第9-13話「守れなかった約束」~選ばされなかった記録
檻の外に出た瞬間、空気が変わった。
重さではない。
圧でもない。
ただ、世界の“解像度”が戻ったような感覚だった。
石畳の感触。
夜気に混じる街の匂い。
遠くで鳴る、人の生活音。
━━現実だ。
「……戻った」
カナタが、小さく呟く。
背後には、意味を失った檻が残っている。
形はある。
だが、もう何も閉じ込めていない。
ソラは、自然と一歩前に出ていた。
庇うでもなく、導くでもなく。
ただ、隣に立つ。
その時だった。
(……視線が、変わった)
数値ではない、整理された観測の気配。
「動かないでください」
低く、静かな声。
前方に立つ二体が、同時にこちらを向いた。
━━最初から、そこにいた。
退路を塞ぐでもなく、威圧するでもなく。
ただ、配置されているという距離感で。
人と変わらない背丈の存在が。
背にある白銀の翼は、以前と同じだ。
片方は完全な形を保ち、もう片方は先端を欠いたまま、石のように固化している。
鎧も変わらない。
装飾のない、機能だけを残した構造。
だが━━違和感があった。
動いていないのに、配置が「完了」している。
警戒ではなく、すでに任務の段階に入っている佇まい。
行政天使。
感情のない光の瞳が、正確にこちらを捉えていた。
「目標を確認しました」
もう一体が、機械的に続ける。
「これより同行を要請します」
(……迎え?)
拒否という選択肢が、最初から想定されていない配置だった。
「……迎えですね」
ソラが、息を整えて言う。
護衛の一体が、一歩前に出た。
「冒険者カナタ。案内天使ソラ。同行をお願いします」
感情のない声。
拒否権が存在しない言い方。
「ラファエル様が、状況の報告をお待ちです」
その名に、カナタはわずかに眉をひそめた。
「……あの行政天使、か」
ソラは頷いた。
「大丈夫です。強制ではありませんが……避けられません」
一瞬、視線が交わる。
逃げようと思えば、逃げられたかもしれない。
だが、それは選択ではない。
「行こう」
カナタが言った。
「……話すべきことは、話しましょう」
ソラは、静かに頷いた。
ギルド本館。
普段は立ち入りを許されない、ギルド長室。
重厚な扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
室内には、すでに二人が待っていた。
一人は、冒険者ギルド長━━ハルヴェル。
腕を組み、壁にもたれながら、二人を観察している。
もう一人。
行政天使、ラファエル・アーカイブ。
人の姿をしてはいるが、その存在感は、明らかに“人ではない”。
「着席を」
短い指示。
カナタとソラは、並んでソファーに腰掛けた。
沈黙。
先に口を開いたのは、ラファエルだった。
「影の組織による隔離事案。魂遮断、観測檻、選別圧の使用」
淡々とした声が、事実だけを並べる。
「……報告を」
ソラは、一度だけ深く息を吸った。
「はい」
そこから先は、簡潔だった。
「影は違法な隔離檻を用い、対象の魂を遮断・選別しようとしました。私は規定域を超えた出力で介入し、檻を破壊、対象を回収しています」
報告が終わったとき、室内には短い沈黙が落ちた。
ラファエルが、視線を上げる。
「……途中、魂出力の急上昇が観測されている」
静かな指摘だった。
「門の通過ログ、周辺位相への干渉、街への影響反応。すべて記録されている」
「……はい」
ソラは、否定しなかった。
「救出に際し、許可された制御域を超えました。魂の制御ギアを一段階、引き上げています」
ハルヴェルが、低く息を吐く。
「観測で確認している」
責める調子ではない。
事実確認だ。
「結果として、周辺への影響がゼロではありませんでした。街の結界に微細な歪み。住民への直接被害はなし。……ですが、出力過多だったことは事実です」
ソラは、はっきりと頭を下げた。
「私の判断です。謝罪します」
再び、沈黙。
だが、今回は短かった。
ラファエルが、指先で盤面をなぞるような仕草をする。
指先の動きが止まる。
「……不問とする」
即断だった。
ハルヴェルが、わずかに目を見開く。
「いいのか?」
「救助行為だ」
ラファエルは、淡々と続ける。
「隔離は違法だ。対象は、消耗限界に近かった。規定内出力では、間に合わなかったと判断する」
視線が、ソラに向く。
