第9-8話「守れなかった約束」~選ばされる魂が、選び返す日
最初に、異変が起きたのは━━
檻の中ではなかった。
影の“巣”。
幾層にも重なった狭間の奥、観測と演算のためだけに切り出された空間。
光はない。
闇もない。
あるのは、無数の数値と位相情報、魂の振幅を示す記録だけ。
「……再計測」
静かな声が落ちる。
影たちが、同時に動いた。
観測式が走り、数値が更新される。
「反応を確認」
「対象魂、安定」
「乖離率……低下?」
一瞬、沈黙が走る。
「……低下?」
ありえない。
檻に隔離された魂は、不安定化する。
恐怖、孤立、情報遮断━━それらはすべて、魂を“剥き出し”にするための工程だ。
それが。
「接続反応を検出」
「……誰とだ」
答えは、最初から分かっていた。
「案内天使」
「侵入者」
空間の奥で、影が一つ、前に出る。
他よりも輪郭がはっきりしている存在。
エレミア・ノクス。
彼は、数値を“見る”のをやめ、まるで現場を想像するように、静かに目を閉じた。
(……接続したか)
苛立ちは、まだない。
だが、想定と違う。
(本来なら、拒絶するはずだ)
隔離された魂は、選択を迫られれば迫られるほど、孤立する。
他者を求め、依存し、最終的に“導き”を欲する。
それが、彼らの理論だった。
「魂波形、再解析を」
「案内天使側からの干渉率は?」
影の一体が、わずかに間を置いて答える。
「……低い」
「干渉ではありません」
「“存在確認”に近い」
エレミアの眉が、わずかに動いた。
(存在、しているだけ……?)
馬鹿な。
それが、どれほど危険か。
「実験対象は、選ばされる立場だ」
「対等な接続は、想定していない」
影の一体が、慎重に言葉を選ぶ。
「しかし……」
「結果として、安定しています」
「拒否反応も、暴走兆候も、減少傾向に」
沈黙。
空間が、わずかに軋む。
(……安定、だと?)
エレミアは、初めて“不快”を覚えた。
この実験は、証明のためのものだ。
神や天使が管理する魂の流れから解放された状態でも、“壊れずに存在し続けられる”という証明。
だが、それは。
(孤立した状態で、だ)
誰にも縋らず、誰にも導かれず、ただ自分の意思だけで在る。
それが成立して初めて、"天国も地獄も不要だ"という論が立つ。
「……余計な要素が混じった」
エレミアは、低く呟いた。
案内天使ソラ。
測定不能の魂を“制御”し続けている存在。
(抑えているだけの女だと思っていたが)
違う。
(繋いでいる)
それは、管理でも、指導でもない。
対等な“接続”。
(それでは……)
実験が、歪む。
「対象に、再度の接触を」
「選択を、急がせろ」
影の一体が、ためらう。
「精神負荷が、上がります」
「破損の可能性が」
「壊れては困る」
即答だった。
「だが、覚悟を固めさせる必要がある」
「猶予は、もう十分だ」
エレミアは、静かに立ち上がる。
「私が行く」
その言葉に、影たちがざわめいた。
「直接介入は━━」
「計算が狂う」
エレミアは、淡々と告げる。
「すでに狂っている」
視線が、虚空を貫く。
(選ばされるだけの魂が、選び返そうとしている)
それは、最悪の兆候だった。
(……ならば)
影が、再び檻の前に現れる。
だが今度は、“声だけ”ではなかった。
空間が、ゆっくりと歪む。
闇が凝縮され、輪郭を持ち始める。
人の形。
だが、人ではない。
長身。
影をまとったような外套。
顔立ちは、曖昧だが━━目だけが、異様に明晰だった。
「……落ち着いたようだな」
穏やかな声。
優しさすら、混じっている。
カナタは、反射的に身構えなかった。
怖さが消えたわけではない。
だが、さっきまでの“追い詰められた感覚”が、確かに薄れている。
それを━━
目の前の存在は、見逃さなかった。
(……変わった)
エレミアは、内心で舌打ちする。
檻は、同じ。
拘束条件も、観測値も、ほぼ変化していない。
だが、魂の姿勢が違う。
「……誰だ」
カナタの声は、低かった。
震えていない。
エレミアは、少しだけ微笑んだ。
「名は、重要ではない。だが━━創設者の一人、と言えば分かるか」
“創設者”。
その言葉に、カナタの眉がわずかに動く。
「……影の、か」
「そうだ。君を、ここへ導いた側だ」
導いた。
攫ったとは、言わない。
その選び方自体が、彼の焦りを、すでに示していた。
「……僕に、何の用だ」
カナタは、檻の奥から一歩も出ない。
だが、視線は逸らさない。
エレミアは、檻に近づく。
以前より、距離が近い。
「選択の、確認だ。君は、特別だ。放置すれば、世界の均衡を乱す」
以前と、同じ文言。
だが。
「だから━━」
言葉が、僅かに早まる。
「我々の側に来い。孤立した魂の未来を、証明する存在になれ」
カナタは、少し黙った。
不安は、ある。
怖さも、ある。
だが、それ以上に。
(……急いでる)
それが、はっきりと分かった。
「……ねぇ」
カナタは、ぽつりと言った。
「さっきまで、僕が怖がってる時は、もっと余裕そうだったよね」
エレミアの表情が、止まる。
ほんの一瞬。
計算が、遅れた。
「……観測誤差だ」
即答。
だが、硬い。
「今は、君が落ち着いた。だから、話し合いの段階に移っただけだ」
「違うはず」
カナタは、静かに否定した。
「僕が落ち着いたんじゃない……ソラが来てくれたからだ」
空間が、微かに軋む。
エレミアは、視線を動かす。
檻の外。
何も、いない。
だが。
(いる)
確実に。
「……案内天使か」
低く、呟く。
「姿を見せる気はないらしいな」
返事はない。
だが、その沈黙が━━答えだった。
エレミアは、初めて、檻から一歩退いた。
「……理解していないようだが」
声に、わずかな苛立ちが混じる。
「その存在は、君を救えない。いずれ、選択を迫られる。その時、感情に縋れば━━」
「縋ってない」
カナタの声は、はっきりしていた。
「信じてるだけだ」
その言葉で。
観測空間の奥。
数値が、はっきりと乱れた。
(……信頼、だと?)
それは、かつて彼が失ったものだった。
管理でもない。
依存でもない。
対等な、接続。
「……危険だ」
エレミアは、思わず本音を漏らす。
「それは、君の魂を歪める。選択を、曇らせる」
「違う」
カナタは、檻に手を置いた。
「一人だったらもう、壊れてた」
その事実を、エレミアは否定できなかった。
沈黙。
影が、揺れる。
(……失敗、か?いや、まだだ)
「……時間をやろう」
言葉は、譲歩。
だが、声音には、焦りがはっきりと滲んでいた。
「次に会う時、答えを持っていろ」
影が、薄れていく。
消え際。
エレミアは、檻ではなく、その“外側”を睨んだ。
「……干渉するな」
返事は、ない。
だが、確かに。
拒絶された。
影が、消える。
残された檻の中。
カナタは、静かに息を吐いた。
怖くないわけじゃない。
だが。
(……一人じゃない)
その事実が、何よりも強かった。
影の巣の奥で、エレミアは確信する。
この実験は━━
もはや、“管理される側”の都合では進まない。
選ばされるはずだった魂が、選び返す。
それが意味するのは。
理論崩壊━━。




