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第10-6話「続けられる日々」~湯上りの境界

昼下がりの光は、いつの間にか色を変えていた。

窓から差し込んでいた淡い陽射しは、少しだけ角度を変え、床に落ちる影を長くしている。


カナタは、ゆっくりと目を開けた。


「……ん」


喉がわずかに渇いている。

身体は重くないが、完全に起ききるには、もう一呼吸必要だった。


視線を横にやると、向かいのベッドにソラの姿がある。

眠っている……ように見えるが、呼吸は浅く、意識は半ば覚醒しているのが分かった。


「……ソラ」

「はい」


即答だった。


「起きてた?」

「半分ほど」


ソラは上体を起こし、軽く首を回す。

その仕草はいつもと変わらないが、昼寝明け特有の、ほんのわずかな緩さがあった。


思ったより、しっかり休んでいたらしい。

カナタはベッドの縁に腰掛け、伸びをする。


「……こういう日も、いいね」


独り言のような声だった。


「ええ。身体も、魂も、よく休めています」


ソラは、部屋の隅に置いた水差しを確認しながら答える。


昼食後の眠気は抜けたものの、完全に活動する気力が戻ったわけではない。

何かをするには中途半端で、何もしないには時間が余る。

そんな、狭間特有の静けさ。


「……そういえばさ」


カナタが、腕を下ろして天井を見上げたまま言う。


「僕、生前さ……」

「はい」

「入院してから、ちゃんとした風呂、入ってなかったんだ」


ソラは、動きを止める。


「そう、でしたね」


湯桶で身体を拭く程度。

それが精一杯だった日々。


「ここに来てからもさ、最初はそれで十分だったし」


カナタは、少し照れたように笑う。


「……でも、今日はさ」


間があった。


「お風呂、行ってみたいなって思って。大丈夫かな?」


ソラは、静かにカナタを見る。

魂の波動。

安定している。

以前よりも、ずっと。


「……問題は、ありません」


そう答えながら、少しだけ言葉を足す。


「最近は、距離があっても、補助制御が可能です」

「それは良かった」


カナタは、ほっとしたように息を吐く。


「じゃあ……一緒に行こう」

「はい」


共同浴場は、宿の一階奥にあった。


木製の廊下を進み、左右に分かれた入口。

木製の引き戸には、簡素に「湯」とだけ書かれている。


カナタは、その前で一度立ち止まった。


(……風呂、か)


生前、入院生活が長かった。

消毒の匂いと、体を拭くための濡れタオル。

“入る”という行為そのものが、記憶の中ではずいぶん遠い。


「緊張していますか?」


背後から、ソラの静かな声。


「……うん、ちょっと」


正直に答えると、ソラは否定も笑いもしなかった。


「無理に急ぐ必要はありません。今日は“試す”くらいのつもりで大丈夫です」

「試す、ね」


その言い方に、少しだけ肩の力が抜ける。


ソラは、女湯の入口前で一度立ち止まった。


「では、先に上がってお待ちしますね」

「うん。でもゆっくりでいいからね」

「ええ」


その言葉に、わずかに目を細めてから、ソラは中へ入った。



脱衣所は小さく、清潔だった。


木の棚と長椅子、壁際には籠が並んでいる。

湯気がわずかに流れ込み、空気はほんのり湿っていた。


カナタは外套を脱ぎ、畳んで籠に入れる。

次に服を脱ぐ動作が、思った以上にぎこちない。


(……体、あるんだよな)


当たり前のはずなのに、確認するような感覚だった。

腕を動かせば動く。

指を握れば、ちゃんと力が入る。

最後に布を外し、籠に置く。


深呼吸を一つ。


「……よし」


自分に言い聞かせるように呟き、引き戸を開けた。


浴場は、それほど広くはなかった。


石造りの床、壁沿いに並ぶ洗い場。

奥には、白い湯気を立てる浴槽が一つ。

水音が、静かに反響している。

思ったよりも、普通だった。


特別な儀式も、厳かな雰囲気もない。

ただの“風呂場”。

それが、少しだけ安心できた。


カナタは、空いている洗い場に腰を下ろす。

低い木の腰掛けは、ひんやりとしていた。


(……まず、何からだっけ)


一瞬迷ってから、近くに置かれていた湯桶に手を伸ばす。

柄杓で湯をすくい、そっと足元にかける。

じんわりとした熱が、足首から広がった。


「……あ」


思わず声が漏れる。

熱いが、不快ではない。

生きている感覚が、そこにはあった。


次は、腕。

肩。

胸元。

湯をかけるたび、体が少しずつ慣れていく。


(……ちゃんと、感じるな)


