今の存在として。
「忘れそうになったら、思い出してください」
ソラの声は、いつもより少しだけ柔らかい。
「あなたは、もう“感じられる”側にいますから」
カナタは、ゆっくりと頷いた。
「……大丈夫、だな」
「はい」
肯定する声が、そばにある。
しばらくして、カナタは自然と眠りに落ちていた。
深く、穏やかな眠り。
夢は見なかった。
ソラは、その様子を確認してから、そっと立ち上がる。
毛布を掛け直し、呼吸のリズムを確かめる。
(……安定しています)
魂の波動は、湯に浸かる前よりも、わずかに整っていた。
ほんの小さな変化。
だが、確実な前進。
窓の外では、光がさらに傾いていく。
昼と夕の境目。
(湯が冷めたあとで、残るもの)
それは、熱だけではない。
身体の記憶。
そして、言葉にしないまま共有した時間。
ソラは椅子に戻り、静かに待つ。
次に目覚めたとき、また一歩、前に進めるように。
部屋には、穏やかな静けさだけが残っていた。
湯の熱が引いた頃、部屋の空気はすっかり落ち着いていた。
窓から差し込む夕方の光が、床に長い影を落としている。
カナタは、ベッドから上体を起こし、小さく息を吐いた。
「……いい時間だね」
「ええ。そろそろ、夕食の時間ですね」
ソラの声は、いつもより少し柔らかい。
風呂上がりの余韻が、まだ完全には消えていない。
カナタは軽く伸びをしてから立ち上がる。
「お腹……減った」
「そう言うと思っていました」
部屋を出て階段を下りると、一階の食堂から、ふわりと温かい匂いが漂ってきた。
煮込みの香り。
肉と野菜が溶け合った、甘くて深い匂い。
「……これは、期待していいやつだ」
カナタが思わず呟くと、ソラは小さく頷いた。
食堂は、それほど広くはない。
木のテーブルがいくつか並び、壁際には棚と暖炉。
夕方の客が集まり始めたばかりで、騒がしさはない。
「おや、ちょうどいいところに」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、女店主のブレンダだった。
エプロン姿で、木匙を手にしている。
「今日はゆっくりできたかい?」
「はい。お風呂も入れました」
「それは何よりだね」
ブレンダは満足そうに笑い、鍋を軽くかき混ぜる。
「今日の夕飯は、具だくさんシチューだよ。肉もしっかり入ってる」
「……楽しみですね」
「育ち盛りみたいな顔してるね」
そう言って、二人分を手際よく用意し始めた。
深皿に注がれたシチューは、湯気を立てている。
大きめに切られた肉。
じゃがいも、人参、豆。
とろりとしたルウが、全体を優しく包んでいた。
焼きたてのパンが添えられ、皿の横には色の濃いサラダ。
「はい、お待ちどう」
「ありがとう」
「熱いから気をつけな」
席につき、カナタはスプーンを取る。
一口すくうだけで、香りが立ち上った。
「……いただきます」
「いただきます」
最初の一口。
「……うま」
声が、自然と漏れる。
肉は柔らかく、噛むとほろりと崩れる。
野菜の甘みが溶け込んでいて、後味が優しい。
パンをちぎり、シチューに浸す。
ルウを吸ったパンが、じんわりと口の中でほどけた。
「染みる……」
「ええ。とても、落ち着く味ですね」
ソラも、静かにスプーンを進めている。
一口ごとに、確かめるように味わっていた
ブレンダが通りがかりに、様子を見て声をかける。
「口に合ったみたいだね」
「めちゃくちゃ美味しいです」
「それはよかった。鍋、空になる前ならおかわりもできるよ」 「……後で頼もうかな」
ブレンダは満足そうに頷き、またカウンターへ戻っていった。
食堂には、スプーンの音と、静かな会話だけがある。
体の奥に、温かさが広がっていく。
「……ねぇ、ソラ」
「はい」
「今日さ、いい一日だったね」
「ええ。そうですね」
特別な事件はない。
戦いも、選択もない。
ただ、風呂に入って、飯を食って、ちゃんと休めた。
それだけのことが、今は確かだった。
カナタは最後の一口を飲み込み、ゆっくりと息を吐く。
「……ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」




