第9-7話「守れなかった約束」~檻越し
檻の中。
カナタが、ゆっくりと顔を上げた。
暗闇の向こう。
光でもなく、影でもない。
濃淡の境目に、確かに“誰か”が立っている。
最初は、認識が追いつかなかった。
ここに来てから、時間の感覚は壊れている。
意識も、現実感も、何度も曖昧になった。
(……違う)
そう思おうとしたのに、胸の奥が否定した。
立ち姿。
重心の位置。
こちらを見ている視線の高さ。
(……ソラ)
名前を呼ぶよりも早く、理解が先に来た。
それは直感だった。
論理でも、期待でもない。
目が合う。
その瞬間。
檻の内側に満ちていた、重く粘つく圧が、一拍だけ遅れた。
世界が、わずかにズレる。
鼓動。
呼吸。
皮膚にまとわりついていた見えない膜。
全部が、一瞬だけ後ろに引っ張られる。
ソラは、何も言わない。
一歩も、近づかない。
檻に触れもしない。
ただ、そこにいる。
それだけで。
胸の奥が、じんわりと熱を持った。
喉が、詰まる。
声を出そうとしても、言葉が形にならない。
(……来た)
確信だった。
疑う余地はなかった。
怖かった。
正直に言えば、ずっと怖かった。
目を覚ました瞬間から。
ここがどこなのか分からず、何をされるのかも分からず、影に囲まれて選べと言われて。
意味が分からないまま、放り出されて。
(……逃げたい)
何度も、そう思った。
でも、逃げ道はなかった。
檻は壊れず、影は答えず、時間だけが曖昧に流れていた。
それでも。
(……来てくれるって)
胸の奥の、もっと奥。
言葉にするのが怖くて、意識しないようにしていた感覚。
それが、今、形になる。
「……ソラ」
やっと、声が出た。
掠れて、弱くて、情けない声。
それでも。
「はい」
短い返事。
抑揚も、感情も、必要最低限。
けれど、その一言で。
張り詰めていた何かが、音を立ててほどけた。
肩の力が抜ける。
足元が、少しだけ現実に戻る。
(……大丈夫だ)
理由はない。
状況は何も変わっていない。
檻はあるし、影もいる。
それでも。
(……ソラがいる)
それだけで、十分だった。
聞きたいことは、山ほどあった。
ここがどこなのか。
何が起きているのか。
これからどうするのか。
でも。
何一つ、口にできなかった。
聞かなくていいと、分かってしまったからだ。
ソラが、檻を見る。
まるで、複雑な装置を読むように。
触れず、壊さず、慎重に。
(……壊さない)
なぜか、そう思えた。
根拠はない。
ただ、そう感じた。
影の言葉が、頭をよぎる。
「選べ」
「目覚めろ」
あの声。
評価するような視線。
怖かった。
自分が、自分でなくなる気がして。
拳を握ると、震えているのが分かった。
気づかれないように、檻の影に隠す。
ソラが、一歩だけ前に出る。
檻との距離が、わずかに縮まる。
けれど、越えない。
見えない線の手前で、きっちりと止まる。
その動きが、ひどく落ち着いて見えた。
「……大丈夫です」
低い声。
断言ではない。
保証でもない。
それなのに。
胸の奥に、静かに沈んでいく。
(……大丈夫なんだ)
自分でも、驚くほど素直に、そう思えた。
「急ぎません」
続けて、ソラは言う。
「壊しません。引きずり出しません」
その言葉に、心臓が跳ねる。
(……え)
影は、そうは言わなかった。
時間を与えると言いながら、どこかで、追い詰めてくる気配があった。
でも、ソラの声には、それがない。
視線が、合う。
「あなたが、選ぶまで」
その一言で。
胸の奥に溜まっていた不安が、溢れそうになった。
怖かった。
置いていかれると思っていた。
選べなかったら、見捨てられるんじゃないかと。
でも。
(……待ってくれる)
それだけで、涙が出そうになる。
檻の中で、カナタは、ゆっくりと息を吐いた。
初めて、深く。
「……」
何か言おうとして、やめた。
言葉にすると、崩れそうだったから。
ソラは、何も促さない。
急かさない。
ただ、見ている。
その在り方が、何よりも救いだった。
影の奥で、ざわめきが走る。
空間が、わずかに軋む。
計算が狂った。
予定外の要素。
選ばされるだけの魂が、“選び返す存在”と、再び繋がった。
檻は、まだある。
拘束も、事実だ。
それでも。
この瞬間。
カナタは、一人じゃなかった。
ソラは、視線を逸らさない
(……一緒に、選びましょう)
壊すのは、まだ先だ。
救い出すのも、まだ先。
この檻が、ただの“箱”である意味が、完全に失われるその瞬間まで。




