第9-10話「守れなかった約束」~檻が意味を失った時
檻が、音を立てなかった。
軋みも、悲鳴もない。
ただ、空間そのものが、ゆっくりと“重さ”を変えていく。
(……来た)
カナタは、立ったまま、それを感じていた。
逃げ場はない。
けれど、逃げるつもりもなかった。
胸の奥。
鼓動が、ひとつずつ、確かめるように打つ。
怖い。
それは、消えない。
だが━━ もう、飲み込まれない。
(……選ぶ)
その言葉が、ようやく“命令”ではなく、 自分の内側から出てきた。
檻の外。
何もないはずの空間が、わずかに歪む。
数値でも、圧でもない。
“意志”の気配。
影が、再構築されていく。
ゆっくり。
今度は、隠す気もない。
闇が、形を取る。
人の姿。 否定しようのない存在感。
エレミア・ノクスは、檻の前に立っていた。
「……始める」
その声には、もはや取り繕った余裕はなかった。
宣告に近い。
「最終段階だ。君の魂を、完全に孤立させる」
カナタは、黙って聞いていた。
拒絶も、反発も、しない。
「恐怖も、信頼も、希望も。すべて、切り離す」
エレミアの視線が、檻の“外側”を一瞬だけ掠める。
「……特に、“あれ”との接続をな」
その瞬間。
胸の奥が、強く、跳ねた。
(……ソラ)
不安が、顔を出す。
だが、それは以前のものとは違った。
(……信じてる)
助けに来てほしい、ではない。
代わりに決めてほしい、でもない。
ただ。
(……見てて)
その願いが、確かにそこにあった。
エレミアは、手を上げる。
空間に、演算式が走る。
檻の内側。
温度が、下がる。
魂に、直接触れる冷たさ。
(……くる)
視界が、歪む。
記憶が、引きずり出される。
暗闇。
拘束。
何も分からないまま、連れてこられた瞬間。
━━怖かった。
喉が、詰まる。
身体が、震える。
(……一人だった)
その事実が、再び、牙を剥く。
「そうだ」
エレミアの声が、重なる。
「それが、真実だ。君は、最初から一人だ」
圧が、増す。
思考が、散る。
(……違う)
だが、言葉にならない。
反論の形が、掴めない。
「案内天使は、幻想だ。支えているように見えるだけで、何も変えてはいない」
視線が、鋭くなる。
「結局、決めるのは君だ。ならば━━孤立した状態で、決めろ」
世界が、狭まる。
(……だめだ)
このままでは、また。
“選ばされる”。
その時。
檻の外。
ほんの、ほんの一歩だけ。
空間が、前に出た。
音はない。
光もない。
だが、確かに。
“誰かが、そこに立った”。
エレミアの手が、止まる。
(……!?)
演算が、乱れる。
数値が、崩れる。
「……馬鹿な」
干渉ではない。
遮断でもない。
ただ、在る。
ソラは、 檻を壊さないまま、境界線のぎりぎりに立っていた。
一歩も、越えていない。
それでも。
「……」
エレミアは、言葉を失った。
彼女は、何もしていない。
力も、奇跡も、使っていない。
なのに。
孤立が、成立しない。
「……やめろ」
低く、吐き捨てる。
「これは、実験だ。感情を、持ち込むな」
ソラは、答えない。
視線を、逸らさない。
ただ、カナタを、見ている。
(……ここに、います)
その“存在確認”が、 どんな干渉よりも、致命的だった。
カナタの胸の奥。
引き裂かれそうだった恐怖が、 ぎりぎりで、踏みとどまる。
(……一人じゃない)
それは、幻想じゃない。
証明も、理論も、いらない。
ただ、事実。
「……っ」
エレミアの表情が、初めて、歪んだ。
(何故だ。何故、壊れない)
孤立している。
檻もある。
負荷も、十分だ。
それなのに。
「……存在しているだけで……?」
自分の理論が、音を立てて崩れていく。
「……違う」
自分に、言い聞かせる。
「自由は、孤立の先にある。依存は、弱さだ」
ソラを、睨む。
「それは、君が彼を縛っている。選択を、歪めている」
その言葉に。
初めて、ソラが、口を開いた。
「……いいえ」
声は、静かだった。
「私は、縛っていません。選ばせても、いません」
一拍。
「ただ、見ているだけです」
エレミアは、言葉を失う。
(……それが、一番、厄介だ)
管理ではない。
導きでもない。
否定も、肯定も、しない。
「……狂っている」
吐き出すように言った。
「それでは、世界が保たない」
ソラは、視線を逸らさない。
「……それでも」
一歩も、踏み込まないまま。
「彼は、選びます」
その瞬間。
カナタは、理解した。
(……今だ)
誰かに、背中を押されたわけじゃない。
命令されたわけでもない。
ただ。
“選べる状態”が、ここにある。
「……僕は」
声が、震える。
怖さは、消えていない。
それでも。
「……僕は、ここで」
目を、上げる。
「誰の理論にも、ならない」
エレミアの目が、見開かれる。
「……何?」
「僕は、僕でいる」
それだけ。
派手な宣言でも、革命でもない。
だが。
その一言で。
檻の意味が、変わった。
拘束でも。
実験装置でもない。
“選択の場”。
数値が、完全に崩壊する。
「……停止しろ!」
影の巣から、悲鳴に近い声。
エレミアは、動けなかった。
(……証明が……)
否定したかった。
叩き潰したかった。
だが。
すでに。
選ばされるはずだった魂は、 自分の意思で、立っていた。
ソラは、静かに、頷いた。
(……よく、選びました)
檻は、まだ壊れていない。
だが。
もう、“箱”ではなかった。
世界は確かに、 次の段階へ踏み込んでいた。