「君の判断は、合理的だ。結果として、魂は無傷で回収された」
一拍。
「……それに」
ラファエルの声が、わずかに低くなる。
「カナタという存在は、今後この世界にとって……いや、天界にとっても、無視できない位置に立つ」
空気が、わずかに張り詰める。
「今回の件で、それは確定した。管理されない状態で崩れない魂。隔離下で、選択を失わない存在」
ハルヴェルが、苦笑する。
「厄介だな」
「だが、必要だ」
ラファエルは、きっぱりと言った。
「この件に関する咎は、与えない。処分も、減点もなしだ」
ソラは、わずかに目を伏せる。
「……ありがとうございます」
「ただし」
ラファエルは、そこで言葉を切った。
「今後、同様の事案は増える。影だけではない。管理外の干渉は、必ず彼に集まる」
視線が、まっすぐにソラを捉える。
「次に何かが起きた場合、独断で抱え込むな。必ず、こちらに一報を入れろ」
一拍。
「その時は━━力になる」
それは命令ではなく、約束だった。
ソラは、静かに頷く。
「……はい」
ラファエルは、立ち上がる。
「この件は、ここまでだ。正式記録には残さない。隔離事案は“未遂”処理」
ハルヴェルが、肩をすくめた。
「お咎めなし、か」
「今回はな」
そう言って、ラファエルは背を向ける。
「解散だ」
問い詰めも、裁定もない。
ただ、判断が下された。
ソラは、その場に一瞬だけ残り━━
そして、静かに退出した。
宿への帰り道。
夜は、もう深かった。
街路に残る灯りはまばらで、足音だけが静かな通りに響く。
「……ソラ」
並んで歩きながら、カナタがぽつりと口を開く。
「さっきの行政天使……ラファエルさん、だよね?」
「はい」
ソラは、歩調を緩めずに応じた。
「なんていうか……思ってたより、ちゃんとしてたね」
少し照れたような声だった。
「怒られると思ってた」
「そうですね」
ソラは、ほんのわずかに口元を緩める。
「私も、そのつもりでした」
カナタは小さく笑った。
「でもさ……“力になる”って言ったよね」
「はい」
「……悪い人じゃないな」
その言葉に、ソラは足を止めかけて、すぐに思い直す。
「印象が良くなりましたか?」
「うん。初めて門で会った時は本当に怖かったから」
即答だった。
「でも今日会って、敵じゃないって思えた」
「それは、良かったです」
短い沈黙。
カナタは、少しだけ視線を落とす。
「……お咎めなしで、正直ほっとした」
「……」
「僕が原因だったんだろ?」
「原因、ではありません」
ソラは、はっきりと言った。
「ですが……無関係でもありません」
カナタは、苦笑する。
「やっぱり」
「はい」
歩きながら、カナタは続けた。
「ソラに、迷惑かけたなって」
「迷惑ではありません」
即答だった。
「……でも」
一拍、言葉を選ぶ。
「無茶をしたのは、事実です」
「だよな」
カナタは、少しだけ肩をすくめた。
「助けに来てくれてさ」
「……」
「本当に、嬉しかった」
その声は、冗談めいていなかった。
「正直……あの檻の中でさ」
「はい」
「誰も来ないかもしれないって、思ってた」
ソラは、足を止めた。
「……私は、必ず行きます」
静かな声だった。
「これからも、です」
カナタは、驚いたように目を瞬かせる。
「……即答だな」
「はい」
「重くない?」
「重いです」
そう言ってから、続ける。
「ですが、選びました」
「……」
「隣で支えると」
カナタは、しばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……ありがとう」
それ以上、言葉はいらなかった。
宿に戻ると、疲労が一気に押し寄せた。
部屋に入るなり、カナタはベッドに腰を下ろし、そのまま横になる。
「……限界」
そう呟いて、目を閉じる。
呼吸はすぐに整い、眠りに落ちるのも早かった。
ソラは、ベッド脇に立ったまま、その寝顔を見つめる。
(……寝ましたね)
真実は、記録されなかった。
だが、消えたわけではない。
選ばされなかった事実。
管理されなかった安定。
それは、確かに起きた。
毛布を整え、そっと灯りを落とす。
「……おやすみなさい」
小さく告げて、部屋は闇に包まれる。
世界は、まだ気づいていない。
だが、選ばされないという“例外”は、もう━━生まれてしまった。
そして、その中心で。
カナタは、何も知らず、静かに眠っていた。