痛みでも、幻でもない。

ただの温度。


備え付けの石鹸を手に取り、泡立てる。

泡は、思ったよりも軽く、指の間ですぐに広がった。

腕を洗う。

肩を洗う。

首元を、少し慎重に。


泡を流すと、肌がきゅっと引き締まる感覚がある。

次に、胸元。

腹部。

一つひとつ、確かめるように洗っていく。


(……こういうの、忘れてたな)


生前は、体を“管理するもの”としてしか見ていなかった。


点滴の針。

心拍数。

数値と状態。


今は違う。


湯の温度。

石鹸の匂い。

指先の感触。


それらが、すべて“今の自分”に戻ってくる。

背中に手を回し、少しだけ苦戦しながら洗う。


思わず小さく笑ってしまった。


「……不器用だな」


誰に聞かせるでもない独り言。


最後に、頭。


指先で泡をなじませ、ゆっくりと洗う。

目を閉じると、水音が少し大きく感じられた。


泡を流し終えたとき、カナタは一度、深く息を吐いた。


「……ふう」


洗うだけなのに、少し疲れた。


だが、それ以上に━━


(……悪くない)


そう、素直に思えた。

次は、湯に浸かるだけ。

そう考えながら、カナタは立ち上がった。


洗い終えたあと、カナタは浴槽の縁に立った。

白い湯気が、ゆっくりと立ち上っている。

水面は静かで、揺れもない。


(……入るだけ、だよな)


分かっているはずなのに、足がすぐには動かなかった。

生前、湯船に浸かるという行為は、ほとんどなかった。


清拭で拭われる体。

ぬるいタオルの感触。


“全身を湯に沈める”という感覚は、記憶の奥にすら残っていない。


意を決して、片足を湯に入れる


「……っ」


思わず、息が詰まった。

熱い。

けれど、痛いほどではない。

じわり、と皮膚の奥まで染み込んでくるような温度。


少しずつ、もう片方の足も入れる。

膝。

太腿。

体が、無意識に強張っているのが分かった。


(……逃げない、な)


湯は、拒まない。

押し返してもこない。

ただ、そこにあるだけだ。


カナタは、そっと腰を落とした。


湯が、腹部を包む。

胸元まで上がったところで、一度動きを止める。

鼓動が、はっきりと聞こえた。


━━どくん。

━━どくん。


自分の体の内側が、確かに動いている。

最後に、肩まで沈める。


「……あ」


声にならない音が、喉からこぼれた。

全身が、湯に包まれた。

温かい。

ただ、それだけなのに、胸の奥がじんわりと緩んでいく。


力を入れていたはずの肩が、気づかないうちに落ちていた。

背中の緊張も、指先のこわばりも、少しずつほどけていく。


湯の中で、息をする。

肺が、きちんと空気を取り込む。

吐けば、静かに抜けていく。


(……生きてる、な)


そう思った。


“生前”でも、“狭間”でもない。

今、この瞬間。

湯が、体を温めている。

それだけの事実が、妙に確かだった。


しばらく、何も考えずに目を閉じる。


水音が、近くで小さく鳴っている。

湯気が、頬をかすめる。

時間の感覚が、少し曖昧になる。


「……風呂、って」


小さく呟く。


「悪くないな」


その言葉は、誰に聞かせるでもなく、湯の中に溶けていった。



同時刻、女浴場には、まだ湯気が残っていた。


昼の利用客が引いたばかりなのか、床も桶も濡れたままで、静けさの中に水音だけが残っている。


ソラは扉を閉め、脱衣籠の前で一度だけ息を整えた。

“こうして湯に浸かる”という行為自体は、久しぶりだった。


衣を解き、籠に畳んでいく動作は迷いがない。


ただ一つ、首元のネックレスだけは外さず、指先で位置を確かめるように軽く触れてから、そのままにした。


布が離れるにつれて現れる身体は、白く、均整が取れていた。

肩から背、腰へと流れる線はなだらかで、無駄がない。


胸元は重たさ感じさせず、腰にははっきりとしたくびれがある。

長身ゆえに、全体のバランスはすらりとして見えた。


桶を取り、かけ湯をする。


肩から背中へ、湯が流れ落ちる。

一瞬、熱に身体が強張るが、すぐに慣れた。


腰を下ろし、石鹸を泡立てる。


指先で、腕、肩、背中と順に洗っていく。

胸元に触れる動きは淡々としていて、そこに特別な意味はない。

それは“身体を整える”という作業の一部に過ぎなかった。


髪を洗い、泡を流す。


白い髪が湯に濡れ、背に張りつく。

滴が背筋を伝い、腰へと落ちていく。


最後に、もう一度かけ湯をしてから、湯船へ向かう。

静かに足を入れる。

熱が、ふくらはぎから膝、太腿へと広がっていく。


思わず、小さく息を吐いた。


「……」


声にはならない。

だが、確かに“心地よさ”があった。


肩まで沈み、背を縁に預ける。

湯が身体を包み込み、重さが抜けていく。

湯気の向こうで、首元のそれだけが、微かに冷えた光を保っている。

魂の輪郭が、わずかに緩む感覚。



(問題は、ありませんね)


