第9-12話「守れなかった約束」~檻の中に、二人
最初に変わったのは、空気だった。
檻の中。
何も起きていないはずの空間から、あの不快な“圧”が、ゆっくりと抜けていく。
数値に換算される感覚。
魂を秤にかけられている感触。
選ばされるための視線。
それらが、まるで潮が引くように、消えていった。
(……撤いた)
理由は分からない。
だが、はっきり分かる。
(……影が、いない)
檻は、まだそこにある。
構造も、形も、変わっていない。
それなのに。
(……閉じてない)
触れられないはずの境界が、“ただの枠”に成り下がっていた。
檻である意味を、失っている。
その瞬間。
檻の外側。
何もなかった空間に、確かに“誰かが立つ気配”が生まれた。
(……来た)
確信。
光でも、音でもない。
けれど、間違えようがない。
存在が、現れる。
ソラだった。
派手な顕現はない。
翼も、光輪も、神性の演出もない。
ただ、息を詰めたまま、そこに立っている。
「……カナタ」
名を呼ぶ声が、震えた。
その一歩が、踏み出される。
かつては、越えられなかった線。
触れれば拒絶されていた領域。
けれど今は━━
ソラは、何の抵抗もなく、檻の内側に入った。
境界は、反応しない。
警告も、拘束も、起きない。
檻は、完全に“場所”になっていた。
「……っ」
カナタが声を上げるより早く。
抱きしめられた。
強く。
思わず息が止まるほどに。
逃げ場を塞ぐようでいて、壊さない力加減。
胸に、顔を押しつけられる。
(……近い)
心臓の音。
呼吸の熱。
確かな、人の温度。
「……離れません」
低い声。
今まで聞いたことのないほど、感情が混じっている。
「次は、絶対に」
腕に、力がこもる。
「……離れません」
「あなたが選ぶ、その瞬間まで」
「私は、見ています」
「あなたが、自分の足で立てるようになるまで」
一つずつ、
誓いとして、言葉が落とされる。
「私が、そばにいます」
その瞬間。
カナタの思考が、完全に止まった。
(……え……今の)
心臓が、跳ねる。
血が、一気に顔に集まる。
(……誓い?)
いや。
(……これ……告白、では?)
「……ソ、ソラ」
声が、裏返りそうになる。
「ちょ、ちょっと……近……」
だが、腕は緩まない。
「……怖かったんです」
ぽつりと、ソラが言った。
その声は、弱かった。
「あなたが、選ばされて。壊されそうになって。それでも、私は……見ていることしか、できなくて」
腕が、わずかに震える。
「……でも、もう」
顔が、上がる。
目が合う。
逃げも、迷いもない。
「曖昧にしません。距離を取るふりもしません。天使だから、なんて言い訳もしません」
真っ直ぐすぎる視線。
カナタの頭が、追いつかない。
(……待って……これ)
「……それって……職務、とかじゃ……」
ソラは、一瞬きょとんとした。
そして。
「あ」
自分の状態を理解したように、
一気に顔が赤くなる。
「……ち、違……いえ」
視線が、定まらない。
それでも、離れない。
「職務だけなら……ここまで、しません」
「……絶対に」
小さく、でも確かな声。
沈黙。
カナタの中で、何かが崩れた。
「……ソラ」
静かに呼ぶ。
「それ……」
一瞬、言葉を探す。
顔が、熱い。
恥ずかしい。
逃げたい。
でも。
時間が、止まる。
「っ……!」
ソラが、完全に固まる。
「ち、違…………いえ」
一呼吸。
「否定は……できません」
小さな声。
それでも、逃げなかった。
カナタは、思わず笑った。
「……なんだそれ」
胸の奥が、熱い。
怖さは、残っている。
不安も、消えていない。
でも。
(……一人じゃない)
それだけで、十分だった。
「……ありがとう、ソラ」
そう言って、今度はカナタの方から、そっと腕を回す。
抱き合う。
強くはない。
けれど、確かに。
「……こちらこそ」
ソラの声が、近い。
檻は、もう、ただの場所だった。
閉じ込めるものではない。
選ばせるための箱でもない。
影が去り、意味を失う。
そして━━
人が、入れる場所になった。
選ばされるは、終わった。
選び合う物語が、ここから始まる。




