第9-3話「守れなかった約束」~行政天使の判断
街の昼は、いつも通りに流れていた。
露天通りでは、午前の客足が一段落し、売り子たちは声を張り上げるのをやめ始めている。
ギルド前の掲示板には新しい依頼書が数枚貼られ、受付嬢たちがそれを整えていた。
往来を行き交う冒険者の足取りも、急ぐ者、休む者、それぞれに分かれ、特別な混乱は見られない。
━━少なくとも、表向きには。
冒険者ギルド本館、地下━━管理区画。
一般冒険者の立ち入りが制限されたその一室で、淡い光が揺れていた。
水晶盤を囲むように、複数の記録術式が展開されている。
盤面には、街に登録された冒険者たちの“存在情報”が、無数の光点として表示されていた。
「……反応、再確認」
低く抑えた声が落ちる。
記録管理官の一人が、指先で盤面をなぞった。
通常であれば、それらの光点は安定した明滅を繰り返すだけだ。
だが今、一つだけ。
「消失……ではない?」
管理官は眉をひそめる。
光点は、完全に消えてはいない。
存在しているはずなのに、位置情報だけが、どこにも示されていなかった。
「転移……にしては、痕跡がありません」
転移魔法であれば、必ず記録盤に揺らぎが残る。
距離、方向、魔力波形。
それらが解析不能になることは、ほぼありえない。
「……不自然すぎる」
管理官は、即座に盤面から視線を上げた。
「ギルド長を」
短い指示。
それだけで、この異常が“通常案件ではない”ことは室内全員が理解した。
数分もしないうちに、地下管理区画の扉が開く。
現れたのは、冒険者ギルド本館長ハルヴェル。
実力実務共に畑叩き上げの、豪快でかつ慎重さで知られる人物だった。
「……で、何が起きてる?」
低く、しかし荒っぽさのない声。
管理官は簡潔に説明する。
登録冒険者の存在情報。
消失ではないこと。
転移でも、封印でも説明がつかないこと。
ハルヴェルは水晶盤の前に立ち、腕を組んだまま無言で盤面を見つめた。
(……あの子か)
誰に言うでもなく、胸の奥で呟く。
盤面の識別情報を呼び出す。
「……位置だけが、抜けてるな」
低く、噛みしめるような声だった。
「存在反応は生きてる。契約も、生存判定も正常。なのに、居場所だけが無ぇ……ってか」
管理官が、静かに頷く。
「記録上は“そこにいる”扱いです。ですが、世界のどこにも“いない”」
ハルヴェルは短く鼻で息を吐いた。
「厄介だな。こいつは……ギルドの裁量じゃ抱えきれん」
その言葉に、室内の空気がわずかに張り詰める。
「観測塔はどうだ?」
「簡易測定器では反応が曖昧です。魂の消滅でも、完全転移でもありません。むしろ……遮断に近い状態です」
一瞬の沈黙。
ハルヴェルは、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「……分かった。上を呼べ。行政天使案件だ」
誰も反論しなかった。
それが、この異常の“重さ”を何より雄弁に物語っていた。
ハルヴェルは即座に、上位権限を申請した。
数分後。
室内の空気が、わずかに変わる。
現れたのは、行政天使。
正式名━━ラファエル・アーカイブ。
「状況を」
ラファエルの声は、淡々としている。
「冒険者登録番号はこちらです」
ハルヴェルが盤面を操作し、対象の情報を拡大する。
登録番号、年齢、履歴。
全て、正常。
━━だが。
(……正常、なわけがない)
ラファエル・アーカイブの思考が、静かに動く。
(測定不能。分類不能。それでも、登録だけは通っている)
盤面に表示されている数値は、基準内を示している。
だが、それは“測れる範囲だけ”を切り取った結果に過ぎない。
(━━測定不能のあの子か)
過去、行政側の基準においても、明確な区分ができなかった存在。
魂の総量が測定限界を越え、それでいて、暴走の兆候を一切見せなかった、例外。
(やはり……動いた)
街から参照できなくなった魂。
だが、完全には失われていない。
(引き剥がされた、か)
「消失時刻は?」
「正確な特定はできていません。ただ、数分以内であることは確かです」
ラファエル・アーカイブは、盤面から視線を離さない。
「転移ではない、と?」
「はい。少なくとも、通常の手法ではありません」
沈黙。
やがて、別の警告が重なった。
「……観測塔からの緊急報告です!」
管理官の一人が声を上げる。
「高速侵入反応を確認。一つ、大きな魂が、街へ向けて接近中です!」
数値は、通常の上限を軽く超えていた。
ハルヴェルは数字を見て、眉をひそめる。
「……この街に、正面から突っ込んでくる度胸は大したもんだがよ」
短く舌打ちする。
「防衛配備はどうする?正直、俺は一段階上げたい」
その言葉に、室内の空気が張り詰める。
「即応部隊は動かすな」
ラファエルが即答する。
「だがよ━━……止める方がマズい、って顔してやがるな」
ハルヴェルは、低く言った。
ラファエルの説明を聞き、ハルヴェルはゆっくりと目を閉じる。
「抑制状態で強制干渉……反発、か」
一度、深く息を吐く。
「……分かった。迎撃はしねぇ」
だが、すぐに続ける。
「ただし、見逃すわけじゃねぇ。監視は最大でいけ」
「通す、ということですか?」
「監視下で、だ。街を賭ける気はねぇが……ここで突っ張るのも、得策じゃねぇ」
それ以上は言わなかった。
「監視レベルを一段階引き上げる。魂波長、空間歪曲、存在密度……全部だ。一つも落とすな」
「了解しました!」
管理職員達は、各所に慌ただしく伝達を始めた。
「……なぁ、ラファエル」
ハルヴェルが、珍しく声をかけた。
「こいつは事件か?」
足を止めず、答えが返る。
「事件と呼べるなら、まだ良かった。これは、“前兆”だ」
ハルヴェルは、静かに笑った。
「……そうか。なら、覚悟だけは決めとくか」
その日の夕刻。
街は変わらず日常を続けていた。
市民は笑い、冒険者は酒場に集い、誰もが異変を知らぬまま、夜を迎える。
ただ一つだけ。街そのものが、静かに警鐘を鳴らし始めていることに、気づく存在が、確実に増えつつあった。
それはまだ、音にならない。
言葉にもならない。
だが。
この街で起きた“欠落”と、それを追って侵入する“抑制された巨大な魂”は、いずれ、避けられない形で交錯する。
それを知るのは━━
“抑制”という言葉が、意味を失った後の話だ。