意識を内側へ向ける。


カナタの魂の状態を、遠くから確認する。

完全に手放すわけではないが、今は距離が取れている。

補助制御は、必要最低限で足りている。

それを確かめてから、ソラは目を閉じた。


湯の音。

自分の呼吸。

それだけの時間。


どれほど経ったかは分からない。

だが、長く浸かりすぎる必要もないと判断し、縁に手をかけて立ち上がった。


湯が、身体から離れる。

少しだけ、足元が揺れた。


「……」


一瞬、視界が白くなる。


だが、深呼吸ひとつで収まった。

身体を拭き、バスタオルを肩に掛ける。

鏡に映る自分の姿を一瞥し、それ以上は見ない。

確認は、必要ない。


浴場を出ると、外の空気がひんやりと肌に触れた。

火照りが、ゆっくりと引いていく。


部屋着に着替え、男女別の浴場入口の前へ向かう。

長椅子に腰を下ろし、背もたれに軽くもたれた。

タオル越しでも分かる、身体の熱。

それが、まだ完全には引いていない。


(もうすぐ、来るでしょう)


そう思いながら、廊下の奥へ視線を向ける。

静かな宿の中で、足音を待つ。


廊下には、人の気配はない。

昼下がりの、宿特有の静けさ。


(……少し、熱が残っていますね)


立ちくらみまではいかない。

だが、完全でもない。

それでも、待つことにした。


ほどなくして、向かいの入口が開く音がする。


カナタは、湯から上がった瞬間、少しだけ世界が揺れた。


「……あ」


足元が軽くなる。


(あ、これ……)


湯あたりだ、と気づいたときには、もう遅かった。


一歩、踏み出す。


次の瞬間、視界が傾き、身体が前に流れる。


「━━っ」


声が出る前に、気づいたときにはソラの胸元に、顔を埋める形になっていた。


部屋着越しでも分かる柔らかさ。

湯上りの体温が、じんわりと伝わってくる。


それだけじゃない。

湯気に混じる、石鹸と湯の匂い。

清潔で、やわらかくて、どこか落ち着く香りが、至近距離で鼻を満たした。


「……っ」


思わず息を止める。

頭が真っ白になる一方で、胸の奥が妙に騒がしい。


(……やば……)


嬉しさが先に来て、次に恥ずかしさが押し寄せる。

触れてはいけないものに触れてしまった感覚と、離れがたい余韻。


下半身に、じわりと熱が集まるのが分かって、カナタは内心で焦った。

体の反応だけが、正直すぎる。


「ご、ごめん……ソラ……!」


慌てて離れようとするが、足に力が入らない。

ぐらりと体が傾いた瞬間、背中に回された腕が、しっかりと支えた。


「無理しないでください。大丈夫?」


近くで聞こえる声は、落ち着いている。

ただ、少しだけ息が早く、頬にほんのり赤みが差していた。


カナタは慌てて顔を離し、視線を逸らす。


「……だ、大丈夫。ちょっと湯あたりしただけ」



言い訳のように言いながら、無意識に一歩下がる。


沈黙。


距離は取れたはずなのに、さっきの感触と匂いが、頭から離れない。


(……柔らかかった……)


思い出してしまい、耳まで熱くなる。

ソラは一度、深呼吸をしてから、小さく頷いた。


「……そうですか。なら、よかったです」


声は穏やかで、どこか安堵が混じっている。


「でも、本当に無理はしないでくださいね、カナタさん」


責める気配はない。

むしろ、こちらを気遣う視線。


「うん……ありがとう」


短く答えながら、カナタはもう一度だけ深く息を整えた。

体の奥に残る熱と、消えない余韻。

それを悟られないように、何事もなかったふりをするしかなかった。


照れ隠しのように、頭を掻く。


「先に上がって待っててくれて、ありがとう」

「いえ」


ソラは、視線を少し逸らす。


「……お風呂、どうでしたか?」

「うん」


カナタは、少し考えてから答えた。


「……生きてる、って感じがした」


ソラは、微かに微笑む。


「それは、何よりです」


二人は、並んで廊下を歩き出す。


まだ、湯の余熱が身体に残っている。


そして、それとは別の言葉にしづらい熱も。

それは、まだ名前のない感情だった。

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