第9-4話「守れなかった約束」~奪還の前触れ
街に足を踏み入れた瞬間、世界の“重さ”が変わった。
石畳の感触。
建物が作る圧迫感。
無数の人の気配。
森とは違う。
ここは、人の手で組まれた空間だ。
魂の流れも、道のように整えられ、勝手な動きを許さない。
(……嫌いではありませんが)
今は、邪魔だ。
ソラは走りながら、街全体を感じ取る。
人の流れ。
視線の動き。
音が反射する位置。
そして━━
街の各所に張り巡らされた、目に見えない監視。
(……行政天使の観測下)
気づかれていないはずがない。
この速度、この存在感。
抑えてはいるが、隠す気はない。
だが。
(……止めに来ない)
それが、答えだった。
ソラは路地を跳び、屋根へ上がる。
屋根から屋根へ。
空中で一度だけ体を捻り、次の足場へ着地する。
無駄な動きはない。
最短距離でもない。
街の裏側に、“影が通った後の違和感”が、かすかに残っている。
(……巧妙ですね)
完全に消す気はない。
だが、捕まえさせる気もない。
(誘導……ではない)
もっと冷静で、合理的なやり方だ。
(……分岐を、増やしている)
倉庫街。
使われなくなった管理路。
古い水路の上。
街の中でも、人の目が届きにくい場所ばかりに、影の気配が集まっている。
(……行政の死角)
ここで、ソラは初めて速度を落とした。
速さなら、もう追いつける。
問題は━━止まる場所。
魂の奥で、抑制輪がきしむ。
一段階緩めた制御は、まだ保たれている。
だが、長く使えば確実に負担になる。
(……焦らない)
焦れば壊す。
壊せば、救えない。
屋根の縁に立ち、街を見下ろす。
建物だけではない。
人の意識の流れ。
魂の向き。
そして━━
誰も寄りつかない、不自然な“空白”。
(……そこですね)
古い倉庫群の、さらに奥。
行政の登録から外れかけた管理区画。
(……閉じ込めるには、都合がいい)
その瞬間。
空気が、わずかに震えた。
(……観測が、上がった)
見られている。
はっきりと。
(……ラファエル・アーカイブ)
理性と記録の天使。
感情で動かない監視者。
(……今は、それでいい)
ソラは、あえて派手に動いた。
高く跳ぶ。
屋根を踏み抜き、破片を散らす。
空間に、はっきりと“痕”を残す。
(……注目を、こっちに)
監視を引きつける。
その間、影は自由に動けない。
(……カナタさん)
名を思い浮かべただけで、魂が強く反応する。
抑制輪が、悲鳴を上げる。
(……まだ、大丈夫)
走る。
跳ぶ。
踏み込む。
影の余韻が、濃くなる。
空間が、息をするように歪む。
(……近い)
その時。
音が、消えた。
街のざわめきが、突然途切れる。
人の声も、風も、すべてが遠のく。
(……結界)
完全ではないが、外界を遮断するタイプ。
ソラは止まらない。
むしろ、歩調を落とす。
倉庫の最奥。
管理路の終端。
そこにあった。
影の結界が張られている“入口”。
影の密度が濃い場所。
(……ここですね)
ソラは、深く息を吸った。
抑制輪に、もう一度触れる。
一段階。
さらに、もう一段階。
「……少しだけ、許してください」
懇願ではない。
確認だ。
魂が、低く唸る。
暴れない。
拒まない。
制御は、まだある。
ただ━━
出力を、上げる。
(……これで足りるはず)
空間が、先に拒んだ。
一歩、踏み出す。
結界が、悲鳴を上げた。
押し返す力。
拒絶。
だが━━
ソラは止まらない。
魂の圧で、空間を“押し広げる”。
裂くのではない。
こじ開ける。
「……通してください」
次の瞬間。
結界が、耐えきれずに歪んだ。
空間が開く。
(……行ける)
ソラは、影の濃い裂け目へ踏み込んだ。
背後で、観測が一瞬だけ強まる。
だが、干渉はない。
(……止めない判断)
正しい。
今止められれば━━
カナタを救えない。
ソラは、影の裂け目の向こう側へ消えた。
追跡は、ここで終わる。
そして。
━━奪還が、始まる。




