第10-5話「続けられる日々」~狭間の休息
宿へ戻る道は、昼の賑わいが嘘のように穏やかだった。
大通りを外れ、石畳の細い路地に入ると、人の声は一気に遠ざかる。
露天の呼び声も、鍋の煮える匂いも、角を一つ曲がるごとに薄れていった。
「……静かだな」
カナタが、ぽつりと言う。
「宿は、少し奥まった場所にありますから」
「なるほど……」
それだけの会話だった。
噴水の広場を離れてから、特別な出来事は何もない。
昼食をとり、日用品を揃え、あとは宿に戻るだけ。
予定通りの、何の変哲もない一日。
それなのに━━
どこか、気が抜けたような感覚があった。
宿の扉を開けると、昼下がりの空気が流れ込む。
朝の慌ただしさはなく、受付の奥から聞こえるのは、紙をめくる音だけだった。
鍵を受け取り、階段を上る。
木製の床が、きしりと控えめに鳴いた。
部屋に入ると、カナタは外套を脱ぎ、そのまま椅子に腰を落とす。
「……はあ」
深いため息というほどでもない。
ただ、力が抜けた音だった。
ソラは扉を閉め、鍵をかけると、静かに部屋を見回す。
「問題は、なさそうですね」
「うん……今日はもう、何もしないでいいかな」
「ええ。今日は休息日、ということで」
ソラの声も、どこか柔らかい。
ベッドに腰掛けると、マットレスが静かに沈んだ。
窓から差し込む光は、昼と午後の境目の色をしている。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
街の音は、ここまでは届かない。
代わりに聞こえるのは、風に揺れるカーテンの擦れる音と、遠くで鳴る鐘の余韻だけだ。
「……ねぇ、ソラ」
「はい」
沈黙を破ったのは、カナタだった。
「この狭間ってさ……」
「ええ」
言いかけて、言葉が止まる。
何を聞きたいのか、自分でも整理しきれていない。
それでも、胸の奥に溜まっていた疑問が、自然と浮かんできた。
「ここって……生きてる、のかな」
ソラは、すぐには答えなかった。
否定も肯定もせず、少しだけ視線を落とす。
「……“生きている”という定義によります」
「だよね」
カナタは苦笑する。
「まだ時々、分かんなくなるんだ」
「何が、でしょうか」
「自分が……生きてるのか、死んでるのか」
言葉にした瞬間、少しだけ胸がざわついた。
「ご自身は、どう感じていますか」
「うーん……」
天井を見上げる。
「腹は減るし、眠くもなる」
「ええ」
「笑うし、怖いし……」
一拍、間を置いて。
「でも、どこかで“終わった”感覚もある」
ソラは、静かに耳を傾けている。
「前の世界では、もう続きがなかった、って分かってるからさ」 「……」
「ここでの日々が、借り物みたいに思える時がある」
カナタは、自嘲気味に笑った。
「贅沢な悩みだよな」
「いいえ」
ソラは、即座に否定した。
「それは、とても自然な疑問です」
「そうかな」
「ええ。狭間に来た魂の多くが、同じ問いを抱きます」
少しだけ間を置く。
「この世界は、“生の延長”でも、“死の後始末”でもありません」 「……中途半端?」
「いいえ。“途中”です」
その言葉に、カナタは目を瞬かせた。
「途中、か」
「魂が、次の選択へ向かうための場所です」
「選択……」
カナタは、ゆっくりと息を吐く。
「選ばなかった道とか、後悔とか……そういうのも、含めて?」 「はい」
ソラは、穏やかに頷く。
「ここでは、生前に選べなかった生き方も、やり直すことができます」
「……それってさ」
少しだけ、声が低くなる。
「不公平じゃない?」
「どの点が、でしょう」
「生前、ちゃんと生き切った人とさ……」
「途中で、終わってしまった魂の差、ですか」
カナタは黙って頷いた。
「公平では、ありません」
「即答か」
「この世界は、公平を目的としていません」
淡々とした声だった。
「では、何のために?」
「均衡のためです」
カナタは、首を傾げる。
「均衡?」
「魂が、偏りすぎないための」
少しだけ、難しい話になってきた。
「天国と地獄、どちらにも行けなかった魂」
「あるいは、どちらにも行くべきでない魂」
「そうした存在が、ここに留まります」
「……僕も、その一人?」
「はい」
否定はなかった。
「でも、嫌な感じはしないな」
「そう感じられるなら、それが答えです」
再び、沈黙。
カナタは、椅子から背もたれに体を預ける。
「……ねぇ、ソラ」
「はい」
「ソラはさ」
一瞬、言葉を選ぶ。
「ここにいること、どう思ってる?」
ソラは、少しだけ目を伏せた。
「私は……」
「うん」
「……ここにいることを、選んでいます」
それだけだった。
理由も、背景も語られない。
だが、その言葉には迷いがなかった。
「そっか」
「はい」
カナタは、安心したように小さく笑う。
「なら、俺も……もう少し、ここにいてみるよ」
「ええ」
窓から差し込む光が、少し傾いてきている。
「……眠くなってきた」
「昼食後ですからね」
「昼寝、してもいい?」
「問題ありません」
カナタは、そのままベッドに横になる。
「ソラも……」
「ええ」
ソラは、少し遅れて、もう一方のベッドに腰を下ろした。
すぐには横にならず、窓の外を一度だけ見る。
何かを確かめるような、ほんの一瞬。
そして、静かに身を横たえた。
部屋に、再び静寂が満ちる。
カナタの呼吸が、ゆっくりと整っていく。
意識が、浅い眠りへ沈んでいくのが分かった。
(……今日は、何も起きなかったな)
そんなことを思いながら、眠りに落ちる。
何も起きない。
だが、それは確かに、必要な時間だった。
世界は、今日も動いている。
天国も、地獄も、狭間も。
その狭間で━━
二人は、ただ休んでいた。




